第八章 四

「レグランス・ティセル殿に会わせていただきたい」と告げた。時計の針は深夜を差しているが、それに構わずやってきたのはオルギュットの方だ。「小鳥が余計なことをさえずったかな」とうそぶいている。こんな時刻にやってきて、女官に茶を用意させていた。腰を落ち着ける気なのだ。

「奥宮に人がいる時は、ここで休むのが習慣なんだ。官吏たちはここまで入ってきたがらないから」

「理由は」

「女の怨念が染み付いているからだそうだよ」

 女の扱いはいまいち、と評価を入れておく。兄と弟では、情人との関係にこれほど差が出るものらしい。片や終始入れ替わり、もう片方は臆病ゆえに長く続く。どちらがいいとも言えない具合だ。

 硝子の杯が二つ持ってこられた。注ぎ口が広がった小片細工の壷から、深紅の酒精が香る。葡萄酒だった。

「酒は嗜む?」

「……それなりに」

「結構。付き合いなさい」

 華奢な硝子の足を持ち、口を付ける。おかしな味はしない。熱く、甘い、上等な葡萄酒だ。鼻から抜ける、開いた花の香りが心地いい。少しだけ身体が温もる。心無しか、身体が軽くなった。

「神酒だ。少しは身体が楽になるだろう?」

 気のせいではなかったらしい。清められた酒の神気を取り込んだのだ。無言で杯を握った。表面ばかり温もって、芯は冷えていた。凍えるようだ。何度も息を呑み下す。

「大神が答えを寄越してきた。――『呪詛は解かない。望みが叶えられなかったから』……アンバーシュを止めなくてもよかっただろうに、君は案外いい子なのかな」

 命は長らえるかもしれぬ。だが、それでは不幸だ。そう思ったから止めたのだということを、いちるは言葉にしなかった。石持て追われ、批難の中で感じる幸福は、ただ苦痛を伴った縄になる。どちらも引き裂きながら求め、傷を膿ませて、腐って倒れる。

 オルギュットは深く息を吐き笑う。

「こんなものでは酔わないか。もう少しいいものを持ってくるんだったかな」

[……もう休ませていただきたい。今日は一日めまぐるしかったもので、お相手は務まりませぬ]

「声を出せないほどに疲れた?」

 衣擦れの音にぎくりとする。腰を浮かしたのを、オルギュットは微笑していた。目を伏せ、請う。

「御前を失礼することをお許し願います」

「そこで眠ればいい。しばらくしたら運んでやるから」

 そんな恐ろしいことができるものかと内心で反論する。眠り込んだら最後、この男はいちるを毒牙にかけるだろう。ことさら疲れた、休みたいと主張すれば、自分の前でわがままを言うのかといたぶられる。かと言って、この男の尊厳や認識を傷つける適当な攻撃文句も見つからず、じっと相手を睨んでいた。

「大人しくいるのは君の性分ではないだろう? 行動してみたらどうだ。情報を引き出したり、要求してみたり、出来ることはたくさんある。私はそこまで自由を奪っていないよ」

「あなたが欲しいのは、自分の思う通りに踊る人形だ」

「その役目に甘んじないから、面白い。そういう女を妃にしたこともあったが、とりわけ君は興味深いな。東の女と話すのも、触れたのも、初めてだ」

 杯を取り上げられ、代わりに手のひらが滑り込んできた。咄嗟に拳を作るが、親指が、いちるの手の甲や指の背をくるくると撫でた。

 剣だこと、筆だこがある。固くなった指先の感触に、言葉以上にオルギュットが忙しく働いているのが感ぜられてしまい、目を背ける。日常は手に現れるものだ。動くし、座っているのだろう。冗談まがいの言葉が彼の本質のすべてではない。

「アンバーシュは、優しい?」

 手がいちるの拳をさすり、目がずっといちるの横顔や、髪や、首元を行き来しているくせに、尋ねるのは他の男のことだというのが、いやらしい。平静を言い聞かせて答える。

「比べたことがありません」

「そう。優しくしているのか。変わっていないな。あれは昔から、宝箱に入れるようにして恋人を慈しもうとする」

 目を閉じる。戻りたい、と切実に思った。こんな風に嬲られる謂れなどない。神とは、どいつもこいつも身勝手で迷惑なやつらばかりだ。

「君は、綺麗だな。耐えている姿はそそるよ」

 胸がざわついた。

 目を閉じてはいけなかった。

 オルギュットの声はアンバーシュによく似ている。形容の言葉の、わずかに掠れた音が、本人ではないかと錯覚してしまった。一度動き出した鼓動はなかなか静まらず、呼吸が乱れる。

