第二章 十三

 外郭東には比較的拓けた丘が広がり、更に東に行けば森が広がっている。この森は北に向かって深くなり、傾斜も厳しい山となって天然の城壁となる。緑が濃ければ濃いほど、闇が深くなれば深くなるほど、それらの影は異形のものどもの住処となり、植物や動物の生気を奪って大きく成長する。魔眸と呼ばれるがゆえの魔の目を使って、迷い込んできた者を惑わし、食らう。

 魔眸の始まりは、太陽の神と月の神が、それぞれ東と西の彼方へ去った刹那にある。

 大地神が眠りにつき、太陽と月が去りて最も暗い闇夜が世界に訪れた、その瞬間生まれ落ちたもの。創造主からではない、どこともしれぬ生まれの卑しい者たち。

 魔眸から人間を守るのは我らの役目である、と西神に名を連ねる者は教えられてきた。この世に影が満ちぬよう、人が誘惑されることのないよう、あまねく光で照らすことが務め。


[エマ!]

 アンバーシュは、魔眸を追って駆けていった兄の子を呼んだ。狼の姿に変じたフロゥディジェンマは、アンバーシュの生身では到底追いつけぬ狩人となって獲物を追っている。

 半神半人の自分と違い、生粋の神であるフロゥディジェンマは、神の本質を強くその身に宿している。影があれば追い、不穏な気配を感じれば狩りに行く。しかし精神が幼いために本能に引きずられ、数日戻ってこない上に傷を作ってくることもしばしばあった。治癒の力を持っている彼女が傷を負っているということは、相当に深かったことを示している。身柄を預かっている側として、いつもはらはらさせられていた。

 そのフロゥディジェンマが魔眸を追走しているのはよろしくない事態だ。主都には張り巡らせた結界がある。その結界に近くまで来て気配を悟らせるような強い力を持っている魔眸なのだ。

(怪我がなければいいが……)

 無数のざわめきが聞こえて、アンバーシュは駆ける足を止める。魔眸は、影の気配、そして誘惑の囁きを使う。だから、あれらが集まると耳にうるさい。波のようなざわめきが近付き、アンバーシュは髪を逆立てた。

「光に群がる影虫ども。大人しくしていれば消し去られることもないだろうに」

 力の放出が水平になるよう操作する。前方、そして上方に向けて放たれた雷は、影に潜む魔の眸を持つ者どもめがけて襲いかかった。






(…………)

 遠見を使うほどでもなかろうと、いちるは目を閉じ、肌の感覚のみで戦闘域を探っていた。瞼の闇に、空に閃く稲光が赤く染め上げられることが繰り返される。だが、それがいっこうに止まない。

(まだ魔気が濃い。よほど数がいるのか、それともアンバーシュが無能なのか)

 いちるはひとり笑いした。あり得ぬ推測だ。西神の先鋒を務めた雷霆王に、魔妖を追い払えないとも思えぬ。そこでようやく異能を用いて様子を探った。――防衛の陣は、数刻前に立ち寄った展望の丘に張られているようだ。周辺の住民は避難を終え、同じ服装をした男たちが集まり、街に放たれては戻ってくることを繰り返している。

 どうやらまだ魔物はこの街には降りてきてはいないらしい。

 しかしいちるはそこから目を北に転じた。

 異能の目と繋がる、異能の耳が音を拾う。

 ――かすかで、風に混じってはいる、これは。

 すぐさま立ち上がり、慣れぬ靴、慣れぬ裾で東へ向かう。見回りをし、伝令を務めていたあの制服の男たちが戻れとか避難しろというようなことを言い続けるが、いちるはそれらを一切無視して展望公園へ歩き続けた。

 さすがに腕を取られたときには怒りを見せた。

「放しや」

 鋭くきつく言い放ち睨み据えると、それだけで男は一歩退いた。他愛もない。男は硬い表情で走り去っていく。剣を佩いていてもこの程度かと失望して進んでいると、前方から焦った表情のセイラ・バークハードが現れた。

 微笑を浮かべているはずの顔は、今は迷惑だと言わんばかりのしかめ面になっている。この女も今は少々優雅さが足りぬ、と目を見てから、雷閃く東の空を見遣った。

 そこに別の光が走る。恐らく、宮廷管理官が法具を持ち出し、攻撃を開始したのだろう。

「危険です、そちらには近付かないでください!」

 セイラが止めるが、構うことなく丘を上る。現れた部外者をその場にいた一同が驚いた様子で迎えるが、追いついてきたセイラが行く手を阻んだことで誰も手出ししない。

(まだ魔妖の気が消えぬ。一体何をしているのじゃ)

「姫様? なにゆえ、こちらに」

 また知った顔が現れた。宮廷管理長官ロレリア・ワルダフットだ。

「人に送らせますゆえ、どうか城へお戻りください。ここは危のうございます」

 ロレリアの後ろで、がたごとと何かが運び込まれてきた。巨大な筒、火砲らしいが、武器にしては装飾過多だ。金で象眼し、不可思議な文様が、植物の蔦に似て彫り込まれている。光を受けた輝きを見ると、どうやら瑠璃石を細かく砕いたものを塗っているようだ。金のかかった火器だが、その理由をいちるは察した。

「とりあえず、後ろへお下がりください。騎士団長、姫をお願いいたします!」

「承りましたわ! さあ、下がってくださいまし。法具の焔に巻き込まれてしまいますわよ!」

 言葉が伝わらないからとセイラはいちるの前で腕を突き出すようにして迫り、後退せざるを得なくなった。ロレリアが長い上衣を翻し、鋭く指示をやる。こちらが十分に離れたのを確認すると、「用意!」の声で場が静かになった。

