第八章 三

 意外と森は深い。人の手がさほど入っておらず、近隣の村人が少し遠出にするといった奥地に、森の魔女と呼ばれる女が住む小屋があるという。森の香りは、瑞々しいというより陰気だ。薄暗く、常に天井を木で覆われている。影もできないほど、道は仄暗い闇に包まれている。

 少なくとも女一人で住むところではないわね、と呟いたセイラもまた、女一人の歩みだった。最寄りの村で森に入る準備をした後、経路を確認して、日が昇る頃に分け入った。狩人や森に詳しいという男たちが案内を申し出たが、魔女に用があるのであってあなた方には何の用もないと告げ、さっさと村を出てきた。それでもしつこかったので、ヴェルタファレン騎士の紋章を出してきた。何か後ろ暗いところでもあるのか、男たちは引き下がった。

(こんな暗いところに住むなんて、気分が鬱々とするに決まっているわ)

 そう思うと、やはりアンバーシュへの腹立ちは収まらなかった。一応、和解の握手はしたものの、目の当たりにすると許せない気持ちが消えていないことがわかった。

 光の溢れる国王の恋人の座。一転、薄暗い森の奥に隠れ住まなければならない者。栄光と転落という分かりやすい構図が浮かぶが、それほど単純なものではない。

(エルンストは、ヴィヴィアン様が弱かったと言った。そういう趣旨のことを)

 セイラは、アンバーシュの曖昧な振る舞いのせいで、ヴィヴィアンが立場をなくし、心を病んだのだと思っていた。確かにそれが一因かもしれない。だが、果たしてそれだけだったのだろうか。もしかして、あの男は、まだ何かを隠していないだろうか。

 心優しい人だったと思う。ヴィヴィアンは、小さな世界、そこに集まってくる人々を温かくもてなして、送り出すような人だった。その絶対的な世界はアンバーシュに守られて、彼はそこで身を休めていた。

 仲睦まじい二人を、セイラは子どもの頃に見たことがある。ヴィヴィアンと二人でいる時、じっと見ているセイラに、アンバーシュは内緒ですよ、と微笑んだものだった。

(あ、思い出したらむかついてきたわ)

 何が内緒だ。子どもの前でべたべたするんじゃないよ、と閉め出されて憤慨したことまで思い出してしまった。

 怒りのせいで配分を間違えないように、黙々と足を進めていくと、森の様相が変わった。セイラはつかの間、足を止めてしまった。

「……嫌な、気配だこと」

 湿度が上がり、影が濃くなった。緑の香りは、腐った水のようなきつく、ぬるりとしたものに変わっている。水と陰気で苔すら腐食しているのを見て、ますます嫌な感覚が強くなり、警告に変わっていく。

 セイラは柄に手をかけた。思い直して、大刃の短刀に変える。どうも騎士様の剣はお上品すぎる。咄嗟のことには短いものの方が扱いやすいからだ。

 苔を踏めば、茶色い水が染みだした。突き進んでいくと、小屋があった。腐敗のにおいはここからだった。小屋の周りにある薬草畑が、手入れを怠ったせいで腐葉と化している。それを見た瞬間、これは異変だと確信した。

 扉を蹴破り、踏み込む。人の気配はない。埃と木の香りがきついのは、閉め切っていたせいで湿気が籠ったからだろう。整頓された部屋。吊るされたままの枯れ草。寝台は、かけ布団だけめくれ上がっている。

(休んでいた、もしくは起き上がった。でも、その後の気配がぷっつり絶えている)

 台所に向かう。水瓶の蓋を開けると、中の水は腐っていた。水は滅多に腐らない。管理していれば。竃の灰は綺麗にかきだされている。食器は棚へ。揃いのものはなく、少しだけ高価なものが二つ揃っている。時々客が来るのだ。

 起きたはいいものの、食事はしていない。誰かが訪れたわけでもないらしい。

 申し訳なく思いながら衣装箪笥を開けた。何かが盗られた様子もない。夏物、冬物、間物と、数が少ないからすべて入れてある。だが、きちんとしすぎていた。夏物は三枚、冬物は二枚。間物も二枚。後は防寒用の掛け布や靴下。なんだか、着替えすらしていないように感じられる数が揃っている。

