第九章 五

「元気は元気なんですね? それならいいんですけど」

 髪を梳る。襟を留め、外套を留めるための飾りを探しながら、ナゼロフォビナが放っていた眷属が集めた噂話を聞いていた。

 鏡には、薄紫の詰め襟に銀の刺繍を施した正装の自分とナゼロフォビナが鏡に映っている。どこへ出てもおかしくない服装を心がけているつもりだが、ここまできちんとしたものは滅多に着ない。

「オルギュットがちょっかいをかけないか心配です。下手に手を出すといちるは反撃しますから。そうして自分も傷を負うんですよねえ……」

 ナゼロフォビナはうんざりとした様子でがしがしと頭を掻いた。

「知ったようなことを言って着々と支度をしてるお前がなんか嫌。っていうか、俺に手伝わせるんじゃねえよ。情報収集に、お前の着替えに。俺はお前の従者か。クロードどこ行った」

「別室で『客人』の相手をしてもらっています。クロードは彼と面識がありますから」

 気のいい友人は、その部屋を気にするように目を走らせる。

「あいつ、陰気だよなあ。真面目って感じで。末っ子だから猫可愛がりされてきただろうに」

「いちるから聞いていると、あちらの一族は非常に厳しいもののようですけれどね。よく許可が出たと思います。無礼を働いたのはこちらのはずなんですが」

「アストラスの秘蔵っ子を無下には出来んだろう。で、その本人はふらふらしてんのか。やっぱり何考えてんのかよく分かんねえ子どもだな」

 出来たぞ、と留めづらかった帯の留め具をはめて、肩を叩かれる。礼を言ってついでに客人の様子を見てきてほしいと頼んだ。肩を竦めたナゼロフォビナは、元々が行動的な性格もあって、面倒くさそうながらも部屋を出て行く。

 オルギュットが放っている疑似の星が空に輝いている。この国の欠点は時間が分かりづらいところだ。時計の針は夕刻を示しているが、空の様子ではほとんど分からない。どれだけいちるを離れているのか曖昧になるのが恐ろしい。組んだ腕を指先で叩きながら、本宮を見る。

(……多分、すでに傷だらけでしょうね)

 気を張って、不機嫌な顔をしながら時機を見て。そうして、焦っているだろういちる。苛立っているのは手をこまねいてしまっているからだ。恐らくすでにオルギュットにやられたに違いない。

「行きますから。もう少し、耐えて」

 せめて同じものを見ていたらと思うのだが、空にあるのがあの男の光なのが不愉快だった。

 やがて、訪れたオルギュットの口から漏れたのはやられたなという苦笑だった。その些細な冗談の呟きを聞きとがめたのは、青みを帯びた黒髪を揺らす青年神。

[何を笑っている? 何か含むところがあるのか]

[君がいるのが珍しかったのだよ。久しぶりだ、スズル。君がここに来るということは……]

[東の娘の様子を見に来た。アンバーシュに尋ねると、イバーマにいるという。もしその者が不当に扱われているようなら、こちらとて許すわけにはいかん。しばらく滞在し、様子を見させてもらう]

[それで、アンバーシュは何をしているのかな]

[俺はスズルの付き添いです。イチルに関して窓口になっているのは俺ですから]

 オルギュットの目が刹那、アンバーシュに向けられた。よく考えたなと褒めているのだが、高みからなので気付かないふりをする。代わりにクロードが視線を避けるように面を伏せた。

 東の大神アマノミヤの末の男神、珠洲流が、フロゥディジェンマとともに現れた時、アンバーシュもナゼロフォビナも言葉を失った。珠洲流が言うに、突然東島に現れて助けてほしいと言ったのだという。だが具体的な内容については要領を得ないため、東の神々の許可を得て、とりあえずヴェルタファレンに来たのだと。

 しかし、オルギュットの防壁を正面から切り崩すきっかけになった。東の神がいちるに面会を申し入れたのならば、誰も断る理由を持たない。東神はいちるについて保障を負っている。もし何かあれば、再び西と東に別れて戦うことになるだろう。

[嫌と言っても居座るのだろうね。分かった。風紀を乱さないと約束してもらえるのならば、好きにするといい]






 仰向けに寝そべっているいちるの瞼の裏に影が差したのだが、何故か光の粒が見えて誰だろうと思った。この国の者たちはどこかしら潜むような気配をまとっており、銀夜王と呼ばれるオルギュットでさえ、光というより影の静けさに近い。

 瞼を開けて、仰天の声が出た。

「エマ!?」

 長椅子の上にいたいちるに被さって、フロゥディジェンマが胸の上から顔を覗き込む。

[元気?]

