第十章 二

 乗った馬車が走り出す。中に人はいない。窓は打ち付けられており、外の様子はいちるの感覚でなければ探ることができない。神酒に効果も薄くなり、日に日に身体がだるいような気がしたが、頭を壁にもたらせていると振動が伝わるので頭痛になる。何も考えないようにするのが最良だった。

 祭礼について、大雑把に表現するとレグランスが言ったようなことになる。

 満月の日に、供物を捧げ、神殿にて祭司による祭礼を執り行い、浄化の儀式とする。オルギュットの力を行き渡らせて、普段溜まりがちな不浄を一掃するのだ。

 その他、何か秘められた意味や儀式があるのではとしらみつぶしに探ってみたが、特にめぼしいものは見当たらなかった。

 一つ気になるのは、神殿は、現在は街の北東の祭事宮に当たることだ。古い神殿の上に宮殿を建て、専用の施設にしてあるようだ。書物のとおりの歴史を踏んでいるのならば、さぞかし怨念のこもった場所だろう。

 王宮を抜けると、結界の膜が緩くなる。固い寒天のようだったものが、粘度あるぬるま湯のように。どちらにしろ不快には変わりない。いちるの感覚が広がる。だが、その目も銀夜王の領域には阻まれてしまう。別宮も例外ではない。

 だが、いちるは身体を起こした。

 違う。

 道が。

 がんと御者台の方の壁を蹴る。

「どこへ行く!」

 答えはない。別の場所にアンバーシュがいるからそちらに向かっているのだろうか。だがすぐに打ち消した。そんな甘いことがあるわけがない。

(ぬかった。本当に大人しくしているから真実忙しいものと思い込んでいた)

 思いきり力を振り絞る。

[アンバーシュ――!]

 結界は王宮より緩い。決死の叫びが聞こえるかもしれぬ。わずかな望みにかけて呼ぶ。

[アンバーシュ!]

 気付け。頼むから。

 もし実際に響くのならば、街の住民たちが何事かと騒ぎ出すほどの声量になっただろう。音を響かせぬ声というのは、何倍にも膨らみ、大きくなることがある。

 己の必死さで目の端に熱が昇る。喉は使っていないというのに、焼けるようだった。汗が伝い、唇を噛む。車が目指しているのが祭事宮だともう一つの目で捉える。

 何をさせようというのか。生贄か、婚姻の儀か。逃亡せねば後がないことは分かる。甘い己に吐き気がする。目眩が止まらぬ。この先の振る舞いをめまぐるしく考え、自己の防衛に備える。だが、一人では不可能だ。この国が夜に包まれているように、この土地には隅々にまでオルギュットの手が及ぶ。ここはあの男の国、銀夜王の守護地。最初から踏み込ませなければよかったのか。アンバーシュに、外側から攻撃させるべきだったかもしれない。引き合ってしまったことが、この失態か。情の交わした男女はこれだから。

 そう考えているうちに、自嘲と苦笑で気力が湧いた。


 逆らってみせよう。最後まで。

 思うままにできると考えているのならば、あの男もそれまで。

[……アンバーシュ]

 時は早まったが、予定通りに進めよ。

 ――だが、必ず妾を救いに来い。


 祭事宮に入った馬車は、どこか長い坂を下りていた。周囲の音がなくなり、どこか暗い場所へ入り込んだことが分かる。意識が引きずり込まれそうになったため、異能をぴたりと閉ざして、深く心を鎮める。

 深く暗い、地底。恐らく、真の銀夜王の国。

 浮かんだような感触があって、わずかに前にのめった。静かに扉が開かれ、銀色の手が差し出される。気味悪く思って覗き込むと、銀光を帯びた人形のもの、恐らくオルギュットの眷属がそこにいた。いつの間に、御者と入れ替わっていたのか。もしくは、人の形を擬装していたのか。

 一応、手を借り、一歩を踏み出す。辺りは暗いが、足下ははっきりと見える。自分だけが発光して、この身体の形をつくっているようだ。だが道も、何の建物も捉えることが出来ない。闇ばかりがたゆたっている。裾が霧のように沈んでいることから、雲や水、何らかの流れと同じように粒子になっているのだろう。

 ここでも意識を伸ばそうとすると向こうから絡められる感触がある。千里眼も神の領域では無意味な代物だった。

 銀の眷属が揺れながら先導する。いちるには見えないが、方角が分かるらしい。さほど行かぬ間に、結界をくぐる感触があった。空気が揺れ動き、黒色が一掃される。

 何の匂いもない温度の低い大気が、花と水煙の冷気に変じた。

 足下の黒い霧は、薄水色の花に埋め尽くされる。

 どおどおと滝の音が地鳴りのように響いている。立っているところは、切り立った崖らしい。立っているここを島にして、取り残すようにして、見渡す左右の遠くから、巨大な瀑布が水しぶきを飛ばしている。

