第九章 六

「イチル」

 深い愛慕の声。

 いちるは背中を向けた。位置こそ動かさなかったが、身体を向けて、目を背けた。右手で肩を掴む。

「見るな」

 跡がつくほどに爪を立てなければ、別の声をあげてしまいそうだった。

「弱くなる」

 なんて単純なのか。己の堕落を思い知る。砦もこれほど早くは落ちない。内側から救いを求める手が、その門扉に爪を立てているのだ。ここまで足掻いてきた自身が、虚勢だったと気付き、脆く崩れていくのが分かる。胸がざわめいて高鳴り、抑えることが困難だ。空気を求めて喉が震え、唇が意味もなく動く。

 だが、ここで降伏したくない。オルギュットと戦い、少しずつ防御を剥がされてはいるが、何度も繰り返しまとってきた精神をここで解くことはできない。アンバーシュの顔を見れば揺らぐ。

(落ち着け。自制しなければならない。感情に任せて胸の内を明かすことは……)

 それも、アンバーシュが背中から抱きしめてくるまでだった。

 身体がぶつかる柔らかい衝撃と、腹部や肩と斜めに触れる腕と手。いちるが解こうと思えば可能な力強さと、わずかな隙間。手の中に包みながらも解き放つ用意がある。

 騒ぐな、と心臓に告げる。耐えればいい。息を零しても、決壊しなければ構わない。そう思い、ゆっくりと顔の近くの腕に、指先をかけた。

 アンバーシュの気配が染み込むようだった。暖かみ。信頼。安堵が打ち寄せて、思ったよりも気持ちが凪ぐ。

「一人で戦いますか」

「……オルギュットは、扱いが難しい。一ヶ月だけの滞在と約束をしたことは違えることはないと思う。だが、お前が出てくると、いっそう猛ってしまうだろう」

 アンバーシュの名前を強調してしまっていたが、冷静なオルギュットも別の男の名前を繰り返されていつも心穏やかでいられるわけがないだろう。内側にふつふつと怒りを溜め込んで、ある日報復の手段に出る可能性がある。いちるが単独で相手をするか、手の届かないところへ逃げるかだ。

 不意に腕がきつくなった。

「他の男のことを考えているのは、嫌だな」

 この男も同じだったらしい。胸が締め付けられるようになり、息をゆっくりと吐く。

「……必要なことだ。一ヶ月、もしくはそれよりも早く。わたしが確かに帰ることができる手を打っておいてほしい。まだ、何かしてくる気がする」

 図書室で押さえつけられたことを思い出した。あの時は振り向いてはならないと言い聞かせたものだが、今は振り向きたいのを抑えなければならなかった。苦笑しているアンバーシュは、きっとひどく傷ついた顔をしている。この男はいつもそうなのだった。いちるの欠陥を指摘しながら、自分が至らなかったと後悔を浮かべるのだ。力を振るうのは己だというのに、相手の傷を想像する。それらを受け止めて笑う。

 馬鹿者と言って頬をつねってやりたい。その眉間に指を置いて、押してやってもいい。そうして、笑うのだ。その時の表情は、アンバーシュが喜楽によって生まれるもの。

 いちるは喉を鳴らし、爪を立てた。痛いなとアンバーシュはいちるの耳元で笑い声を零す。

 もう、と呟いたのを、アンバーシュは更に捕らえた。

「『もう行け』? 誰が行くと思うんですか」

「…………」

「分かってないみたいですけど、これでも俺たちは新婚なんですよ。やっと離さないで済むと思ったのに。あいつ、やっぱりもう一回殴っておくんでした」

「アンバーシュ」

 髪の間に口づけを差し込まれるので、抗議の声を上げる。

「あなたとしたいことがたくさんあったんです。結婚式も大神への目通りもそうですが、まだまだキスし足りないし、俺の好きな格好もしてほしいし、見せびらかしたいし」

 息を吸い込む。アンバーシュの言葉を、自分でも想像する。壮麗な結婚式に仏頂面の自分。もしかしたらつい微笑みを浮かべるかもしれない可能性。周りは慌ただしく動き回って、自分たちも疲れて眠るのだ。寝台に、二人。並んで。

