第二章 十一

(誰か見ているな)

 異能の力は普段から扱いに細心している。常日頃意識しないところにも、見える範囲も見えない範囲も、周りが何を考えどう動いているのかをおおよそ把握しようという感覚が働く。

 フロゥディジェンマは買い物に飽いているようで、どこかへ行こうとしてはしきりといちるたち以外には聞こえない声で[オ腹ヘッタ]と呼びかけてくる。アンバーシュは「後で」といなしながら、二人をあちこちに連れ回した。仕立て屋らしき店に、二人連れの客が入ってきた時、それがこちらに用があるのだとすでに分かったので、いちるは顔も向けなかった。アンバーシュが「買い付けにすればいいんですが」と言いながら社会勉強にと引っ張り込んだそこで、店主が出す様々な布を眺めていただけだ。

 西洋の布は、染めも織りも東と少し変わっている。冬に強い毛織りのものが多く、この店は黒地の布はほとんど取り扱っていないらしい。明るく滑らかな緑や黄色の布を出されたが、いちるは触れてみるだけでいいとも悪いとも口にしなかった。

「ごきげんよう、アンバーシュ様!」

「お買い物でらしたんですのね。なんて偶然ですかしら!」

 菜の花のような服色の娘が言い、続けて若草色の娘が言う。アンバーシュの知り合いのようだ。王は気安い笑みで応えた。

「こんにちは。休日ですか?」

「はい! ありがたくお休みをちょうだいしていたので、買い物に来たんです」

「お会いできるなんて嬉しいですわ。そのお衣装も……素敵でいらっしゃいますこと」

 いちるは触れていた布を爪先で弾いた。

「……お気に召しませんで?」

 店主がうかがう目をするのに、微笑し、布を返す。

 自分が身につけないものでも知識として知ればいい。これが恐らく若い娘が好む色なのだということが分かっただけで、いちるがこの色を身につけることは却下される。

(こういう可愛らしい色が、中身が二百五十歳の婆に似合うと思うてか)

 なまじ見た目が十七、八の小娘なので難儀する。渋い色合いの衣服を身に着けたいちるは、この店の主には歳の割に地味な装いの、狙い目の客でしかない。連れであるアンバーシュの態度を見れば、気前がいい客が来たと分かるせいだ。

「アンバーシュ様とここで会うなんて、本当に嬉しく存じますわ。偶然ってあるものですのね」

「よく見つけましたねえ」

「そんなの、すぐに分かります。アンバーシュ様を見逃すなんてこと、ありません」

 娘たちの甲高い声が耳に障る。

 アンバーシュの目はこちらを向かない。せいぜい、いちるは無視してやるつもりだった。フロゥディジェンマが何かに気付いてこちらにやってくる。

[アレ]

「……ん、どれだ?」

[紫。アレ、ガ、イイ。しゃんぐりら]

 フロゥディジェンマの指差したものを、店主はすぐさま察して前に広げた。

「いいお色でしょう。こうして見ているととても美しいと私も思うのですが、やはり流行の色ではないということで敬遠されてしまうようで」

 夕暮れに浮かぶ月の光による、ごくごく微妙な空の色だった。これならば気味悪がられる黒を身につけるほど文句を言われることはなさそうだが、いちるはアンバーシュに何かを買ってもらうつもりはさらさらない。鑑賞するに留める。

「何をご覧になったんですの?」

「さっき来たばかりなんです。東側からこちら側に下ってきたんですよ」

「今日は天気がいいですから、北側の神山までも見ることができましたんでしょう? 残念ですわ。私もご一緒したかったですのに……」

「私もですわ。でも、今日はお邪魔できませんわよね。大事なご用事でこちらに来られたのでしょう?」

 意味ありげな目が揶揄を浮かべたので、いちるはようやく顔を向けてやった。相手側はいちるの黒いまなこを見て驚愕を浮かべたが、最大の自制心で目をそらした。

(つまらぬ。その程度の女どもか)

 いちるが視線から解放してやると同時に、アンバーシュの答えが聞こえてきた。

「では俺たちはもう行きますね。あなたたちも遅くならないうちに城に戻りなさい、女性だけで夜を過ごすのは危険ですから。エマ、何か食べますか?」

[食ベル]

 食べ物と聞いてフロゥディジェンマはいちるの手を思いきり引いた。呆気にとられる娘たちにアンバーシュは手を挙げ挨拶をし、上客のおかえりに飛び出した店主が扉を開けるのに礼を言う。

「何が食べたいですか? 甘いものがいいかな」

[甘イノ]

 今度は自分の番とばかりに先頭に立つフロゥディジェンマを見ていたアンバーシュは、ようやくいちるの足が鈍いのに気付いた。

「どうしたんです。何か欲しいものがありましたか? だったらすぐに戻って……」

[知り合いはいいのか]

 扉が閉まる瞬間の、娘たちの憎々しげな感情を察知していた。王であり神に名を連ねる者を慕う思いは理解するが、あれは掛け値なしの好意に由縁する嫉妬だ。アンバーシュは、それほどの男だというのか。

「今日一日あなたと過ごすと決めたんです。それに彼女たちも本気ではなかったし。あなたに張り合いたかっただけでしょう」

[……余計なことを]