 法具の周りに、呪文らしきものを唱える者たちがいる。数は五人。低く続くとめどない無数の言葉が、火砲に刻まれた文様に力を与え、輝かせ始める。発動のために鍵が充填され、回され、力を解錠する。

「――放て!」

 東に向けて焔が飛んだ。丘を越え、森の上に飛来する固まりは、次の瞬間、無数の光の雨となって降り注ぐ。

(――しくじったな)

 狙いが甘い。焔が南に寄ってしまい、狙いから逸れてしまっている。それよりも遠くの方でアンバーシュの雷が天に向かって伸びていく。またたく光にいちるは目を細めた。閃光の影になった中に、目のようなものが複数見えた。

 同じものが見えたらしい、焦った呻きが周囲から漏れた。

(為損じたものがいるのか。馬鹿者め)

 いくら数が多いといってもしくじるか、と忌々しく思ったところで、いちるはセイラに肩をつかまれる。

「もう、さっさと避難してくださいませ! これ以上あなたをここに留めると、邪魔で仕方がありませんのよ!」

 アンバーシュ、と呼びかけてみるも、どうやら距離が遠いと声は届かないらしい。不慣れゆえか、それともそれほど強くないのかは分からなかったが、便利なようでいて不便な力である。

「第二砲、用意!」

 ロレリアが二回目の攻撃を指示する。

「神授騎士、出撃準備!」

 黙って石のように動かないいちるを、ついにセイラは見放した。憎悪ほどの嫌悪を向け、怒鳴った。

「ちょっと! 危ないと言っているでしょう、これは暢気な観光ではありませんのよ! 聞いているんですの、この……クソアマが!」

 ぎょっと空気が凍る。いちるはセイラに顔をしかめて見せた。

「うるさい女子じゃ。落ち着いて遠見ができぬ」

 セイラが従えるのとは違う、剣を持ったものたちが集まり、点呼を取り始める。宮廷管理長官補佐エシが報告を受け、進行すべき地点を割り出していた。その間にもアンバーシュは雑魚を払っている。だが、数が多すぎて追いついていない。

「魔眸は、七分後には森を出て現れると考えられます。神官たちの予測だと、数は十体もいないようです」

「甘い」といちるは言った、その時、場が、まるで真冬の池の底のように暗く、凍り付いた。

 いちるは唇を舐め、告げる。

「――東ばかりに目を向けているようですが、北側に魔眸が集まりはじめています。そちらに群れの主がいるようです。エマがそちらに向かっているようですね。どうやら、東側の魔眸は囮のようです」

「な……」

 兵士たちは困惑しているが、いちるを知る者たちの衝撃と驚愕は、予測以上のものだった。セイラは目を見開き、エシはぶるぶると震えて失礼なことに指を突きつける。

「な、な、ななな……!」

「聞こえませんでしたか。北からも魔眸が来ると言っているのですよ」


「ど、どうして……言葉が……!」


 エシの無礼を、いちるは恩情で無視してやった。

「それから、法具。狙いが甘い。北へもう五度ずらしなさい。アンバーシュが前方に出ているのならば、もう少し街寄りの狙いにするといいでしょう。必要ならば指示します。力の充填を始めなさい」

 いちるは今、クロードやアンバーシュといった通訳者を伴っていない。神官たちはその力を多少なりとも使えるだろうが、いちるは己のこの異能にまだ不慣れであるし、この状況で、戦力である神官を割いた上で、埒もない通訳を介すと余計に時間がかかるだろうと判断した。

 ゆえに、言葉を用いた。

 この数日、通訳を用いてしか伝えなかった意志を、この土地の言葉で述べたのである。


 まっさきに我を取り戻したのは女たちだった。ロレリアがまっすぐにいちるを見て問いかける。

「……信じてもよろしゅうございますね?」

 いちるはしらじらと答えた。

「あなた方次第です」

「バークハード騎士団長!」

「……はい! 近衛騎士団、神授騎士を援護!」

 ロレリアとセイラが号令を発動する。

「神授騎士、出撃!」

「西風の名の下に!」

 声を揃えて騎士たちは街を飛び出していく。これでアンバーシュが撃ち漏らした雑魚は払えるだろう。

 目を転じて、いちるは法具に力が満ちるのを見届けると、指を向け、おおよその方角を指示した。少し舌をもつれさせる舌足らずの外国語は、どうやら正確に伝わったらしく、微調整のみで指示を終えることができた。

「放て!」

 いちるの呼号で神なる武器が火を噴いた。

 噴き出した焔は、さきほどよりも手前側、北寄りに落ち、焔の雨となった。ある意味無駄撃ちに近いが、アンバーシュが自らが露払いを買って出たのなら、こちらが後方を担うべきだろう。心持ち手前に撃たせたおかげで、神授騎士とやらの防衛もそれほど労せずに済んだはずだ。

 焔の粉が、湿った空気を払っていく。雲の厚みが失われ始め、日の光が感じられるようになり、心持ち司令官たちの表情は和らいだ。ロレリアがそっと傍らに立ち、耳打ちする。

「姫様、どうぞ、後方へ。後のことはわたくしどもがいたします」

「気遣いに感謝します。ですが結構」

 目をやれば、闇が凝っていた場所から、風ではない怨嗟の声が迸り、光が曇天を貫いた。どうやら不意の襲撃は無事撃破できたようだ。

「わたくしはアンバーシュの許嫁。ならば、前線で戦う殿御が戻ってくるのを待っていましょう」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る