第八章 六

 人としての安息を捧げ、無限を得た代償に、光に弱く、悲嘆と痛みに敏感になり取り憑かれるようになった身体は、銀の首飾りでなんとか繋ぎ止めている。


 部屋に入って、レグランスは足を止めた。自身が望まずとも惹かれてしまう、苦しみと痛みが漂ってきたからだ。

 椅子の上でオルギュットがこめかみを抑えていた。目が閉じられ、眉間に皺が寄っている。有り得ないほどくたびれた姿に、レグランスは思わず扉が閉まっているかを確認した。

「オルギュット様。具合が」

「いつもの病気だ。今夜か明日だろう。結界と人の手配を頼むよ」

 物憂げに言って、髪を掻き上げる。

 額が露になると、彼は弟と非常によく似ている。違うのは髪と瞳の色、年齢のために幾分か差のついた容姿。オルギュットについて対面したことのあるアンバーシュ王は、金の髪に青い目をしていた。青い目は水色で、剣呑に目を細めると藍色がまだらになっているようにも見えた。彼はあと数百年もすれば、兄と大差ない見た目になるのだろう。

「巡りとはいえ、毎回こうだと気が滅入る」

 大地神の理から外れ、いつまでも夜が明けぬこの国は、世界の中で異界の際にある。調停国の王と呼ばれているが、即位直後は結界守の意味合いが強かったそうだ。

 オルギュットは、生まれた時から半分が人とは思えぬほど力の強い神だったらしい。祖である月神の支配を受けて、彼の力は満ち欠けする。強力である反面、不浄を取り込みやすい。彼の力の強さは、脆弱さと表裏一体でもある。

「今は千年姫様をお迎えしているので、そのお疲れも出るでしょうね。少し人を増やしておきましょう」

 医師と祈祷師の数も、と心の中で付け足した。

 王は溜め息のついでに微笑う。

「彼女の相手は本当に疲れる。我が弟ながら、物好きだな。あんなに気の強くて自分勝手な女は見たことがない」

「でも、お好きでしょう?」

 楽しそうにオルギュットは笑った。心が和んだなら何よりだ。

 かつて奴隷が存在したこの国で、自分を拾い上げてくれたオルギュットはレグランスの世界の全てだ。例え呪われものと忌まれようとも、彼のためになることならば何をもためらわない。魔眸に落ちた自分は、理性の制限も外れてしまうのだから。

「千年姫様からアンバーシュ様に伝えてほしいことがあると言われているのですが、お伝えしてもよろしいでしょうか」

「なんだ、信用がないな。私も言われていたんだが。まあ、構わない。会った時に伝えてやりなさい」

 ひらひらと手を振って言われる。気軽な調子に何か引っかかりを覚えながらも、レグランスは告げた。

「さっそくですが、そのアンバーシュ様から、ご面会のお申し出をいただいております」






 なんともまあ、と口を開けるいちるだった。客室ほどの広さの部屋に、あらゆる装束がかかっている。それも色別、裾の長さ、季節ものの順だ。肩掛けや外套などの小物類も、床から腰までの長さを五分の一に刻んだ、それほど微細な違いのものが揃っていた。衣装道楽がいたのか、それとも時々に応じて作らせたものが積もりに積もるとこうなるのか。贅沢をしてきたいちるでも、つかの間呆れ返る量だった。

 部屋には細い引き出しのついた箪笥が何棹もある。古そうなものがあったので感覚を覚え、真っ先に近付くと「それは!」と制止の声がかかった。

「それが問題の……」

「でしょうね」といちるは把手に手をかけた。

 鞭がしなるようにして手を囚われた衝撃があった。ぐっと堪え、入り口に入ってすぐのところで立ちすくんでいるミザントリと、廊下から窺っている女たちに「少し出ていなさい」と告げる。

 その後、姿の見えぬ者へ告げた。

[中をお見せ。光り物ならば、光に当ててこそぞ]

 己の手に重なるようにして、黒い手が見える。

 生者の影。焼きついた思念。死者の魂は例外なく消滅する。これは魂の欠片などではなく、魔眸に落ちかけながら留まっている半端者だ。解き放たねば、呪いに変わる。

[これはあたくしのものよ。あたくしが、オルギュット様にいただいたもの]

 曖昧な存在は爪を立てるが、軽く睨み、弾くと、怯えたようにして引っ込んだ。その隙に、引き出しを引く。

 そうして、溜め息をついた。見事としか言いようのない、卵大の青石と銀細工の首飾りが現れたのだ。

 これほど巨大な宝石ならば呪物に近いだろう。魅せることを目的とした、意志の寄り集まる装飾品だ。訪れる者が鑑賞していこうとするのを、ここにいる者が嫌がり始めたに違いない。石の青に映り込む己に、別の者の面影がよぎる。