 前方の空は、銀と薄紅のまだらに染まり、まるでフロゥディジェンマの毛並みのようだった。白い月は、どちらかというと赤味を帯びて、ぽってりと浮かんでいる。

 空の島、という言葉が浮かんだ。異界の空、その中空に浮かぶ銀夜王の住処。いつの間にか前方にたたずんでいたオルギュットは、合わせた手の中に何か囁きかける。そうして開いたそこから、銀色の光が解き放たれた。

 光は薄紅のまだらの空へ消える。

「来たね」

 両手に包んでいたものに語りかけるのと同じ顔をして、オルギュットはいちるを迎え入れた。

「迎えは無事に役目を果たしたようだよ」

 いちるは顎を引いた。

 気付かれている――クロードが潜り込み、ミザントリの救出に動いていること。

 気付かれぬはずがないとは、いちるも知っていた。だが、強いめくらましの魔法を使った上で、大きな動きを見せねば、見逃すはずだと踏んでいた。イバーマ王宮は、エンチャンティレーアのように大小の力の持ち主が住み着いている。いちいち目に留めて排除するはずがないと。

 だが、この男はそれらを正しく見極めた上で、見逃した。

 何故なら、目的を達したから。

 ここは、敵の本拠。異界に存在する。だが、この異界と現世を渡る術がいちるにはない。頼みの綱の異能の力は使用が不可能。迷い込めば、戻ってこられる可能性はなきに等しい。

 盤上で言うなら『詰み』だ。追いつめられた。いちるの手はない。残りは、アンバーシュや彼の周辺の物が持っている札による。

「……わたくしがここに来たのだから、あの娘は用済みでしょう」

 オルギュットは噴き出した。

「そのように警戒心を露にしては、余計に嗜虐心を煽るとは思わないのか」

 いちるはぐっと顎を引いて顔を背けた。何となく意識しつつはあった。普段の横柄で尊大な態度はよく嫌われるものだが、ある特定の人種に向けて、そういった強い拒絶や傲慢な物言いはひどくそそられるものらしい。だからといって手弱女(たおやめ)になれるわけもなく、黙って人形のふりをするのが最善と考えてしまっている。考え直すべきなのだろうか。

 今ここでこの男にしなだれかかれるか。

(無理だ)

 オルギュットがいちるの全身に目を滑らせている。真紅の、と呟いて。

「真紅の地に、黄金を思わせる毛皮。帯は金糸。耳飾りは、つけていない」

 足を後ろに滑らせていた。

 男は、それは誰のための装いかと問うている。

 着替えなどここには用意されぬだろう。身につけているものを奪われる事態は避けたい。もし、衣服を剥ぐ理由をつけるためにアンバーシュのことを罠にしたのならば、本当に、この男は。

「最低」

「他人のための装いは業腹だな。それも相手が我が弟とは。ただ最初に現れたというだけで。何も知らぬあれは、いつか君を殺すことになる」

 腹部を意識したいちるに「違う」と声がかかった。

「呪いではなく、手にかけるということだ」

 そうしてそのまま背を向けていく。花の咲く島を突っ切っていくと、下る道があるらしい。話が聞きたいのならばついてこいという意味だ。どこまでも勝手な男だ。


 道を行けば、花の姿が変わる。白かった花弁は次第に黒っぽい色を含んでいく。入り口に近い方が白いらしい。入れ替わるようにして、空が白く染まっていく。月は珊瑚よりも濃い、血の珠の色に見える。

 裾を引かれた気がしてふと振り返ると、花の蔓が絡み付いている。千切れる音がして離れたが、今度は別の方向から引かれることになり、眉をひそめた。これは。

 横から手を取られると、花々は引くようにして手を離した。オルギュットの目を見る。紫眼は、常よりも銀の輝きを帯びている。まるで、この世に弾かれた異眸のものと同じ。

「あなたは」と言いかけたいちるの手を引いたまま、オルギュットは歩き出す。根ざしているはずの花が道を開け、時折、構ってもらいたいとばかりに花を揺らす。遠くからやってくる水の飛沫が、頬に冷たく感じられる。また、オルギュットの手が柔らかく熱いのを。

(払いのける、べきなのだろうが……)

 下手をするとこの地の植物に捕まってしまう恐れがある。主たるオルギュットには手が出せぬらしいが、離れるとまた手を引こうとするだろう。己の安全を取ってしまうことが憎らしく、決して手を握り返さぬよう、距離を十分に開いてついていく。歩きづらいだろうに、オルギュットはただ足を進めていた。だが、恐らく正面では笑っているのだ。

 見えてきたのは、地上のものをそっくり持ってきたかのような、けれど一棟だけの、小さな宮殿だった。

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