第二章 六

 潜めた低い声はしかしはっきりとそれぞれの耳に入り、情けないことに男たちは請うように、あるいはどう話していいものかうかがう顔でアンバーシュを見上げた。訳すアンバーシュとクロードが視線を交わすのが視界の端に入る。アンバーシュは補佐官を手を挙げて制す。

「俺が説明します」

[何故]

 アンバーシュは怪訝な面持ちでいちるを見返した。

[妾が尋ねている相手はエシ宮廷管理長官補佐じゃ。エシが答える義務があろう。それともこの場所では、臣民の義務は国王が果たすのか]

「……すみませんでした。エシ宮廷管理長官補佐。ロレリア宮廷管理長官がいない説明をお願いできますか」

 手足が長く、いかにも俊敏そうな男が首を竦ませて語るのは、宮廷管理官の仕事の中身だった。

 宮廷のあらゆること、主に貴人の世話をする人間を司っているのは侍従長だが、宮廷管理官とはそれとは別にあるひとつの仕事に特化した者だと、彼は述べた。

 ひとつ、といちるは眉をひそめた。

[仕事がひとつだけだというのか? それなのに長がいる?]

「で、ですが、宮廷管理局は十名にも満たない人数で構成されています。決して財源の無駄遣いというわけではありません!」

[禁裏の、何を、管理する仕事か]

 と問い返し、ふとエシが見舞われた『何か』の予感を察知する。

 光の帯、傷、牙と爪。

 美しい銀光は、星の尾のように美しい。

 脳裏に浮かぶそれに魅入られながら、何が、と言葉を続けていた。

[『何』が、禁裏(ここ)にいる?]

 ごくりと唾を飲み込む音がした。

「我らは……宮廷管理官という職は、ヴェルタファレン城が抱える結晶宮に由来します。我々は結晶宮廷に御座す神々をお世話申し上げる者です。アンバーシュ陛下にも長官ロレリアがついております。しかし現在我らは主に、お一方のお世話を担っています。宮廷には、現在別の神が滞在なさっておいでなのです」

「兄の子です」と訳した後にアンバーシュが言った。

「俺と同じ大神の子フェリエロゥダの、子どもに当たります。勉強のために兄の意向でこの城に住んでいるんですが、幼いせいで力の制御が利かず、管理官はそれをなるべく抑えるために配置しています」

[宮廷管理官とは、神鎮めの神官か]

 エシに目を向けて言うが、いえ、とアンバーシュは軽く否定した。

「確かに、昔は巫女や神官といった能力者を当てていました。ですが、それでは大神直属の信仰機関との区別がつかなくなるので、あくまで宮廷管理官はヴェルタファレン特有の文官です。この国は客が多いですが、今はエマを抑えられる者だけを配置してあります」

[エマ]

[フロゥディジェンマのことです]と素早く答えがいちるにだけ返る。

[能力者とは異なるのか]

「現在の選考基準はエマが言うことを聞くかどうかなので」

 よほど気まぐれで、危険な神らしい。初めて降り立つ場所ゆえに感覚は働かせていたし、見逃すはずがない。到着したときには気付かなかったのに納得がいかず、いちるはアンバーシュに半眼を向けた。

[何故最初に引き合わせなんだ]

「どこにいるか分からなかったからですよ」

 何故そんな相手を放置する、と怠慢を責めようとしたところで、いちるは急激な耳鳴りに見舞われた。

 耳の中を掻き回され、叩き付けられる衝撃に、床にのめり込みそうになる。

 やがてその衝撃が小さくなるにつれ、正体を判じることができた。

(これは……遠吠え?)

 鼓膜が叩かれたおかげで眼痛と頭痛に見舞われながら、いちるは正体を探った。

 視界には驚愕しきっている大臣たち、青ざめるエシ。クロードは音に顔をしかめ、アンバーシュは呆れた顔で耳を押さえている。

「知らない者がいると警戒していますね」

 いちるを指しているのは言うまでもない。

 異能の目が働き、声の残響を糸として紡ぐと、それを一気に引き寄せる。日中、クロードに案内された城内を突き進み、廊下を抜け、庭に出る。いちるが知らぬどこかの庭園の影をくぐり、人気のない森へ至ると、光の帯を見た。

(捕った!)

 姿を見んと目を向けた瞬間だった。

 開ききった赤い瞳が、無礼に覗き見した者を見とがめて細くなった。

(……っ!)

 逃げとんだにも関わらず、相手はいちるを正しく補足した。

 どん、と扉が揺れた。慌てた声がして謁見の間の扉が、兵士たちによって開かれる。銀色の固まりが、いちるに向かって飛来した。防護もできず武器も持たないいちるは咄嗟に両腕で己を庇う。

 ばぁん、と叩き付け合うような音が響いた。

 見開いた視界に、焦げ付いた腕を人目から隠すアンバーシュが見えた。ため息、少し怯んだ声が言う。

 光の跳躍で、それは現れた。

「……おかえり、エマ。けれど、もうちょっと大人しく帰ってきなさい」

 銀の狼。

 エシの潜めた声が響いた。

「――神狼……フロゥディジェンマ様です」

 掘り出したばかりの、色が深い銀の毛並みは、尾や首の周りが果実のような薄紅色に染まっている。

 硬質的に輝く獣は、血珠のような瞳を剥いて咆哮した。

 それだけで広間が清らかで烈しい神気に溢れる。感覚が透き通っていくことにいちるは驚いた。空にある不純物がすべて浄化されていく。隅々まで光が行き渡る。吸い込む大気が、かぐわしい。

 銀の光が舞い散る。――なんと、まばゆい生き物か。

(これが、神のけもの)