[ああ。戻れなくて、すまなかった]

 ヴェルタファレンを託してそのままだった。心配してここまで来たのだろう。突然現れるのはこの子の特性だったが、それにしても無茶だ。オルギュットは例え光の神狼の娘であろうとも、領分を侵すものには厳しいはずだ。

 いちるの手に頭をこすりつけるようにして気持ちよさそうに目を閉じる。ひとしきり撫でられて満足したのか、上から退いて床の上にちょこんと座る。いささか満足げだ。

 だが、いちるの声に驚いて入ってきた女たちは阿鼻叫喚だった。王の加護厚き王宮の最奥に、得体の知れない少女が現れたのならば狂乱するだろう。部屋を飛び出していく。勝手に騒ぐ女たちを見ながら、いちるは、ざまをみろ、と呟いた。

 久しぶりに監視の目から解放されたと思ったのにすぐに人が来て、いちるを本宮に連れて行くという。これまで訪れがあっても出てこいとは言われていなかったため、疑わしい。嫌だと撥ね付けてもよかったが、フロゥディジェンマがいることに理由があると思い当たる。

[エマ。誰が来ている?]

[ばーしゅ。なぜろ。スズル]

 すずる、という音が名前に当てはめられなかった。西の者の音ではない。聞き覚えがあったので考え込んでいる間に、フロゥディジェンマはいちるの側をするりと離れて、どこかへ行こうとする。

[エマ、どこへ行く?]

[ココ、好キジャナイ。しゃんぐりらハ、好キ]

 思わず笑い声を上げてしまった。空を飛ぶようにして消え去ったフロゥディジェンマを見送って、いちるもさてと、迎えを前に重い腰を上げることにした。


 八方を人に囲まれ、物々しく本宮の一室に招かれたいちるは、少女神が口にした名前にようやく字をはめることができた。東の者としての黒い髪。目は細く、頭は小さい。西の者ばかりの中に混ざるとあっさりした顔立ちだ。いちるは膝をつくべきか悩んだ。様子を見にきたこともあったが顔を会わさずに帰ったと、そこにいるナゼロフォビナに聞いたのだ。

 結局、いちるはいつものように膝を折って敬意を表した。

[立ちなさい。東の娘が壮健でなによりだ]

 言いながら、東神の珠洲流は様子を見ている西の者たちに目をやった。健康に問題はないが、ヴェルタファレンでない国に滞在している時点で、厄介なことに巻き込まれているのは明らかだったからだ。

[何か問題はないか]

[ご心配いただき、ありがとうございます。お出ましいただいたというのに何の歓迎も出来ぬ上、今のところは何も分からない、と申し上げるのが正確かと存じます]

 珠洲流が出てくるのならば、何か被害を受けておくべきだった。傷をつけられた、手を出されたなどおぞましいことが起こっていたのならば、東神を出ばらせてヴェルタファレンに戻っていたものを。

 現状、言い寄られてはいるが、話し合いの結果一ヶ月の滞在を認めた状態では、反古にしたいと言い出せば確実に文字通り祟られる。これ以上呪いを受けると、いちる自身がどうなるか分からない。

[問題が起これば奏上せよ。我らは特定の者を庇護し続けるものではないが、大神よりそなたを例外と認めている]

[ありがとう存じます]

 では、と珠洲流は一歩退いた。義務を果たしたと言わんばかりだった。

[私は部屋で休むことにする。そちらはどうする]

[俺はオルギュットと話してくる。じゃあな、アンバーシュ]

 ナゼロフォビナがにやにやと笑って、先ほどからじっと立っている男の肩を叩いていった。珠洲流は澄ました様子でいちるの側を通り抜ける。懐かしい東の、初夏の緑と水のにおいが通り過ぎる。

 いちるが、東から西へ渡ってきてから、それだけの時間が過ぎていったのだ。

 深く息をしたいちると、わずかに顔を傾けてこちらを見ているアンバーシュ。二人きりになった部屋には、沈黙だけが漂う。燭台の炎が揺れる。灯火は、部屋を金色に染めて、アンバーシュの琥珀色の髪をますます輝かせている。

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