(起きて、食事も、着替えもせず、家から消えたということ? 外の様子からして、留守にしてかなり長い。畑をそのままにするなんて、尋常ではないもの)

 自身に巫とのしての素養がないのが無念だった。神職としての才能があるのなら、ここに魔眸の気配があったかどうかが見えると思うのに。


 ――森と湖の高貴なる人、と揶揄がちに口にされていたその人。まれびと。あるいは、厄介者。隠者。奥地に住み、敵にもなり味方にもなる、魔女。


 しかし、その守人の姿は見えず、圧倒的な陰の気に支配されている。隠されたかのような足跡の途絶え。

 闇といえば魔。魔でなければ神。

 セイラは、この家の住人は魔眸と関わったのだと、当たってほしくない直感を抱いた。人でない何者かがヴィヴィアンと関わったのだ。

 周辺の様子を確かめ、何者の襲撃の跡がないことを確認してから、身を翻す。心の中で、怒りを叫んだ。

(恨みますわよ、アンバーシュ。これもあなたのせいですわ)




     *




 オルギュットの宮殿は、とてもよく出来た結界に守られていた。よく出来すぎて、身動きが取れない。

 いちるの異能は外界に対しては役に立たず、状況を探ることはほぼ不可能に近かった。ならばと、いけ好かない女官に、出入りできる場所を教えてほしいと頼んだ。暇ゆえに書物でも読みたい、そう言うと、しばらくして許可が下りた。しかし、その回答を携えた女官は、この奥宮以外に行動できる場所はないと無情に告げるのだった。

 実際、奥宮一つで囚われ人は賄えるのだった。いくつかの部屋があり、どれも趣向を凝らしてある。いちるの部屋は布を張った異国風だが、もう一つの部屋は水の中のように天井から布が下がっている。この二つは主に床に座るものだが、壁の中に部屋を暖める装置が通っているらしく、座っても冷えはしない。また違う部屋は、ヴェルタファレンと似ている椅子や机などの調度が置かれている。使用人たちは奥宮の唯一の出入り口である、内宮からやってくる。そこに厨房や洗濯場などがあるのだろう。食事もそこから持ってくるようだ。

 実用的なものは外にしかないが、奥宮の住人を飽きさせぬよう、図書室、音楽室、喫煙室がある。また、これは何だろうと顔をしかめたものがあった。白い混ぜ石でできた柱と、段がある。三人入れば限界、といった小部屋だ。

「ここは何ですか」

「礼拝場です」

 返ってきたのはそれだけだ。怒る気も起きぬが、もしこれがオルギュットに知れればどうなるだろうと意地の悪いことを考えて憂さを晴らした。

 結局、いちるが理解したのは、ここは後宮だということだった。幾人かの女のため、それも、宗教の違う者のために整えた牢獄。礼拝場に特定の神像や道具を置いていないのは、住人が何度も入れ替わっているからだろう。

 いちるは図書室に向かい、いくつか書物を選んだ。言葉は少し、独特のようだったが、読めなくはなさそうだ。娯楽らしき物語や神話書が多かったが、ヴェルタファレンでも見た西の大神についてのものと、イバーマに関するものを持っていった。

 行く先にぞろぞろとついてこられるのでうんざりしていたが、いちるが腰を落ち着けると、女官たちも数を減らした。いちるは、ミザントリを呼ぶように言った。女官は、また用を言いつけられたと不満そうな顔をして去っていく。だがせいぜいこき使ってやるつもりだった。

 大神アストラスと、イバーマ、太陽の一族、調停者オルギュットについて、情報を拾っていく。



 太陽神は、己の愛した一族のため、安住の地を約束した。その土地で一族は太陽神の眠りを守ることを約束した。太陽が消えたがために永遠に夜が続く国、イバーマの誕生だった。

 イバーマは長く神職の地位が高い国だったが、血なまぐさいことが耐えない国でもあった。奴隷、祭事を盾にした過度な生贄の儀式、様々な形で太陽神を戴く邪教の乱立。アストラスは事態を重く見、己の意志の代行者を置くことにした。この時、王に命じられたオルギュットは代行者と表記されている。

