第二章 八
入室を知らせ、最初に足を踏み入れたのはジュゼットだった。何気なく扉を叩いたのにいちるが返事をしたことに驚いた顔をしながら、両手に盆を持って現れ、その側に小柄な誰かがいることを瞬時に悟った。ひっと悲鳴を上げて手に持っていたすべてを取り落とす。
金属製のそれらと様々な道具が派手な音を立てて足下に散らばり、後ろから続いてきたネイサが何事かを叫ぶ。
その叫んだネイサも、フロゥディジェンマに目を見張り、何か低く呟くと一礼し踵を返した。その頃にはジュゼットも我を取り戻し、散らばったものを拾い集めている。顔が強ばり、青ざめているのを見て、いちるは隣に目をやって問いかけた。
[そんなに恐れられているのか?]
分からない、という風に細い首が傾いた。
ばたばた、騒がしい足音がきて人が飛び込んでくる。ジュゼットが膝の上に道具を抱え込み、しゃがんだままの体勢で頭を下げた。
入ってきたのは、白髪の老女だった。六十くらいの、皺の深い、青い瞳の美しい女だ。襟の高い衣服は裾まで長く、息を乱したままフロゥディジェンマを呼んだ。少女が、さっと後ろに隠れた。
「ロレリア」
いちるが呼ぶと、老女は顔を上げ、まっすぐに目を合わせて深々と頭を下げた。こちらが何者なのかはすでに伝わっていることを確認し、いちるは後ろにいるフロゥディジェンマの背中をさすりながら、心の声でなだめてやる。
[大丈夫。怒ってはいない。あれは心配をしている]
[失礼いたしますイチル姫! エマ様……!]
次に飛び込んできたのはクロードだった。フロゥディジェンマの姿を認めると、一気に詰め寄って跪く。更にフロゥディジェンマが身を隠したので、いちるは苦く言った。
[大人が小さき者をきつく詰ってはならぬ。クロード、宮廷管理長と話がしたい。通訳を頼めるか]
言い足りなそうにしながらもクロードからいちるの意志は伝えられ、相手が応答の頷きを返したのを見てからいちるは言った。
[まずは挨拶をする。妾はいちる。ロレリア宮廷管理長と見受けるが、この騒ぎの理由を聞きたい]
「お騒がせして申し訳ございません。また、昨日ご挨拶を欠いた失礼をお詫びいたします。ロレリア・ワルダフットでございます。ヴェルタファレン宮廷における結晶宮の管理責任をアンバーシュ陛下より任ぜられております。仰せの通り、最初からご説明申し上げますので、お時間をいただきたく存じます」
明朗とし、また日頃喋ることが多いのか深みのある声で述べたロレリアに首肯する。
「現在のわたくしどもの仕事は、そちらにおいででいらっしゃいますフロゥディジェンマ様をお世話申し上げることです。しかし、力及ばず、宮廷の居心地を悪く感じられて、フロゥディジェンマ様がこちらにおいでいただけることは数少ないのです。よく城を出られて他の場所に滞在しておられるご様子。お姿が見えない間、必要であればエマ様をお捜しいたしますが、大抵の場合アンバーシュ陛下の意向でエマ様のご自由にしていただくことが多うございます」
クロードの翻訳が終わる間を測って、一度言葉が切られる。しばらくしてから再びロレリアは口を開く。
「ですがやはり、長期間お姿が見えないとお捜ししております。恐れながら、エマ様はまだ力の制御が不安定でいらっしゃる。己の力で己を傷つけることもなきにしもあらず。神狼フェリエロゥダ様、そして弟君であらせられるアンバーシュ陛下よりエマ様のお世話を命じられているわたくしどもは、エマ様を外からも、ご自身からもお守り申し上げるのが仕事でございます」
フロゥディジェンマは落ち着いた様子でロレリアの言葉を聞いているが、触れているいちるには、彼女がほんの少し、困っている様子なのが感じ取れた。細く柔い肩を何度も撫でながらロレリアに続きを促す。
「ですが三日前、エマ様に何らかの変事があったらしいという報告が入り、確認のためにエマ様をお捜ししておりました。こうしてお戻りになられたことを喜んでおります。――エマ様。ご無事で安堵いたしました」
ロレリアはしかつめらしい顔に笑みを浮かべた。すると官僚らしい慇懃な雰囲気が、一気に華やぎ、優しいものへと変わる。けれど、フロゥディジェンマは答えない。
「エマ」
いちるは己の声、心の声と両方で呼びかけた。
[何か言うことはないのか]
[…………]
見上げるだけの瞳に向かい、目を細め首を振る。
[妾の顔には書いておらぬよ]
背中を押してやると、わずかにためらったようだが、前に出て、ぽつり、言った。
[ゴメン、ナサイ]
ロレリアは微笑んだ。
「ご無事でよろしゅうございました」
すでにフロゥディジェンマはいちるの背後に隠れている。気まずいのか、恥ずかしいのか。その場所が気に入ったのかは分からないが、離れようとしないのでまた頭を撫でてみる。ロレリアはそれにまた目元を和ませると、いちるに謝意を示した。
「まだご支度を終えていらっしゃらない刻限に、このように押し掛け、申し訳ございませんでした」
[よい。妾も早くに知らせるべきであった。それよりも、エマに何か食べさせておあげ。エマ、腹が減っているだろう。食事に行くといい]
[しゃんぐりら。一緒]
ロレリアはくすりと、小さく笑い声をこぼした。いちるも苦笑を禁じ得ない。二度目の対面でここまで気に入られるとは予期していなかった。あの砂糖菓子がきいたのだろうか。
「お願いしてもよろしいでしょうか」
[そなたらがそれで構わぬのなら。ならば、エマ。支度するまで待っていておくれ]
[待ツ]
フロゥディジェンマはいちるから離れると、長椅子にごろりと横になった。こちらから目を逸らさず、小首を傾げたのは用意しないのかという問いかけかもしれない。
[何か?]
