第二章 七

 俯いた先の、黒々とした馬の首を見ている。

 固く柔く振動する背に揺られ、裸足の足を宙に浮かしたまま、撫瑚の城を目指している。雪雲が延々と続く空の下、与えられたのは毛布一枚で、ろくに自身を暖められぬまま、震えが伝わらないよう、背後の武者の様子を必死にうかがっていた。

 臆していることにも寒さに震えていることにも気付かれたくなかった。自分を連れ去った男は値踏みする目をしており、逃げ出そうとするなら笑いながら追いかけてくるだろう嗜虐的な顔つきで、身を固くするこちらを、見えない糸で捕らえている。

 何かが自分を連れ去ろうとしている。

 予感はあったが、それがはっきりと見えない。予知の力は偶発的に、叩き付けるような強さでもって降ってくるので、何か巨大な天災や人災が迫っていない限り、ただの曖昧な予感でしかないのだ。――このときは、まだ、そうだった。

「寒いか?」と武者は聞いた。

 首を振る。男の手が肩に触れ、その痺れるような熱さに身体が強ばってしまう。笑み含んだ声が揶揄する。

「ならどうしてそんなに身を竦める? わたしが恐ろしいか?」

「恐ろしくない。お前なんか、恐いものか」

 曇天の風が、細い声を玻璃の鐘のように響かせた。

 唇を結び、男を見据える。握りしめた拳には何もなかったが、刃を手にしたつもりでいた。

 男の目は、その瞬間わずかに見開かれ、ますます愉快げに細められた。

 しかしそのように虚勢を張ったものの、馬の足が着実に進むにつれ、震えが止まらなくなってきていた。ようやく、その原因が気候ではないことに気付く。心の臓が早鐘のように打ち、頭の中を奇妙な風が吹き荒れている。目の眩みに襲われ、身体をまっすぐに保てなくなってきた。

 自身をそこに留めておけない。意識が。

(何かが、わたしを)

 重石のごとく絡め取っていく蜘蛛の糸。奈落の底、欲望で紡ぎ上げる黒の弦。笑う男の声に沈められ、息ができない。あがいて見上げる空は、けれど、闇に閉ざされていく。

「我が主と国を守る卜師が、お前に力を与えてくれよう。喜べよ、女。無為に使っていたその力、国のために使うことができるのだから」




 はっと目を開いた瞬間、夢と相反するきらめきの赤い瞳にぶつかり、いちるは仰天した。驚愕したものの、咄嗟に動くことができず、まじまじと相手を見つめてしまう。

 紅の瞳、銀の睫毛が扇を仰ぐようにして無邪気に瞬いた。ゆっくりと目を動かして、相手をうかがう。腹部の重みが人の身体であることを知り、夢の原因を悟る。息苦しさは、これが理由だったらしい。

 相手は人の形をしていた。いちるの上に乗り、無垢でいて無遠慮に寝顔を覗き込んでいる。重みからして霊魂ではなく生身で、銀色の髪と赤い目を持った十ほどの少女。いちるの目が忙しなく動くのが気になるのか、何度も首を傾げ、捻り、飽くことなく見つめ続けている。

[……重い]

 心の声で呟いてみせると、相手は大人しく身体を引いた。だが、いちるの足下に座り直しただけだ。だるい身体を起こして、もう一度相手を確かめた。

 銀の髪が、綿のような巻き毛になって顔の周りにかかっている。目を見張るほど愛らしい娘だ。程度は、十人が十人ともなんとまあ、と口を開ける。

 相手がじっといちるを見るので、目をそらすことができなかった。

 起き上がった体勢のまま、見つめ合うこと数十秒。

 時間を感じていないような少女の根気に感嘆したいちるは、くすりと笑って抱えた膝の上で問いかけた。

[どこから入ってきた?]

 くりんとした瞳は、小動物のように愛くるしい。

[聞こえていないわけではないのだろう?]