「心にもないことを……」

「戯れは言うが、嘘は言わない。私の目を見れば分かるのではないかな」

 イチル、と囁かれたのが限界だった。

 椅子を蹴り立てて逃れた。派手に机が転び、硝子の杯が落ちて、一つが割れた。がしゃんという音は儚いというより、叩き付けた拳のようだった。いちるは暴れ、己を組み敷く男から自由を取り戻そうとしたが、動けたと思っても同じところに戻されてしまう。

「離せ!」

「逃げるから悪い。じっとしてごらん」

 言うくせに、手は離さないし、膝の間に足を割り入れている。身動きすれば押さえられる。顔を背ければ覗き込んでくる。近付いてほしくないと思うために勝手に動く身体を制するのは至難の業だった。握られた手首が痛い。指先までの血の流れが弱まり、白く、冷たくなってくる。

 抑え込まれた獲物が諦めるように、乱れた息と鼓動が止まぬまま、少しは静かにすると、確かに、オルギュットは何もしてこなかった。いちるの呼吸に合わせてとくと見下ろしたり、もう片方の手で肩を撫でたりはしてきたが、静かに眼差しを注ぎ、押さえている生き物がいったいどういうものなのか、確かめてみようとしているようだった。

「感触も、鼓動も……人、か……」

「っ!」

 ぱらぱらと指が唇に触れて、思いきり顔を背けた。

「唇も柔らかいね?」

 子どものように明るい声で言われた後、解放された。いちるは起き上がり、床を汚した机や器や酒壷を見て取ると、火がついた怒りのまま、掴んで投げつけた。

 物凄い音がした。

 壁が欠け、机の足も割れたのだから当然だ。オルギュットが、信じられないものを見たかのように、破壊された机と、穴の空いた壁、そしていちるを見比べていることが、気分をわずかに払拭した。

 史上最高ほどの重量物を担いだものだから肩を痛めてしまったらしい。だらりと右手を下げて、荒く息をした。

 まだ、足りぬ。酒壷を叩き割って、破片を投げた。これについては、オルギュットは平静を取り戻し、冷静にかわしていた。

[戯れも過ぎれば害悪ぞ。身を守る大義名分を与えるのなら、妾は思う存分この宮殿とここにいる者たちを傷つけてやる]

 ミザントリのことは頭の隅にあったが、それよりも己を守ることを優先すべきだと判断した。彼女の懸念を真実にするわけにはいかなかった。

[もしミザントリに手をかけたなら、果てまで追いかけてお前とお前に縁のある者を同じ目に遭わせる。心を暴き、他の者に垂れ流して中傷する。お前が妾にしているのは、そこまで言わせるほどのものだと思い知れ!]

 泥沼にはまるのならはまってやる。ミザントリに何かあれば最後まで責任を持とう。伝手という伝手、力のすべてを使って、彼女の六十年の人生を幸福で終わらせてみせる。

「……机を投げるとは思わなかったな……」

 と呟いたオルギュットは両手を挙げて謝罪を口にした。

「悪かった。無礼を働いた。確かに、遊びですることではなかったな」

[謝罪になっていない!]

「しかし、疲れているんじゃなかったのか? あれは紫檀で出来ていて相当重いんだが」

[だから?]

「分かった。今度から、先ほどのようなことをするなら本気の時にする」

 外の者に声をかけると飛んできた。派手な物音がしたので様子を窺っていたらしい。いちるの髪と服装の乱れを見て取ったが、何もないことに驚いた顔をしていた。何か起こると勘繰っていたらしい。想像することさえはらわたが煮えくり返る。

「アンバーシュに会うなら伝言をお願いします」

「嫌とは言えなさそうだ、どうぞ」

「では……『お前の兄はお前そっくりだ。昔のお前だがな』と」

 心外と眉を上げたオルギュットに慇懃無礼に告げる。

「休ませていただきます」

「……、どうぞ」と、言いかけて止めた後に許可が下りる。出て行こうとすると呼び止められ、その顔つきに苦笑が返った。

「神酒やそういったものは定期的に届けさせる。君を殺したいわけではないからね」

 最後にオルギュットは言った。

「明日、レグランスを遣わせる。彼女に会うのは構わないが、驚いて危害を加えないように。君の方が食われることになるよ」

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