宮廷管理長官の視線を受け止めると、相手は微笑しながら目を伏せた。
「ヴェルタファレンに参られた必然は、姫にとっても、この国にとっても、大いなる意味をもたらしましょう。ヴェルタファレンがあなた様にとって、心安らかなる場所になりますように」
彼女は何を見たのだろう。重ねた年月は、決していちるには及ばぬはずなのに、いちるには見えぬものがロレリアには見えるのだ。そのことに気づいたいちるは、胸の奥底で何かがじわりと動いたのを感じたものの、それが何かと見定める前に、心を平坦に均した。
祈りの言葉を贈ったロレリアはフロゥディジェンマを託すと、礼を失したのを最後に詫びて退室していった。
(ロレリアか。宮廷管理長官ということは、第六感めいたものを持っている能力者なのかもしれぬ)
[姫、そろそろお着替えをなさってください。女官の皆さんが待っていらっしゃいます]
[そうしよう。クロード、呼びつけて悪かった]
クロードも去り、さてといちるは女官たちと向き合った。
戻ってきたクロードは一人ではなく、琥珀の髪の男を引き連れていた。青の瞳を愉快そうに細めて、来訪者は言う。
「おや、めずらしい組み合わせですね。いつの間にそんなに仲良くなったんです?」
[オハヨ、ばーしゅ]
ずっとつかず離れずだったフロゥディジェンマが、初めていちるから離れて他人に近付いていった。幼い彼女にアンバーシュの顔はずいぶん高い位置にあるため、ぐっと顔を上げなければ目を合わせることができない。だが慣れているのかアンバーシュは身をかがめてやることなく、むしろ上から手を下ろして、銀の頭を無造作に撫でた。
「はい、おはようございます。我が許嫁の君も、おはようございます。よく眠れましたか?」
朗らかに言われたが、淡々と返す。
[ああ]
「よかった。その服も似合っています。あなたには紅が映えますね。その色に合う髪飾りを今度見立てておきます」
いちるは眉をひそめた。
(……なんだ、この言動は?)
「では朝食にしましょう。あなたも食べるでしょう、エマ?」
[食ベル]
ごほん、と大きく咳払いして注意を引いた。兄の子と同じ目をする男に、顎を上げて問いかける。朝から言葉遊びなどしたくないのだが。
[わざわざ、朝から、ここに食事に来たのか]
「食事作法を知りたいと言ったんじゃなかったんですか?」
いちるを見ながら、アンバーシュの手はエマの頭をかき混ぜている。
「クロードから聞きました。許嫁と食事をする時間を作るくらいには、俺も臣たちも有能ですよ。ご心配なく」
ではこの男はいちるの戯れを本当に実行するつもりなのだ。こんな朝に起き、世話する者も、仕事もあるだろうに、戯れ言を本気に取って。続いた言葉は軽口だろうが、あながち冗談でもないのかもしれない。
(少なくとも、実行力も、それを一度は可能にする能力もあるということか)
ふんと鼻を鳴らす。
[いつまで続くか楽しみにしよう]
「そうしてください。クロード、あなたはさっき言った仕事をしてください。イチルの通訳は俺がいれば十分ですから」
[分かりました。では、姫、エマ様。失礼いたします]
そしてネイサとジュゼットに見送られ、三人で食堂へ向かう。
壁の一面を硝子窓にしてある部屋に、長机と椅子がある。こちらが向かうことはすでに伝わっていたようで、昨夜いちるが困惑した手巾と食器がそれぞれ揃えられている。しかし、昨日のことは一切表に出さず、給仕の者が引いた椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。座るにも間が取りづらく、つい動作がぎこちなくなる。
しかし隣にいるエマはもっと居心地が悪いらしい。一所に座すのが落ち着かないらしく、しきりに身体を揺らしている。寝そべりたいのだろう。食事が供され始めたが、第一声がアンバーシュの「エマ」という牽制だった。
「食器を使いなさい」
[ばーしゅ]
「だめ。人らしくしなさい。でなければイチルと一緒にいてはいけない」
[妾をだしにするな]
「一番効果があると思うんです。彼女が初対面の人間にこんなに懐くのは滅多にないんですから」