 問いかけは確信だ。

 年端もいかぬ容姿には、強い力が漂っている。たなびく力は、はっきりと明朗で輝かしい神力だ。危害を加えるつもりはないようだが、無作法に侵入されて何のつもりかと尋ねないわけにはいかない。この地は雷霆王アンバーシュの治世下、その膝元である城である。

 これが使者ならば西神の総意は何とや、と目を細めたところ。

 ――ぐぎゅううっ……。

 小さな手のひらが、そっと腹を押さえる。

 危ういほど美少女の腹の虫が鳴ったのだ。思いがけなかったものだから、顔がほころんでしまった。

[お待ち。東国から持ってきた干菓子がある]

 口寂しいときにつまめるよう、懐紙にくるんだものを常に持っていた。ずっとたもとに入れたままで、ほぼ着の身着のままでこちらに来たから手元に残っていたのだ。

 急にいちるが動いたために、少女はすっと目を細めてこちらの動きを見ていたが、少し離れたところで懐紙を広げ、淡い色の和三盆を見えるようにしてやると、興味を引かれたのかじっと動かなくなった。

 いちるは梅を模した白いものをひとつ摘み、じっと相手を見ながら大きく開けた己の口に運んだ。上等な砂糖菓子は舌の上でほどけて溶け消え、甘みが口の中に広がる。それを、少女は興味深そうに見守っている。

[おいで。好きなものをお取り]

 寝台を降り、たどたどしい足取りで近付いてくる。いちるは腰を屈めていたが、少女が己で立ったのを見届けると膝を折り、視線の高さが同じになるようにしゃがみこんだ。

 和紙の上に、薄紅、抹茶、黄に染めた菓子が揃っている。花や草や模様を象って、見た目にも愛らしい。小さな指が薄紅の桜を取ったとき、いちるは思わず顔をほころばせてしまった。

 これはなんだろう、と考え込んでいるのか、それとも何も考えていないのか、少女は茫洋とした目で手にした菓子に目を落としたまま、動きを止めてしまった。懐紙から黄色の渦巻きをつまんだいちるは、そっと指を少女の小さな口元に近づけて、言った。

[ほら、口を開けて。あーん]

 口を開けてみせるとつられたように口が開いた。砂糖菓子を放り込む。飛び込んだ異物にぱくんと反射で口を閉じた少女は、初めて表情らしいものを浮かべた。目を丸くし、唇を開き、けれど閉じ、そのままもぐもぐと口を動かしている。すると忙しなく瞬きを始め、いちるが捧げ持ったままの和三盆を、じいっと、さきほどとは打って変わった熱心さで覗き込んでいる。

 噴き出しそうになりながら、紙ごと渡してやる。

[構わぬよ。全部おあがり]

 俯いて、指をしゃぶる勢いで黙々と食し始める。

 小動物が食事をしているように見えるが、この中身はとんでもないものだといちるは考えていた。警戒心は強いが精神は幼く、なのに力は驚くほど強い。今も肌にぴりぴりとした感触がある。

 どうしてこんなところにいるのか問うてもいいが、恐らく答えはないだろう。

 食事に夢中になった少女を置いて、帳の降りた窓辺に寄ると、外に感覚が飛んだ。意図してではなく、外の様子をうかがおうとした意志が勝手に力を働かせたのだ。驚いて背後を見返ると、少女がちらっと視線を投げて、菓子に向き直るところだった。

(手助けの、つもりか)

 力の補正を施され、おかげで簡単に外が掴めた。夜が明けたばかりで、城の者は動き始めている。人ならぬものが空を飛び、駆け、異形の者どもが消えゆく影に身を潜め始めている。いちるにそのつもりはなかったのだが、城下の様子も感じ取れた。すでに街も動き出している。夜も絶やさなかった竃の火で、食事が作られ、井戸に水汲みに出る者たちが見えた。

 しかし、城はまだ大勢の人間が眠りについている時刻のようだ。遠くのものを聞く耳には静けさのちりちりした音が聞こえている。

(さて、そんな時刻に人を呼びつけるのは気の毒か)

 枕元の紐を引けば人が来る、と聞いていた。用があればいつでも自由に人を呼べるのは気楽でもある。だが、いちるはまだこの城での位置を正しく定められていない。

 腕を組み、帳の窓に向かって考えをまとめる。

(妾の望みは、自由を損なわれぬこと。自由になるためには責任を果たさねばならぬ。ゆえに妃の仕事だろうと、占い師であろうと、自由が保障されればまっとうすることもやぶさかではない。願いを通すには、ある程度の信頼と責任が必要だからだ)

