第二章 九

 支度を終えてから迎えに来ると言われた。二度目の着替えを終え、今度は幾分か質素な衣服を身につける。『質素』の理由は、布地の手触りが違うからだ。

 滑らかな手触りの布は引きずるほど長い、細緻な刺繍の入った衣服と、手触りは悪くはないが若干落ちる布地に何の細工もなく装飾品もつけず、唯一の彩りは透かし編みの襟飾りという格好では、まったく異なる。

 動きやすさは身分を象徴する。裾を引きずり、汚れを厭う衣服は、貴人の証でもある。しかしそうではない衣服を用意されたということは、求められているのは高貴な女としての振る舞いではない。

 迎えにきたアンバーシュは、これまでと比べて地味な服装で現れた。白い襟巻きに、沈んだ色の上着。靴も、革がくたびれている。

「何か言いたそうですね」

[別に]

 顔を見られないように笑ってやる。恐ろしいほど似合っていない。

 対して、フロゥディジェンマは顔がほころんでしまうほど可愛らしい。膝丈の服には膨らんだ白い裾が覗いている。丸い靴を履いて、頭には小さな帽子を載せていた。いちるやアンバーシュに比べて高名な息女といった様子の、可憐な、陶器人形のよう。

[可愛らしい格好だな、エマ]

[キュウクツ]

 頭を振り、襟を開こうとする。せっかく梳かしつけた髪が綿帽子のように跳ね上がっていくのを、女官たちが櫛を片手に慌てて駆けつける。そのうち靴まで脱ぎ捨ててしまいそうだ。似合っているが、あの子には合っていない。誰が選んだのやら。

 アンバーシュはため息混じりに頭を振った。

「はいはい、分かってますよ。エマは可愛いです。でも俺はこういう服が、まったくもって似合わないんですから」

 拗ねたように言って、先に歩き出す。

 表に出ると、ため息を堪える顔のクロードが待っていた。

「ご苦労様です。用意は?」

「こちらに。くれぐれも、無茶はなさいませんように。あなたが戻ったことを他の神々もすでにご存知でしょうから、話を聞こうと押し掛けてくるかもしれません」

 アンバーシュに荷物を手渡しながら、クロードは街の者にまぎれる姿になった三人を見て結局深い苦悩を吐き出した。

「やはり供をつけた方がいいのではありませんか? 私の仕事は、他の者に任せれば……」

 アンバーシュの声が音でないものに変わる。

[あなたかロレリアかにしか任せられません。注意を払ってください。何かあったらすぐに呼びなさい]

[……御意に]

[くろーど]

 フロゥディジェンマが呼びかけると、クロードの眉間の皺が和らいだ。

「エマ様のおかげで、恐らく大丈夫だと思います。どうぞ、存分に楽しまれませ」

 城の者に見送られ、街へ降りる馬車に乗る。これには屋根があり扉があり、小さな箱になっていた。アンバーシュの馬車よりもずっと快適だ。雨風がしのげるし、髪も乱れない。だが速度は段違いに遅い。

[出掛けるのに、問題があったのではないか]

[いえ。……と言っても無駄ですね]

 いちるは彼らの会話を聞き取れる。他の使用人たちには聞こえないやりとりに、何らかの懸念があることはすでに知っていた。

[マボウ]

[何?]

 フロゥディジェンマから伝わったものが正しく変換できず、問い返す。

[魔眸、と言ったんです。東では何と言うんだったかな。太陽神と月神の去った常闇の一瞬に生まれた、魔の瞳を持つ最後の闇の生き物ども]

[魔妖のことか]

 妖魔、魔物、影ともいう。輝かしい神々とその守護がある東と西のそれぞれの大地には、神と人に反する生き物が存在する。夜と影に潜み、天災のきっかけや、人の心の闇に忍び寄り、災いを呼ぶものたち。すべての由来が太陽の神と月の神にあるものを、それから魔妖どもは外れている。創造の御柱から生まれたのではなく、いずこかよりやってきた異形。

[本能というのか、エマは意識せずに魔眸どもを追う性質があります。先日からの外出もそれが理由だったみたいですね。俺の留守中に近付いてきたやつらを追い払ってくれたようなんですが、先住が消滅したせいで、新しいねぐらを狙ってくるやつが出るんです]

 だからクロードに目を光らせておくように言いつけたというのだ。

[ロレリアの名も出ていたが]

[やつらに対抗しうる特殊な武器も宮廷管理庁の管轄です。数が少なすぎて動かすには長官の許可が必要ですから。まあ、何も起こらないだろうとは思うんですけどね。昨日の今日だから]

 すでに馬車に飽きて窓を掻くフロゥディジェンマを見る。

 輝かしい光には、必ず影が寄る。消し去られるという恐怖よりも呼ばれた者の忠実さで、影は光に手を伸ばす。飢えているのか、占有したいのか。尋ねるにはその領域は危険すぎて、いちるは決して手を出さなかった。力を求め、闇に落ち、魔道に足を踏み入れた前例が命を落としたことを知っているせいもあった。

[恐いですか]

 アンバーシュが聞く。鼻で笑う。

[そういった者どもから国を守るのが妾の務めの一部でもあった]

[国を守るのがあなたの仕事だったんですか、百年以上も? 望んで?]