確かに不思議だ。人に純粋な好意を抱かれたこともなければ、動物に好かれたこともない。なのにフロゥディジェンマの目は澄み切っていて、つい、錯覚しそうになる。
(妾はそんな、上等な生き物ではないのだがな)
「イチルが好きか」
[好キ]
他愛ない言葉に微苦笑してしまう。
[何がそんなに気に入った? 気に入られる何かをした覚えはないが]
[怖ガラナカッタ]
言った少女はやってきた卵焼きを無造作につついている。だが、その答えがすべてだというのは、いちるには察することが可能なのだった。
恐怖は、強い。線を引き、殻を作り、人を弱くして嘘をつかせる。支配の手を払いのけることができず、知らぬうちに取り返しのつかない深みにはめられている。恐怖による隷属をはね除けることは容易ではない。ゆえに、人は力を誇り、優位に立とうとする。いちるとて例外ではない。
[……怯えなかったのは、そなたが美しかったからだよ]
銀と薄紅の、光撒くけもの。気高かった。壮烈で、絢爛たる姿だった。深紅の瞳をとらえた時、その力の強さにおののいたが、実際に目にした神獣はその恐れを払拭するほどに、目覚ましく美しかったのだ。
(それに、妾はそなたよりももっと恐ろしいものを知っている……)
小さく囁いた内側の己は、あんな夢を見たせいだろう。――東の国の、男ども。
[エマ、モ、怖クナイ]
その声はぽとりと落ちた。
その瞳はなにものにも穢されない開いたばかりの花と同じ。
[しゃんぐりら。知ッテル。ズット]
「エマ?」
アンバーシュの戸惑いに、フロゥディジェンマは答えなかった。まだ持ち慣れぬ食器に苦戦し、食器の触れ合うかちゃかちゃという音が派手にしている。
葉物を咀嚼する。こちらの食事は、要望の結果、暖かい上に美味だった。上座と思わしき席にいるアンバーシュは、フロゥディジェンマの方に意識を向けるせいかあまり進んでいない。だが今はいちるを見ている。目が合うと、かすかに微笑んだ。
夢の中まで覗き見されそうで顔を背ける。
「作法が分からないと聞いていましたが、あまり問題なさそうに見えますね」
[クロードの教え方がよかったのだろうよ]
「ああ、初日はクロードがいたんでしたね。なんだ、つまらない。せっかく手取り足取り教える機会だと思ったのに」
[……不埒な意味と取るが?]
「触れたいと正直に言っただけです」
左手にある三つ又の銀器を意識した。投げれば、必ずや刺さるだろう。
[子どもの前ぞ]
低い声にアンバーシュは両手を挙げて戯ける。
「そうでしたね。では続きは後に。イチル、とりあえず今日は街に案内します。空から来たせいで、街は見ていないでしょう? 遠見ができるからいらないなんて言わないでくださいね。これでも一緒と出掛けられるのを楽しみにしているんだから」
まさに、別に直接見なくても力を使えば事足りると答えようとしたいちるは、鼻の頭に皺を寄せ、嫌味を言った。
[そんなに王の仕事は暇なのか]
アンバーシュは笑っている。
「あなたと過ごしたいだけです。色々決めることはありますがまだもう少し時間がかかる。それまでの自由な時間を、俺に割いてほしい。あなたのことをもっと知りたいから」
いちるは食器を置いた。食欲が、失せた。代わりに腹の中で、わけのわからない、怒りに似た熱いものが煮えている。不快で怪訝で、なのに居心地の悪い戸惑い。
(こやつの、この意味の分からない言動は、どういうつもりだ? 一体、何なのだ……?)
「エマはどうしますか?」
フロゥディジェンマは首を傾けた。この仕草は癖らしい。
「俺の側を離れないと約束できるなら、連れて行ってあげますよ」
[行ク。しゃんぐりらト、一緒]
どうやらいちるの意見は鼻から聞き入れるつもりはなかったようだ。ご機嫌になって食器から赤い掛け汁を顔に飛ばすフロゥディジェンマに、手巾を取って顔を拭ってやりながら、内心で心を固く決めていた。
簡単に、笑ってなどやるものか。
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