第八章 五

 朝を迎えても、夜は明けない。銀星が輝き、真珠玉のような光が、中点で淡く輝いていた。あの不思議な光は何だろうと探りながら、今日も厭わしい着替えをまとう。衣装は、青紫色をした、手首の裾がひれのように広がっているものだった。

(あれの趣味かと思うと)

 胸に沸いた不快が弾け顔が歪んだ。鬱陶しいひれはどこまでも追いかけてくる。

 乳と塩と牛酪で野菜を煮込んだ温かい汁物という食事を終える。ヴェルタファレンでは、書物を読んだり、クロードに貴婦人としての教養を学んだりとすることは様々あったが、行動が制限されている虜囚としては、図書室に行くことくらいしかない。レグランスという女がいつやってくるか分からなかったので、奥宮と呼ばれる場所を検分することにした。

 おおよそミザントリの言うような造りだった。奥宮と別の棟を行き来するには、南へ伸びる通路を行かねばならない。鉄の門扉があり、衛兵が立っている。鉄柵の造りは、どのような道具を持ち出しても曲げられそうになかった。その上、結界が働いている。天井近くに輝いている紫の石は、魔力を秘めた魔石だ。

 とこしえに夜である国だが、風を遮る廊下に柱がいくつも立ち並び、大きく外へ開けている。見えるところに植物が茂り、いささか元気がよすぎるほどに巨大だ。国の西部に火山があり、その周辺は溶岩帯だと書物で調べてあった通り、この国には地熱が通っているおかげもあるのだろう。だが、この国の民の生活を支えているのは、ひとえに太陽神が愛したということに尽きるかもしれない。神の恩恵がなければ、この国は立ち行かないだろう。

 太陽が去ったということは、活力、生命から遠い場所にあるということ。この国は恐らく死に近い。それを留める存在、太陽に変わる力が、大地に何らかの影響を与えているに違いない。何か秘された儀があるのだ。

(それが弱味になるか)

「姫様。ごきげんよう」

 いちると同じように、ぞろぞろと女官を連れてミザントリがやってきた。

「今日のお召し物、とてもよく似合っていらっしゃるわ」

 聞かなかったことにした。初めて褒められたという記憶からも抹殺する。

「よく眠れましたか」

「ええ。わたくし、枕が変わっても眠れますの。きっと図太いんだわ。虫も動物も平気で触れますものね」

 ほら、と欄干に止まっていた蜻蛉らしき羽虫を指先に乗せた。ミザントリが指を跳ねさせると、何とも優雅に羽を動かして、白い羽は星の中に消えていった。山奥に隠れ住んだことのあったいちるにとって虫はいて当たり前の存在だったが、虫を愛でる姫は奇異だという故事がある。ミザントリはその類いだ。

「別邸が森の中にあるのはそれが理由なのですか?」

「そうです。あそこは自然が豊かですもの。本当は、もう少し奥の方に家が欲しかったのですけども、闇が深くなれば魔眸が歩きますし、生活がしにくくなりますから断念したんです」

 せっかくなので中庭を見ましょう、と言ったミザントリに並んで、建物の中央部分に開かれている、巨大な緑の中へ潜っていく。

 ぱちぱちぱち、と弾けるような音を鳴らして、見たことのない虫が硬質な羽をはためかせていった。地面を蟻が這っていく。踏む土は柔らかい。身体を隠せるほどの巨大な緑葉に触れる。固い繊維が通っているのが分かる。

「何故この土地に植物が根ざすのか。知っていますか?」

「――楽土を模しているからです」

 影のような声音に驚く。気配をまったく感じなかった。低くまろやかな声は、草の陰からしていた。

 夜の訪れのごとく音はなく、宵闇と同じ静けさで、月の影を伴って現れた女。首を覆う巨大な銀の首飾りが目に入る。長い髪を二つに編み、褐色の面を伏せて、いちるに不意を詫びる。

「ごきげんよう、ミザントリ嬢。初めまして、千年姫様。お呼びと窺い、呪われた身なれど、御前に参じました」

 ミザントリを見る。彼女は、この女がオルギュットの側近だと何の疑いもない目で、いちるにどうしたのかを尋ねてくる。

 慎ましく目を上げるレグランスの目が、粉を吹いたような朱金色に輝いているのを、不思議なことだという程度にしか受け止めていないのだ。

 ――魔眸の女、レグランスは言った。

「姫様のお目は、特別ですから」

 魔法を知る者にしか分からぬと暗に言われて、頷いた。他者に危害を加える様子がなければ、魔眸は足下にある影ほどの脅威だ。目を奪われ、落ち、囚われさえしなければいい。

「楽土とは?」

「大地の女神が作りたもうた、楽園です。世界の彼方にあると言われている、神々の休まれるところを指すそうです。イバーマの民は、太陽神から伝えられたその土地を再現しようとしたのだと言います」

 真っ直ぐに異眸を向けられると、意図せず怯んでしまう己がいた。あまりこれらにいい思い出がない。

「ご用向きをお窺いします」

 いちるを牢獄に入れたあの女も光る目をしていたが、しかしレグランスはあれとは異なり、高潔な何かを感じる。オルギュットの側にいると聞いたから、自負やうぬぼれを抱いていると思っていた。あわよくば悋気を煽り、情報を引き出したり、軟禁状態に変化をもたらさないかと期待したのだが、自制がきく人間は少し手こずる。