 忌々しかった。余計な敵を作ってもらったのだから。普段ならばそんなもの、勝手に言っていろと一笑に付していることを自覚していただけに、何故このように苛立ってしまうのかが分からない。

「……余計。セイラに怒ったあなたに、さきほどの女官たちを遠ざけたのが?」

 嫉妬するからだろうと暗に責められたのを無視した。

[国王は異国の女が弱味、そう言われることになろう。機嫌を取ることに終始していると陰口叩かれ、夫になる者の畏敬が損なわれては妻になる妾の損害になる。ほどほどにせよ]

 アンバーシュはしばらくいちるを見ていたが、やがてぐっと身を乗り出してこちらを覗き込んだ。不必要に身体を寄せられ、立ち止まってしまう。

[寄るな!]

「もしかして……俺があなたの機嫌を取っている、心にもないことを言っていると思っていませんか?」

 いちるは笑い飛ばした。

[機嫌取りでなくて何と言う。ずっとそうだったではないか。小賢しい言動と笑みでもって優位に立とうとしたであろう。あいにくと妾はそなたの弄言などお見通し。あの娘たちは騙せても、妾は、]


 その瞬間。

 周囲の驚愕の視線が突き刺さったことは感じ取れたものの、我が身に降り掛かったものが何なのか、理解するまでに数十秒を要した。


 思考が止まった。言葉が消えた。目の前に迫ったものに反応できず硬直した。触れた場所から、アンバーシュが電流を注ぎ込んだのではないかと思った。

 額よりも頬よりも、敏感である唇から、背筋の後ろに向かって強いしびれが走る。目の奥にちかりとしたものは何だったのか。


 いちるはまだ理解できず、離れていく青の目が、奇妙に感慨深そうなのを見ている。

「……なるほど、そういう反応ですか」

「……な、……え……?」

 熱い。気付けば首から顔に血が集まっているらしい。今にも目から血が噴き出しそうになり、頭の付け根がぐらぐらと揺れるのに、いちるはぱくぱくと空気を求め、うまく息ができずに足をふらつかせた。アンバーシュが驚いたように抱きとめるのを他人事のように感じながら、唇が変に冷たかった。

「血が上ると、まるで桃のような肌で、綺麗だ」

 そこでようやく、自分が何をされたのかを知った。

「この――!」

 振り上げた手は安易にアンバーシュの頬を張る。東の言葉で、ありったけの声量を用いて男を断じると、身体をわななかせて罵詈雑言を浴びせかける。

「不埒な真似をしおって痴れ者が、よりにもよって祝言をあげる前の女にこの振る舞い、しかも不意打ちとは何たる卑怯か、神と名乗っても中身は発情した犬以下、目を潰し耳を削いで喉を裂いてもまだ足りぬ、妖魔どもに食われてしまえ、跡形もなく滅びてしまえ――!」

「何を言ってるのかさっぱりですが、つまり初めてだったので怒っているんですね?」

「誰がそんな話をしているか――!」

 きいいいと金切り声で暴言を叩き付けるも、男の腕の中ではもがいているだけになった。また、感情が高ぶっているために言葉を切り替えるという意識が働かない。いちるの中では、公衆の面前で口づけられたことは暴行を受けたに等しい。

「あなたの国では口づけするということは、挨拶よりも重い意味を持つんでしょうね?」

「当たり前じゃ!」

「なら、俺が嘘偽りを口にしているわけではないと分かってもらえたでしょう?」

 神の血を持つ王のうそぶく笑顔に、いちるは面食らった。

「俺が、あなたに、本気だということが」

 自制の堰は、狼狽によってすでに瓦解していた。抑えられなかった熱が再び顔に上り、震える自分に何ができただろうか。いちるが選んだのは、再び手のひらを思いきり広げ、一度目の攻撃で赤くなった頬に再びの罰を与えることだった。

 爪が入り、頬に赤い跡が残る。しかし、アンバーシュの身に備わる力が傷をたちまち治癒させる。相手が痛みを感じたかすかなうめき声を漏らしたことに刹那動揺して、その狼狽を隠すようにいちるは叫んでいた。

「妾はお前が嫌いじゃ!」

「俺はあなたが好きですよ。千年姫。幸いなことに、俺もあなたも千年は生きるでしょう。俺は気が長い方です。だからあなたが俺を嫌うなら」

 アンバーシュは顔を歪めた。いびつと思えるほど、その笑みは挑発的だった。


「千年かけて、あなたを口説きます」

 乱れた髪に指を絡めた。

「俺の側から離すつもりはありません」


 背筋が総毛立つ。

 生まれた場所から遠く離れた地。名前も知らぬ神々の住まう異国で、いちるを貰い受けると言った半神の王は、ここに確かに宣言したのだ。


 お前を虜囚(とりこ)にしてくれる、永劫に逃げられはしない。


 天上青石の瞳が人ならざる輝きを放つのに竦んでしまった。だから、これは吠え立てるのと同じこと。だが恐怖に抵抗するには、いちるはこう叫ぶ敷かなかったのだった。

「…………ろ……」

 震える言葉で。全身全霊をかけて。

「……できるものなら……やってみろ――!!」

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