 すると、もどかしいような、むずがゆい感覚がせり上がってくる。

「もう、だめだ……」

 呟いたいちるは、腕の中で身を返した。

 アンバーシュの青の瞳を見た瞬間、零れた。




「――触れたい」




 わずかな距離を逃さぬように、腕を絡めて男を引き寄せる。己から寄せた唇がアンバーシュのそれと重なって、吐息が溢れて絡み合う。

 驚いていたアンバーシュもいちるを引き寄せると、折れるほどに抱きしめながら熱を交わしあった。

 倒れ込む寸前に押し返すことを繰り返して、ただただ、求めた相手から何かを奪うことを望んでいる。傷が欲しいのならば剣を取る。血が欲しいなら歯を立てる。今は、相手のすべてがこちらを向くことを望んでいる。

(何も考えられないほどに)

 食らい尽くして、しゃぶりあげて。害したいというのに似た欲望。

 触れても掻き抱いても、足りないから、意味もなく首にしがみつき、胸から滑らせ、顔を引き寄せる。そうしていると、目尻に水の粒が溜まっていく。苦しい。胸が。弾けそうだった。



 そうしてしばらく経った。お互いが声のないままに相手を求めていたが、高ぶりが過ぎると呼吸を整える音が響いていた。

「時間が、あったなら」とか細い声でアンバーシュが言った。

「もっと他に過ごしようがあったんですが、時間を決められているので……」

「分かっている」

 指の腹や手の甲で頬を撫でられる。柔らかい口づけが瞼に降り、いちるは気怠く溜め息した。あまりくっついてくるなと押し返すと、小さく笑いながらも止めない。気力は十分に回復したのだが、疲弊したので、立っているアンバーシュを柱にする。アンバーシュは頭を撫でて髪を梳いている。

「柱は笑わない」

「はい」

 黙って、伝わる鼓動や温もりを触れようとする。静やかなものが満ちる。今、何かをしてほしいわけではない。そこにいて、受け止めてくれさえすればいい。思う存分触れた後ゆえに、安らぎが欲しい。それを察して、アンバーシュはいちるを抱きとめていた。

 じわりと流れ込んでいるものは、男の感情だった。穏やかさ、せせらぎのように触れてくる想い。いちるはそれを直視しないように押し返したが、その強さが増したので呟く。

「余計なものを見せるな」

「見てほしいから、心を開いているんですよ」

「見たくない」

 分かりきったものを見たいとは思わぬ。少し前にその心象風景に振り回され、精神が破裂するのではという思いを味わったのだ。同じ物を見せられたら、次こそは殴って止めさせる。だが、いちるの強い拒絶に関わらず、アンバーシュから流れ込んでいる心象が勢いを増してくる。

「アンバーシュ」

「あなたの心読は、読み取ろうとすれば根深いところまで見ることができますが、その人が強く刻んでいることがよく見えるんでしたよね」

 抗議の呼びかけは、この時になって必要とは思えない確認の言葉に消える。いちるは眉をひそめる。アンバーシュは、何を目論んでいるのか。

 琥珀色の飴が蕩けるような微笑みで言う。

「見てください」

 罠なのか。戯れなのか。一見して甘く感じられる誘いに、いちるは逡巡する。森の奥に魔法の果実があると告げられ惑わされた者は、このように思い悩むのだろう。相手が自分を危害を加えるとは思えないが、あまりに甘美な囁きに警戒心が先立つ。

 しかし、いちるは手を伸ばした。

(アンバーシュは、決して妾を傷つけぬ)

 何を見せるつもりなのか、何にしても焼き付けてやろうではないかと挑む。そうして、いちるが目を見開く頃、アンバーシュが会心の笑みを浮かべるのだった。






「本当に、よろしいのですか」

 レグランスの問いに、オルギュットは答えを返さなかった。肘をつき、顎を支えて、物を思って遠くを見ている。欠けた月のような横顔だ。美しく、鋭い。冷たい表情。

「やり方は変えるが、アストラスの意志には反していない」

 それだけを告げて、退出を命じる。大人しく従いながら、レグランスは言い知れぬ不安を覚えた。あれだけ憂いているオルギュットはめずらしい。千年姫の存在は、王に悪影響を及ぼしている。

 けれどもう命じられてしまった。自分に出来ることは、彼が己の足下にある闇に落ち込むことがないように手を打つだけ。

(月が満ちる。銀月が完成すれば、祭礼を行わなければならない)

 オルギュットが言うように、変更点はあるが、すべて予定通りに行われている。レグランスは、高貴な客人を迎えるために指示を出すべく、別宮と線対称に建つ城下の祭事宮へ向かった。

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