第九章 四

 足音がし、扉を振り返る。オルギュットが来ていた。だが今日はレグランスを伴っておらず一人だった。何故か嫌な予感がして、いちるは目を逸らした。オルギュットは滑るようにして、いちるの側に貼り付く。

「今日はあの耳飾りをつけていないのか」

 いちるは、何も着けていない空っぽの穴を強調するように髪を払った。

「それを確かめるためだけにわざわざ? 暇でいらっしゃること」

 どん、と本棚が揺れた。いちるはびくりとしたが、棚に向いたままの不動の姿勢を貫いた。

 背後から手をついたオルギュットが、退路を潰している。

「あまり可愛くないことを言うものではない」

 震えが来そうなほど不安に苛まれる心臓を落ち着かせようとする。振り向かなければ、その目に囚われることもない。これ以上怯まずに済む。まったくこの男とは相性が悪かった。

「部屋に戻りたいのですが」

 オルギュットは答えない。後ろで、深く息を吸い込んでいる。視界の端に見えていた拳が、ゆっくりと開かれていちるの手を探る。いちるは手を逃がしたが、囚われて、棚に押し付けられる。その手を熱いと感じるのが嫌だった。その瞬間、後頭部に触れるものがあって悪寒が走った。背筋が硬直する。オルギュットがいちるの後ろに口づけたのだ。

「止めろ」

「だったらこちらを向いて、私の言うことを聞くのだね」

 首の根元に吐息が触れる。いちるは決意し、思いきり手を振り払いながら向き直った。そうして、分が悪いことを悟る。

(この、目が。……嫌いだ)

 捕食する者の。

「私の妃になりなさい」

 分かっていながらも、心の臟が硬直を命じられたようだった。

「お断り、申し上げる」

 口の周りの筋がわなわなとしたが、はっきりと告げることができた。しかしその拒絶を予想して、オルギュットはゆったりと目を細めるだけだった。薄く開いた唇が吐息を紡ぐ。

「イチル」

「あなたはアンバーシュではない」

 それがすべての理由たりうる。何故わたしなのだと聞くことは必要ない。何らかの要素がこの男の興味を引いて、弟の妻に懸想しているだけだ。いちるはすでにアンバーシュと契りを結んでいる。時の神が常に未来へその力を放つものならば、過去に戻れぬかぎり、オルギュットが夫になることは有り得ないのだ。

 理由は聞かぬ。情を抱いてどうなるものでもない。

 オルギュットは身をかがめる。いちるは深く俯き、顔を背ける。追ってきても、再び別の方向へ顔をやる。

 その内、男は笑い出す。

「私が嫌いなわけではないだろう。それほどアンバーシュに誓うものがあるのか」

 紫紺の瞳が、いちるの横顔の輪郭をなぞる。どう見えているのだろう。頑なに他の男を拒絶しているか弱い、無力なただの女だろうか。人でも神でもないくせに、ただ顔を動かすことしかできない愛玩物かもしれない。口惜しい思いが込み上げて、胸や目に満ち始める。それすらも己の弱体化を表すようで、焦げ付くような気がした。

「あれを愛している。本当に?」

 せせら笑うかのように言われ、息を飲み下した。

 価値などないと、思い描く者の兄が言う。

「最初に現れたのがあれだっただけだろう。君は、選ぶことができるというのに。初めて己を繋いだものに囚われ続ける必要はないと、知っているだろう?」

「……それでも、わたくしは選んだ。それでいいと。そうでないなら、このように拒絶したりは、しない」

 何度も背中が震えるように、抗いがたいものがオルギュットにはある。この男の性質や、強さや、顧みることはない佇まいのせいかもしれない。オルギュットは弟に比べて、何もかもが強い。わがままで振り回すところを、無理矢理ねじ伏せて言うことを聞かせる、暴力的なものがある。必要ならば、傷を付けることも辞さない。

 いちるが決して選ばなかった方法で、彼は望むものを与えることができる。おぞましく、恐ろしく。だのに、薄暗いもので心が波立ってしまう。いっそ、委ねてしまえばと。


 けれど、空を貫いたのは琥珀の光。


「望まれるのならば、あなたが現れればよかった。アンバーシュは、わたくしを望んで手を伸べました。例え動機が不純でも、望むものを持っていたのはわたくし。手を取ったのも、わたくし」

 不愉快だと言わんばかりに、オルギュットが捕らえる手に力を込める。

 痛みに顔をしかめてはならない。これが目の前の男が感じている疼痛であろうとも、ならぬものはならぬ。

 夜空の雲を裂いて、馬車を引いて現れたアンバーシュを、いちるは二度と忘れないだろう。


「あなたは、来なかった」


 言い放つ。


「あなたではなかった!」


 鋼の残響のように、鋭く。塔を作る神話画の中央に響いた声は、二人のしばしの沈黙をもたらした。こうも必死になる己が不思議だったが、心が燃え立ち、激しい強さとなった。顔を上げ、相手から目を逸らさない。獣を前にした狩人のように。敵を目前にした射手のように。静かに、見据える。

「君の友人は、どうなるだろうね」

 その瞬間、いちるは静かに尋ねた。

「あなたが欲しいのは、わたくしの心、それとも、身体?」

 男は顎を引いた。失敗したことを悟ったのだ。

 姑息な手をいちるが嫌うことを知っているだろう。人質を引いてくるのはオルギュットらしいやり方だが、それでも今までいちるが断固と対決しなかったのは、ミザントリを置いても危害を加えることを前提としない、万が一のための布石だといちるが知っていたからだ。

 それをオルギュットは引っ張ってこようとした。

 暴力を用いようとしたことは、断じて許せるものではない。


 しばらくして、オルギュットは深く息を吐いた。そうして、ふわりと笑みを見せた。

 だが一言もなく踵を返す。彼の姿が見えなくなって初めて、いちるは力を抜いた。自然と足が折れ、座り込みそうになるのを、棚にもたれて支える。顔を覆い、吐いた息は熱い。


 アンバーシュ、と音に出さず呟く。アンバーシュ。アンバーシュ。

 こんなに不安になるのは、お前のせいだ。

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