「あなたとオルギュットの付き合いは長いのですか。どういう関係で、側付きに?」

「以前、王妃の位を賜っておりました」

 ミザントリが硬直したので、レグランスはくすくすと軽やかに笑った。

「三代前です。それ以来、オルギュット様とは、もう二百年ほどお付き合いさせていただいております」

「レグランス様は、半神でいらっしゃるのですか……?」

「半神と人間のはざまのようなものです。影のようなもので、不意のことがあれば、身は朽ち、魂は消滅します。……そのような契約なのです」

 恐る恐る尋ねたミザントリに答え、いちるにはそのように囁いた。人間は、魔の物とある種の繋がりを持ったことで堕落に転じると聞いていたが、その実物がこの美しい女らしい。

「だが、あなたは己の意志を保ったまま立っている。それは何故?」

「この国の祭具にも用いられている、銀の装飾品のおかげです。私の首のものがそうです」

 多くの銀と石を繋ぎ、襟巻きのようにした豪奢な飾りだ。鏡のような色が肌によく映えて美しい。そう伝えると、彼女はひけらかすことなく、静かに礼を述べた。

「あなたのような者がこの国には大勢いるのですか」

「いいえ。私一人だと思います。私はたまたまオルギュット様のおそばにいたので、落ちる寸前に引き止められ、この首飾りをいただいて今日まで過ごしているだけなので。千年姫様も、あの方にはご苦労されると思いますが、不用意にけしかけない限り楽しい御方なので、ご厚情を賜りたく存じます」

「アンバーシュに会いたいと、あなたに言っても無駄でしょうね」

 はいと揺るぎない返答があった。

「オルギュット様のためになることなら何でもします。今の千年姫様のお願いは、オルギュット様の意志に反することですので」

「あなたにとってオルギュットとは?」

「私の恩人。私の世界です」

「一つだけ頼みがあります。あなたの主に許可を得た後で結構ですが」

 いちるの言葉に、レグランスは噴き出す寸前の顔をした。

「分かりました。一応、お尋ねしてみます。でも何故そんなことを?」

「目覚めてからも怒りが収まらなかったので」

 レグランスは頷き、辞していった。イバーマ王の補佐は多忙らしい。

 そこに留まっていた二人は、同時に息を吐く。いちるは己に、ミザントリは別のものだったようだ。

「お綺麗な方なのですが、緊張してしまいますわ。発される雰囲気のせいかしら」

 彼女の周りに、黒い影が落ちているのをいちるは見ていた。人が生まれついた時に与えられるものとは違う。周囲の光を飲み込む穴のようなものだ。ミザントリが感じるのは引き込もうとするその気配だ。

 しかし、死者あるいはそれに準ずる者についてオルギュットがそこまでしてやる理由がある。彼女の献身を有用なものだと思い、取り置いているのだろうか。気まぐれに救ってやってあの女の心を手に入れたのなら、夜の国の王はなんという悪党だろうか。

(だが……分からないでもないのだ。妾にアンバーシュが手を伸べたように……あの男はレグランスに手を伸ばしたのかもしれぬ。手をすくった者をその後どのように扱うのかは、相手によるのだ)

 アンバーシュはどちらだろうか、と考えた。これから後、いちるのことが面倒になって放り出さぬ保証はないのだ。人の心がうつろいやすいものならば、何倍と生きる神は言わずもがな。いちる自身も、この百年と同じ己ではいない。

 短く揃えた髪に触れる。

「髪が、気になるのですか?」

 隣にいるミザントリが尋ねる。寂しい顔の理由にすぐに思い当たったいちるは言った。

「無礼者に切られたので切り揃えました。そのような巡り合わせだったのでしょう。このような頭はずいぶん久しいですが、気分が悪いわけではありません」

 発端は彼女の茶会。己の手で髪に鋏を当てたのだから、ミザントリが気に病む理由はない。だが考えてしまうのだろうか。「よくお似合いです」と微笑む顔は痛々しく映った。

「短いと殿方のようで颯爽とした印象ですわ。わたくしも短くしようかしら」

「わたくしのところへ来たのは、何か用事があったのではないのですか」

 苦笑されてしまう。

「何でもお見通しですのね……実は、奥宮と内宮におかしなことが起こるらしく、姫なら分かるのではと思って」

 廊下を影が歩くのだという。時々人の後ろについて、ひたひたと足音がするのだとか。

 古い建物にはよくある怪異だ。焼き付いた人の思いや、溜まった澱みがそこにいる者たちに反応して形を作ったり、もっと直接的ならば誰かが呪詛を飛ばしているということもある。東では俗に霊と表されるもので、力あるものを神霊とも呼ぶ。

 そこで話を聞いていた一人を呼び、何がどこで起こっているのかを尋ねた。細面で、栄養不足の青白い顔をした娘は、卑屈そうな顔つきで奥宮の一画を指し示した。

「私が見聞きしたのは、奥宮の衣装部屋でのことです。あそこは、様々な年代の、様々な衣装が収められているのですが……そこでいつも、人の気配がするのです。私が聞いたのは『触るな!』という怒鳴り声と、手を叩かれ、身体を突き飛ばされる感触でした」

「わたくしも、部屋まで誰かにつけられたような気がして、振り返ると、影がわたくしとは逆方向に走っていくところでした。女性でしたわ。多分、高貴な」

 あつらえたかのような霊だった。悪さをしているのではなく棲んでいるらしいので、オルギュットはその程度の小物と放置しているのかもしれない。こんなところまで来て悪霊退治とは、と苦笑いしながらも、暇つぶしにはなろうと腰を上げる。異能の訓練とともに、一通りの祓いは身につけている。さて夜の国の王宮に住み着くとはいかなるものぞと、楽しむ気概で挑むことにした。

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