 東国にも神獣は存在する。しかし、太陽と月の子であり獣の神であるそのものたちは獣、その長になりうる半神半獣より更に上位の存在の支配者であり、人と交わることはない種族だった。

 アンバーシュの兄は、つまり大神と神獣の子であり、生粋の神獣なのだ。

 この男が確かに半神半人であることを、改めて認識する。自分だけだったならば、力に当てられて昏倒していたか怪我をしていただろう。アンバーシュでさえ、服が焦げ、肌を焼いたのだから。

 いちるは、自分を庇った男の腕をほどくと、強いまなざしをフロゥディジェンマに向けた。

[止めなさい。出先で何があったか知りませんが、今日はかなり気が立っています]

[忠告ありがたくちょうだいする。じゃが、礼は通さねばならぬ]

 すでに大臣たちは退避して、謁見の間にはアンバーシュといちる、そしてすでに牽制に動こうとしているクロードが残っている。

 裾を払い、アンバーシュの前に立ったいちるは、堂々と身をさらし、相手の目をじっと見つめた。

 半分牙を見せながら低く唸る狼は、いちるの静かな佇まいにきつくにらみをきかせていた。目を見交わした状態でいちるが動けば、例えどんな理由であろうとも敵と見なし、襲いかかってくるだろう。

 いちるもまた、相手の挙動を見逃さないように注意を払った。他の者に邪魔をされては、その者に怪我をさせてしまう事態になりかねない。

 しかし、やはり美しい生き物だ。銀毛の一本一本が、照り返しで細工物のように光り輝き、色が変わっている部分は飴のように艶やかだ。その中で最も深い色を持っている瞳は、珊瑚より紅玉より、もっと底の見えない赤い石。

 その石をつかみ取る機会を待つ。目を細め、再び大きくし、お前を見ているという意思を伝える。

 相手は関心を持っていちるを見た。

[妾の名はいちる。ただのいちる]

 神であるならこの声が届くだろうと思い、呼びかける。

[異能を用いて、御身を覗き見したことを謝罪する。申し訳なかった]

 唸り声が小さくなる。いちるの声を聞いているのだ。

[妾は、東は撫瑚という国から、アンバーシュ・ヴェルタファレンに求められてこの地に来た。妾は己の由来を明らかにできぬゆえ、御身には不快に映るやもしれぬ。だが敵意はない。もし許されるのならば、御名を呼ぶことを許してもらえぬだろうか?]

 言いながら、やたらとややこしい発音の名前だったなと思い返す。呼びやすい名もあるが、この神狼の名は特に難しい。つけられた名は出身に拠るのだろうか。

 などと余計なことを考えてから、微笑みかけた。

 すると、狼はゆっくりと、ほんの少しだけ頷きを返したから、いちるは己の声を使って名を口にした。

「フロゥディジェンマ」

 名を交わし合うことはまじないとしての意味を持つ。いちるは相手に名を差し出して敬意を払った。それを認められ、神狼の名を口にすることを許され、庇護を受ける権利を得たのだ。

[…………]

 微弱な思念が何かを囁いた。

[何?]

[…………ら]

 囁いた声は、ほんの小さなものだった。しかも幼い女児の声で、いちるには思いがけない言葉を口にした。



[――……しゃんぐりら]



 ――それは、東の果てにある桃源郷の名。



 かと思うと次の瞬間光がひらめき、神狼の姿は疾風のごとく消え去っている。

 微風にそよぐ髪の間から、汗が流れ落ちて、自分が緊張していたことを知らされた。安堵の息が聞こえ、すぐ近くにアンバーシュが来ていた。強ばっているらしい顔を撫でながら、呆れた声で言う。

[肝を冷やしました。ああなったらなかなか声も届かないのに、あなたが初対面で喧嘩を売ったりするから]

[あんなものは喧嘩とは言わぬ。距離を測っておっただけじゃ]

 つんと顔をそらす。最終的な位置を決められなかったのが心残りだが、向こうが逃げたのならこちらが優勢だろう。次に会ったときにどう反応するかを見て、態度を決めることにする。

[人外のにらみ合いを見てる気分でしたよ。ね、クロード]

[はい。狼と蛇、いや、互角でしたから狼と狼のようでした。私も肝を潰しました……]

 いちるは冷たく繰り返した。

[蛇]

[ちちち、違います、姫が蛇とかそういうのではなくて!]

「アンバーシュ様! ご無事ですか!?」

 逃げていた大臣たちが戻って、揃って絶句した。

 謁見の間は扉の片方が外れかかっているし、緞帳は落ちているし、アンバーシュの片腕は治癒の力がきいて傷はないが片袖がなく、いちるの完璧に整えた衣装も髪もすっかり乱れてしまっていた。

 このまま仕切り直しというわけにもいかず、「疲れたでしょうから仕事に戻りなさい」というアンバーシュと、自身の印象づけのために揃えた小道具を再び揃えてやり直す茶番を演じたくはない、[二度もこんな仰々しいことはしたくない]といういちるの意志によって、対面の場は結局そのままお開きとなった。

 しかし、退出するいちるを呼び止めたのは、宰相インズだった。激務なのか痩せた身体にたっぷりした髭を持っている男は、吹けば飛べそうな身体に似合わず鋭い眼光で問いかける。

「姫はネイゼルヘイシェ夫人の格好をなさっておられる。夫人は王を籠絡し、一方で神に恋して悪しき身を呪った。果たしてあなた様はどちらの意味をわたくしどもに示したのか、お聞かせ願いたいのです」

 アンバーシュ本人から訳し伝えられた問いかけに、いちるは磨いた指先で、琥珀と青の半神半人の王を指し示した。

「それはこの男の行動次第と覚えておおき」

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