[あの男は来ぬだろうに]

 影は黙した。目を逸らし、顔を背けた気配だった。

[腹立ちを生者にぶつけるのはお止め。思い通りにならぬからといっても、お前の時は神の元に還っている]

[……レグランス・ティセルはそうではないもの]

 ふてくされたように言った声は、感情を帯びて激しく変じる。

[レグランスは闇に落ちながらあの方に手を取られた。どうしてあの子なの。ただただ泣きじゃくっていただけの、奴隷だった女よ! 死んでもなおあの方に仕える心意気は立派だけれど、それだけ]

 激した感情は、今度は涙に濡れた。どうして自分ではないのだろうと唇を噛む女が見える。それはいちるの心の奥にもかつて存在し、今でもそこで留まっている。

 いちるは、お前はよかったな、と己に声をかけた。今は優越で誇らしげにしている自分は醜く、祝福されている。

[寂しかったな]

 女は口をつぐんだ。

[選ばれないことは、いつとて悲しいもの。何故なら、この身は一つきり。幸いが選ぶのも、一つきり。だがこの世界には数多の者が生きている。選ばれないことが当然のことなのだ]

[あたくしは、王妃よ]

[欲するものがなまじ目に見えるから苦しいのだよ。もう少し離れて物をご覧。お前は別の道をいつでも歩むことができる]

 ふと、これは誰の物言いだっただろうかと考えた。稚く美しい娘が、いちるの言ったことと同様のことを話して聞かせてくれたように思えた。いちるは、じっと宝石の青に目を凝らし、その予感を手繰り寄せていく。

 ――水の色。青色。か弱かった、女神。

 宝石の主はしばし沈黙して、どのように行動すべきか考えあぐねているようだった。時を経てなお、銀は清らかな光を放ち、意匠は古式に則った高貴なもののように感じられる。

[これを着けて、オルギュットに会うというのはどうか? あれがお前のことを思い出すという保証はないが、許してくれるのならば、外の光を見せてやれるが]

[何よ、偉そうに…………でも、約束してくれるのなら、構わないわ]

 渋々、と見せかけて内実喜んでいる感触が手に取れて、笑ってしまった。

[ならば宮の者たちに嫌がらせをするのはおやめ。魅力あるものに惹かれるのは人の性じゃ]

[あの子たちうるさいのよ。あれが野暮ったいこれが貧相だとか。一生かかっても身につけられない品ばかりだから僻んでいるのね。でも、あなたも腹立つくらい偉そうに物を喋るわね]

[妾はいちる。お前の名は?]

 ぶつぶつと言っていた女は、胸を張ったようだ。

[エンチャンティレーア。レアで結構よ。影に名前を訊くの? 変な人ね]

[名を交わすのは礼儀じゃ。ではな、レア。また会おう。お前と話すのは楽しそうだ]

[ええ、ええ。いろんな噂話を知っているわ。約束、忘れないでね。絶対よ。でないと呪ってやるんだから]

 冗談とも思えぬのが恐ろしい。くつくつと笑い合うと、影はふわりと宝石の影の中に溶け消えた。そっと指を伸ばしたが、弾かれなかった。青い石の中には、もっと薄い輝きがきらきらと満たされていく。水面がそこにあるかのようだ。

 いちるは後ろを振り返ると、びくりと身体を跳ね上げさせた娘たちに言った。

「少し虫干ししてあげなさい。それで済む」

「調伏なさったんですの!?」

 ぎょっとミザントリが叫ぶと、女たちはざわざわとし始めた。いちるはそれには答えず、閉ざしたままだった緞帳を開け、窓を開けていく。埃で黒くなった指先にちっと舌打ちした。エンチャンティレーアが居座っていたから疎かになるのは分かるが、汚れをそのままにしては更に空気が澱む。固まっている娘たちに言う。

「窓を開けて」

「は、はい!」

 弾かれたように動き出す幾人かの娘たちを、責任者の女が苦々しい面持ちで見ていた。ミザントリは部屋を出たいちるに向かって、裾を摘み、礼をする。

「それは何です」

「敬意を表したんですわ。さすが、わたくしのお友達!」

 言って、視線を横にやる。女官長は今度は渋い、小憎らしいという顔をしている。侮っていた女が実は祓いの力を持っていて、与し易そうなどこにでもいる貴族の女はそれと友人なのだという。忌々しいという気持ちになるだろう。何もかも分かって言っているくせに、にこにこと悪びれない「お友達」にいちるは思わず言っていた。

「ばか」

 ミザントリは顔を真っ赤にした。

「姫! 今の顔、もう一度お願いしますわ」

「戻ります。わたくしは疲れました」

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