第二章 十二

「なんなのよなんなのよ、あの女、なんなのよぉ!」

 アンバーシュが去ってから早々に店を後にした娘たちは、繰り返し先の出来事を呪う言葉を吐き出し続けた。その目の端には本物の悔し涙が滲み、抑えきれない怒りで手が震える。

「私たちを無視してぇ! さも当然って顔でアンバーシュ様に連れられていって」

「でも美人だったわよね……」

「何よあの女の味方するの!?」

 唯一の味方であり賛同者だと思った同僚である友人の言葉に物凄い剣幕で迫ったが、相手は怯むよりむしろ、落ち込んだ顔をしている。

「若かったし。綺麗だったし。それになんていうの、見た瞬間分かる、気迫? みたいな。ああ、この人じゃないとアンバーシュ様には釣り合わないかなー……なんて」

 真珠のような淡い色の肌に、黒真珠より澄んだ輝きを持った黒曜石の瞳。わずかに青みがかったその目が向けられた瞬間、彼女の美しさの光が感覚を射抜いたのだ。

 彼女はふさわしい。

 あどけないようでいて冷たい。幼く見えて老成している。色のない唇は清楚そのもので、潔癖さの現れ。最後まで言葉は聞かれなかったが、彼女は高貴なる者としてふさわしい言葉を紡ぐだろう。ヴェルタファレンの頂点に君臨する資格を持っているのだと理解させるほどに。目や耳といった感覚ではない、直感でそう思ったのだ。

「だってよく考えてごらんなさいよ。そもそも、普通の人間だったらアンバーシュ様はすでにお妃様を迎えられていたはずなの。十年前はそうはならなかったし、愛人だったセイラ・バークハードだって妃の座を射止めることはできなかった。つまり、そういうことなのよ」

「どういうことよ。はっきり言いなさいよ」

「綺麗なだけじゃだめ。優しいだけなのもだめなの。もっと深くて理解できないものを持っていること、例えば冷たさとか容赦のなさとか。普通の人じゃないことがいるんだわ、きっと」

 まるで自分を説得させるみたいに呟く友人に、怒りの矛先を折られた女官は、改めて吐露された理由をよく考えてみた。考えてみた末に、なんとなく不快になって、低く呟いた。


「でもそれって、普通の人じゃないってことは――人として大事なものが欠けているっていうことじゃないの?」






「……まあまあまあ。喧嘩騒ぎが起こっていると聞いて、出向いてみれば。何事ですの、お二方?」

 正面切って宣戦布告としたいちるの横から割り込んだ声は、艶かしい女の声。親しげな声音に聞き覚えがあり、目をやると、髪を結い上げた脚衣の女の姿がある。腰に長剣を差し、肉感的な体躯を隠しきれていないその女は、セイラ・バークハード。

「見回りですか。ご苦労さまです」

「これがわたくしの仕事ですもの。ですが、その騒ぎの原因があなたとはいただけませんわね。しかも痴話喧嘩でいらっしゃるなんて……わたくしへの当てつけかしら?」

 涼しい顔で笑みを交わす二人を前に、いちるはまだこめかみと頬をひくつかせていた。セイラは美麗な微笑みを向けてくる。

「ごきげんよう、姫。お願いしたものは見つかりまして?」

[ごきげんよう、頼んだものは見つかったか、と聞いています]

 アンバーシュが何事もなかったかのように通訳する。いちるはなんとか笑顔を浮かべたが、どうしようもなく出来が悪いことは否めなかった。

「気が向いたら捜してやる。気長に待つがよい」

「お待ちしておりますわ。わたくしも気は長い方ですの」

 さきほどまでの会話を聞いていたとしか思えない言葉に、笑顔の仮面を振り捨てた。目を吊り上げ、セイラの顔を穴が開くほど見つめる。

 肌の、内腑の、存在するすべての向こう側を見た。




 黒い、大きな物が見える。白と黒の歯が並んだ何か。

 子どもの手が白い歯を叩くと音が出た。楽器なのだ。

 手の主は少年。背筋よく腰掛ける彼を、目の持ち主は甘い憧憬を抱いて見ている。


 ……その光景は、伸ばされた白い女の手によって柔らかに掻き消えた。


 白い手は優しく心を撫でた。甘い感情が起こる。優しさ、安心感。そこに混じる、きりきりとした焦燥。このひとは、近い将来、きっと、誰かに傷つけられて泣くのだろうと、心の持ち主はやがて来るその時を案じている。


 ……やがて、雷鳴のように轟く声。


「ころした」

 叫ばれたのではない。誰にぶつけられてもいない。だが、それは心のうちに刻まれたもの。憎悪。怒り。包まれるようだった感情が刃に変わり、突き立てられる時を待っている。

 ころした。ころした。ころしたころしたころした――!