 オルギュットが行ったのは宗教の整理、流血行為、特に人間に関する殺傷の禁止。法を整備して、どんな理由であろうとも殺人を重罪とした。殺人について刑を処する場合は必ず王の裁判を開いた。人間の尊厳がある程度回復した頃、奴隷制を廃止した。奴隷の中には見事な細工技術を持った者たちがおり、彼らに祭具や供物を作らせたことによって、職人を保護することに成功した。

 内部政策の代表的なものはこういったことだが、大神の代行者として、周辺諸国の調停にも乗り出している。



(なるほど、ずいぶん働き者だ。これを五百年でやったのか)

 あの男が苦悩している姿を想像できないのだが、読むだけでも疲労する作業だった。同情と尊敬の念を覚える。敵は、強靭な精神を備えている。よほど有能でなければ、あれほど性格は捻じ曲がらない。

(強敵だな)

「ごきげんよう、姫様。お呼びと窺いました」

 ミザントリが裾をふわふわとさせてやってきた。これもオルギュットの趣味だろうか。薄水色の地に、赤い小花を散らせている、ずいぶん明るく可愛らしい衣装だ。兎とおぼしき茶色の毛皮が、襟ぐりで揺れる。

「あれから、何もございませんでしたか」

 先んじて尋ねられる。周りが聞いているが、おおまかなことを伝えた。外部との連絡は不可能。用事があるのはいちる。滞在期間は一ヶ月と言われたがどうなるか分からない。

「一ヶ月ほど、不自由させます」

「不当な扱いを受けているわけではないので、構いませんわ。ただ少し、オルギュット様の動向が不安ですけれども」

「そういえば、何か言いかけていたか。何か?」

 ミザントリは周囲を気にしてみせた。小声で、告げる。

「オルギュット様は、お妃となられる方を、攫うようにして連れてこられるのです。わたくしも、実際見るまでは疑わしく思っていたのですが……話を聞いていると、どうも本当らしくって」

 いちるは目を細めた。苦笑が漏れた。

「誘拐した娘を妃に据える? ……とんでもない奇行だ」

「王妃様は歴代いらっしゃったようでしたわ。お子様はいらっしゃらないようです。もし生まれれば神になりますから、隠蔽は出来ません」

「どうしてそんなことをするのか、理由は?」

「誰も本当のところは知らないようですの。わたくしが予想できるのは、王には王妃がいなければわずらわしいことも多いからなのではということなのですが……それは、理由の一端のような気もするのですわ」

 いちるの見解もミザントリと違わない。彼女が考え及ばぬとしたら、何か神事にまつわることか。いちるに関係する用事とやらにも絡まったものかもしれない。

「姫は大丈夫なのですか? その……アンバーシュ陛下とのご関係もありますし、さすがに、無体なことはなさらないと思いたいのですが」

(まさか、傷物を嫁に取ることはないと思うが……)

 などと、笑えないことを口にしそうになる。オルギュットは絶妙にいちるを煽っていった。彼の言う通り、動かず時を待てば事は終わるかもしれないが、何もしなければ何も変わらず、何も分からないままだ。だが、いちるが動けば興がって乗り出してくるのは目に見えている。あれと戦う気力が惜しかったが、向こうが動けば後手に回るのは必至。駆け引きが難しいところだった。

「では、今は妃はいないのですね」

「準ずる方ならいらっしゃいます。レグランス・ティセル様。黒髪に不思議な金の目、褐色の肌をした、背の高くて、月影に咲く百合の花のような清らかな雰囲気の美女ですわ。普段はオルギュット様の側で働いていらっしゃるようです。妾妃というわけではなさそうですが、内宮でのお立場はかなりお強いようでした。姫がいらっしゃるまで奥宮には人がいませんでしたが、多分、レグランス様が奥宮も取り仕切っていると思います」

 少し考えて、尋ねる。

「この国は、女性の事務官は多い?」

「わたくしが見たかぎり、オルギュット様のおそばにいるのはレグランス様だけです。女性と言えば、後は女官の皆様方ですね。何でも、教養高く、巫女としての素養がなければなることができない、難しい官だそうですわ」

 ミザントリの抑えた声を盗み聞いた女官たちが、心無しか誇らしげにするのが見えた。ならば迂闊にもう一方の声で会話も出来ぬのだ。実にやりにくい宮殿だった。

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