 印象は強く残った、と自負している。悪女でもあり恋する哀れな女でもあった人物を身にまとったことは、あの場に居並んだ者たちに深く刻まれたはずだった。

 やってきた女はただの生贄ではないのだ、と。

(しかし仕事に比重が傾いては意味がない。勤勉と取られてはかなわぬし、力の行使も容易にできると思われては困る。妾は安くない。その辺りの駆け引きが最も大事)

 手っ取り早いのは、味方を数多く作ることである。それも権威ある味方を。そこから更に己の仕事と振る舞いが評価を受ければ、例え一日中引きこもっていようと何を言われることもない。そのため、ある程度の媚びは必要だ。虜にしてしまえば、後は適度に優しくし、突き放すことを繰り返せばいい。

 だが、それを一からせねばならぬかと思うと気が重かった。二百年住んだ撫瑚は、小さな獄ではあったが居心地は悪くはなかったのだ。

 思い出し笑いが浮かんだ。

(……ずいぶん懐かしい夢を見たな。撫瑚に連れられた頃の妾と、まだ若い宗樹(むねき)だった)

 宗樹。久方な名前は、思うだけで苦く甘い味を呼び起こす。城主貞晴に命じられ、いちるを迎えにきた武者。いちるを嬲って虐げた男。異能の使い方と振る舞いのすべてをいたぶるようにして教え込んだ貞晴と卜師とはまた違った意味で、激しく、熱く、悪しかった。

(お前たちのせいで強まった力で、妾は西国へさらわれたぞ?)

 つと、裾を引かれた。菓子を食べ終えた少女がこちらを見上げている。威嚇しないよう静かに伸べた手で銀の頭をかき混ぜると、心地良さそうに目を閉じ、もたれかかってきた。

[うまかったか]

 こくり。肯定が返ってくる。

[そうか。それで、何の御用かな。まさか噛み殺しに来たわけではなかろう?]

[食ベナイ]

 初めて声が伝わってきた。

[人、食ベナイ。甘イモノ、好キ。ダカラ、しゃんぐりら、食ベナイ]

 人間が甘味であれば食べることも厭わなさそうだが、それとは違う理由でため息が出た。やはりそうらしい。

[フロゥディジェンマ]

 昨晩暴れ回った神狼は、無垢な少女の瞳でいちるを見る。

[エマ]

[分かった。エマ。妾の名はいちるだ。シャングリラではない。シャングリラは、東方の果ての理想郷のことだろう? それとも東の女のことはシャングリラと呼ぶのが普通なのか]

[しゃんぐりら]

 指をさされる。その指を上から押さえつけて下ろさせ、言い含める。

[人を指差ししてはいけない]

[黒イ髪。黒イ目。東ノ、オ姫様。ダカラ、しゃんぐりら]

 何が『だから』なのかまったくもって理解できないが、彼女の中には明確な根拠があるらしい。幼神と問答するのも悪くはないが、意思の疎通に少々疲れを感じる。フロゥディジェンマについて知りたいことがあるのなら、アンバーシュにでも聞けば分かるだろう。

[ろれりあ]

 知らぬ名前が出た。ちょこんと首を傾げるが、どうも先ほどとは様子が違う。

[どうした]

[怒ッテル。怒ラレル]

 誰が誰に、ということは汲み取らねばならない。小首を傾ける少女の様子から推定して、怒っているのはロレリアなる人物で、怒られるのはいちるか、フロゥディジェンマか、それとも別の人物か。

[誰が怒られる?]

[エマ]

 言って、目を落とす。

[……ロレリアに叱られるからここに逃げ込んできた、ということでいいのかな?]

 返事はなかったがそういうことだろう。神を叱れる人間の心当たりは、すぐに絞り込めた。言うほど人に会っていないいちるは、今のところまだ名を聞いたすべての人間のことを覚えている。

[ロレリア宮廷管理長官か]

 実際に顔を合わせたことはないが、フロゥディジェンマの落ち込んでいる様子を見ればひとかどの人物であるようだ。

「ふぅん……」

 神に意見できる臣とは、なかなかに面白い。いちるはそっと笑み、人がやってくるまでフロゥディジェンマを匿ってやることにした。今日もまた、少し楽しめる一日になりそうだ。

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