「あなたを」


 ――許さない。




「……気が、長いと言ったが」

 唇が、目が、毒を吐き出す。

 決して使ってはならない劇物を、投げつけた。

「子どもの頃からそうであれば気も長くなろうな。……それも愛人への憎悪と、幼き叶わぬ恋を未だ抱いたままとは、それほど殊勝で純真だとは思いも寄らなかったぞ!」

「イチル!」

 傲岸と顔を上げるいちるに、アンバーシュが恐ろしい剣幕で迫った。しかし彼は手を使わない。理性的な身体と、激情を隠せぬ眼差しに、いちるは薄く嘲笑する。

「これでも、妾を口説こうと思うか」

 幾分、脱力したようにアンバーシュは顔をしかめた。

「……恐ろしいひとですね、あなたは」

「……聞かない方がよろしいようですわね」

 冷静な面持ちでうかがうセイラに、アンバーシュは頷いた。公然の秘密か、近しい者しか知り得ぬ感情であったらしい。

 過去を見るという異能は、たやすいことではない。漠然とした過去や未来は確かに見ることは叶わぬものの、そこに存在している人の心に触れ、その心が強く抱く光景を垣間みることは、容易ではないが実行が可能だった。もちろん、褒められた力の行使ではない。

(眼鏡の少年。そして、白い手の女)

 だからその二人はセイラ・バークハードの心に強く焼き付けられている感情なのだ。

 この女は、何のつもりで憎悪する相手の側にいる?

 美しいその面の下に、煮えたぎる黒い感情を抱えているというのに、それをおくびにも出さずに微笑むことができるこの女は、自分に非常に近しいものだと認めざるをえない。

(妾の知らぬ過去がある)

 セイラとアンバーシュの静かなやりとりに、それまでの怒りを冷まされつつあったいちるは、己の愚かしさに舌打ちし、目をそらした。

 馬鹿馬鹿しい真似をした。これほどまでにあけすけに手の内を見せてはいけない。相手方に深遠な理由があるならなおさら。口の中の苦みを飲み下しているときだった。


「っ――!」

 頭蓋が殴られる、それほどの衝撃が襲った。「陛下!?」とセイラがアンバーシュの肩を支えている。アンバーシュと目を見交わし、いちるは、自分たちが同じものを察知したことを知った。

「これは……」

「……久しぶりに、大物が来ましたね」

 アンバーシュが何ら変わりない往来に目をやる。彼方の空を呆然と見ているフロゥディジェンマを見つけ出すと、名を呼んだ。

「エマ! 来なさい!」

[…………]

「エマ!」

 次の瞬間、フロゥディジェンマは狼の姿に変じて飛び去った。

 驚愕の声が上がる中、アンバーシュは短く諦めの息を吐く。

「セイラ。街の東側から魔眸どもが来ています。かなり大きな群れです。住民の退避と防衛を開始してください。近衛騎士団指示のもとに行うよう」

「! ……御意に」

「それから城に伝令をやって宮廷管理庁に法具を持って来させなさい。法具が来たらクロードの指示のもと、殲滅を開始。それまで俺は外に出てやつらを止めます」

「かしこまりました、速やかに。どうぞ、ご武運を」

 セイラは一礼すると、軽やかに身を翻していった。艶麗な微笑が消えた固い宝玉のような顔は、感嘆すべき華麗さだった。いちるは少し彼女を見直した。

[イチル。大体分かったと思いますが、魔眸が来ています。新しいねぐらを探しにきたようですが、どうやら運悪く大物です。主都が近い以上、見逃せません。殲滅に出ますから、あなたは城に戻っていてください]

[足もないのに一人で戻れというのか。ならばここで待っている]

[……はい?]

[危険はないのだろう。エマが走っていき、お前も出るという。ならばこの辺りで鑑賞させてもらおう。神が如何様なものか、我が目で確かめてみたくあった]

 長い沈黙の後、深々としたため息。

[……はあ、勝手になさい。でも、たまには素直にならないとぶすになりますよ]

[この顔を直視して言えるなら、甘んじて受けよう]

 アンバーシュはいちるの顔を見て、首を振った。

[その顔だから、たちが悪いですねえ……]

[認めよう。さっさと行け。エマが心配じゃ]

 東の空が曇り始めている。あまりよくない者たちが連れる風が、冷たい大気を伴って近付いてきていた。いちるは扉の前の階段に腰を下ろした。石は冷たいし砂埃で汚れているし、世辞にも座り心地はいいとは言えないが、立つつもりも歩いて帰るつもりもないのだからここにいるしかない。それくらいの堪え性はある。

[くれぐれもこちらには来ないように! 迎えにくるまで知らない人についていかないこと!]

[心配ならば早く済ませればよかろう。妾は気が短い。あまり待たせるな]

 本当に迎えが遅ければどこか歩いてみるのもいいかと、妖魔の脅威を一筋も感じていないいちるだった。ああいう輩をいちるは撫瑚で祓ってきたし、長く王として君臨しているアンバーシュならば慣れたものであるはずだからだ。

 知らせを持って走り回る者たちの気配を捉える。彼らには重大事だろう。この街は人が多い。雑念も多く、疲れ始めていたことは決して口にはしなかったが、できればそろそろ一人になりたかったのだ。

 ――アンバーシュの側は、めまぐるしくて息ができない。

「行ってきます」と告げて、アンバーシュは跳躍した。足元で起こった風が、男の身体を押し上げる。飛ぶこともできるのかと呆れ半分に見送り、そういえば言葉をかけなかったことを思い出し、まあいいかと嘆息した。

(エマが無茶をせねばよいのだが)

 それが性質なのだと聞いた。けれどその有り様は、妖魔が光の中に現れるのに近しい気がするように思える。

 深い闇は、息を求めるように光に近付くもの。肌を這う闇の感触を腕をさすることで鎮めながら、いちるは東の空の気配を辿る。

 雷が空に伸びた。

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