[東神は過剰に守護の力を使わぬゆえな。二百年前の国主と術師たちが妾を見出し、守護者に据えたのよ]

 東の神は、魔眸による災害を緩和させる程度の守護を与えている。堕落した者たちによる犯罪や、そそのかされた領主たちによる戦に、彼らは干渉しない。いちるは、二百年、撫瑚で東島を俯瞰してきた。人は己の力で間違いを犯し、正し、また間違って正すことを繰り返していたが、天地に座す神々は何の手も差し伸べなかった。

[人の業は人が負う。東の者はしたたかぞ]

[…………]

 感嘆のため息。

[……家族は? あなたを助けてくれる者はいたんですか]

 鼻を鳴らしてやった。

[親の顔も名も覚えておらぬ。異能の女に近付いてくる者は欲深き者と知れている。好んでやってくる者などいない]

 目に気付かない振りをして素っ気なく言う。

[ひとりで生きてきた]

[そう。それが妾の誇り]

 まっすぐな目がいたわりを浮かべた。


[なら、これからあなたを守るのが俺の役目というわけだ]


 目を瞬かせた。

 あまりにも驚いたせいで、何も浮かばなかった。

 罵倒も、あざけりも、すっかり消え失せて、残ったのは己とは違う別種の生き物、それもとんでもない馬鹿を眺める困惑と混乱だ。

[……何を……]

 意図が掴めず、当惑してどうしていいのか分からない。相手の腹の内を探って、自身を優位に立たせようとするいちるの思惑は、この半神半人の国王にはどうも相性が悪いらしい。どのように振る舞えば、これの上位に立てるのか。

 何故なら、アンバーシュはいちるをどうとも扱わぬ。

 気持ちが悪かった。

 撫瑚の城主のように我が身可愛さに盾や保障にするのではない。城の者たちのように触れてはならない魔物として遠ざけるのでもない。大臣たちはいちるを侮ってはならないと思っているだろうし、女官たちは薄気味悪がっている。フロゥディジェンマは奇妙に懐いているが、アンバーシュは、それらのどれとも異なる。

 いちるを何者にもしない。所有物でもなく、触れぬ領域のものでもなく、便利な道具でもないのなら、それは単純に、側に置いているだけということになる。

 内心で首を振った。

(そんなはずがない。撫瑚まで乗り込んで妾をさらったのならば、そこには何らかの望みがあるはずだ。だが、この男は、それまでの妾の価値に重きを置いていない……)

[でも簡単には守らせてくれないんでしょう?]

 アンバーシュは、窓枠に立てた肘で顔を支え、やけに嬉しそうにこちらに見る。

[と、当然じゃ。守られるようなか弱さなど、妾にありはせぬ!]

 なのに何故顔が火照るのだ。左手で頬を隠し、隠した頬を向けた。首と目と頬が熱い。耳の後ろがどくどくとなっている。

[オ腹ヘッタ]

 折よくフロゥディジェンマが言う。そろそろ降りますかとアンバーシュが言い、心なしかほっとするいちるだった。

 道の隅に馬車が停止し、御者が扉を開けた。飛び出したフロゥディジェンマに「こらこら、そこにいなさい」と声をかけながらアンバーシュが降り、いちるがそれに続くと、差し出された手が目に入る。

 青の瞳は何の気負いもない。だからこれは機嫌取りではないのだ。

 だから、いちるは何気なく手を出す。なのに、指先が触れた瞬間、またたきほどの刹那、手がためらい、震えてしまった。

「エマ。離れない」

 アンバーシュはいちるから目をそらして姪を気にしている。これは明らかな受け流しだと分かったので、顔が引きつった。まこと、礼儀正しくて笑えてくる。

 ゆえに、いちるはアンバーシュの手を力いっぱい握りしめてやった。驚き顔で見返ったアンバーシュはしばし握り合う双の手を見つめていたが、ふっと笑うと、いちるの手をほどき、腕に持ってきて添えさせる。

 これが一般的な随伴らしい。また一歩、優位に立たれたことに苛立ちを隠すことは困難で、肩を震わせそうになっているアンバーシュが歩き出さなければ、平手のひとつでも見舞っていただろう。

「ここは三の郭。一般住民街の東側に当たります。こちら側の目立った施設というと、公園と箱物です。美術館、博物館、図書館。市民の交流の場になっています。南側へ行くと市場があって、西側は建物が密集している地区です。今日は東から南へ移動しましょう。公園は比較的高いところにあるので、そこから街を見る方があなたの目にはいいでしょう」

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