第二章 五

 本宮には、大広間を始めとした、大規模な行事を催す公的な部屋がいくつか設けられている。

 そのひとつ、謁見の間は外にも内にも衛兵が立ち、常に人の出入りが管理されている。入室の際はすべてのものが武器を預け、何かを運び込む場合も、中身をあらためた上で、玉座の者は直接それに触ることはない。段上の玉座に腰掛けたままで、同じ地上に立つことはないのだ。

 それはアンバーシュが王になる前からのやり方だったが、ヴェルタファレンに神の血を引く者が王を名乗ると決まってからは、その差別化はいっそう強くなった。謁見に来る者は揃って腰が低いし、気を損ねないようびくびくしているし、アンバーシュは微笑みに近い顔をしながら、己の挙動に細心の配慮をしたものだ。

 しかし長きにわたってヴェルタファレンの王、西国北部の調停者として君臨すると、自国の重臣は長く在職した顔見知りの子どもが後を継ぎ、よく知った者たちになっていったし、外国の使者にも以前知った名前を見つけ、知り合いの子や孫であることもあった。そうなると相手はアンバーシュに親しみを覚えるらしい。

 よく知った者たちの血の繋がりが続き、また新しい顔ぶれが別の血縁を継いでいく今は、特に気を張ることもなく言葉を交わすことができている。


 しかしさすがに、今回は少々構えて挑まなければならないだろう。何しろ、ことがことだったのだ。

 アンバーシュが連れ帰ったのはヴェルタファレン王妃となる者であり、その女は交流のない未知の国の人間で、なおかつ、普通の人ではない身の上だった。アストラスの間でささやかれてきた千年姫の噂は、人間たちの耳にもわずかに入っていたが、まさかそれを目の前に連れてこられるとは思いもしなかったらしい。

「本当に、ご結婚なされるのですか」

 下段に並んだのは、内政、外交などをそれぞれ担当する大臣たちだ。見た目はアンバーシュの三十は上だが、アンバーシュからすれば、よく知った者たちの子や孫、入庁当時の青年時代をよく知っている顔なじみたちである。

「その姫のことをわたくしどもは存じ上げておりません。お人柄も、その方のお好みすらも。しかも西国の地を初めて踏むとなれば、気を配って差し上げねばなりません」

「すでにハークバード騎士団長と鉢合わせしたとうかがいましたが……」

「ヒューフ!」

 しっと戒める声と名を呼び制止する声が重なる。なんとも言い難い沈黙が漂い、ヒューフをはじめとした幾人かの者たちが、アンバーシュの反応をうかがった。

「たいそうお怒りになられたと聞いております……」

「騎士団長ではなく、俺にですよ」とアンバーシュは苦笑した。

「愛人を作るなら気付かれないようにやれ、だそうです」

 大臣たちは目をしばたたかせた。

「それは……寛容……な方ですな?」

「騎士団長にもお咎めはなしですか。それはそれは……」

 一見和やかになった一同に水を差したのは「甘い」という一言だ。声の主は、エルンスト・ハークバード宰相補佐。

「甘うございます、閣下。あの女性はそんな淑やかで慎ましい性格とは言えません。これからどのようにこの問題を対処なさるか、見当もつかない」

 アンバーシュは笑い声を響かせた。

「すっかり印象を悪くしたみたいですね、エルンスト。では予備知識に、みんなに彼女の印象を言ってみてください」

 夫となる当人がいることを忘れていたらしいエルンストが、強ばった嫌そうな顔で、どんな話が聞けるか目を輝かせる重鎮たちに目をやる。先達たちに期待されては拒絶することができなかったらしく、彼は眼鏡を押し上げて重たげな口を開いた。

「……少なくとも、おとぎ話に語られる姫ではありません。塔に閉じ込められたとするならば、看守を……籠絡してでも外に出るような方です」

「そのような美姫なのか!」

「食いつくところが違います、インズ閣下」

 エルンストの認識は正しい、とアンバーシュは笑って想像する。

 彼女は自身を害する者あらば、相応の報いをもって返すだろう。不当に縛られれば怒りで応じる。静かに、時を狙う狼だ。

 だが、これまでその手を使ってこなかったらしい。百年以上、撫瑚という国に拘束されたあの女が、自分の力を使って国主になることも、その妻の座に収まることも選ばなかったのだ。

(表に立って魔物と批難されることを避けたのか。それとも国の命運を握ったことで満足したのか。どちらにしろ、外に出て行っている様子がなかった……)

 鳥や獣といったものたちを間諜として従え、あの城の周辺の探らせていたアンバーシュは、隔離されていたいちるは、どうやら外に出て行く習慣がなかったらしいことを知っている。それに対面した時があの格好だった。あの気候で、あの薄着にあんな靴を履いて出てきた。日焼けもなく、寒さに顔を青白くさせて。あれは恐らく、外に出ることのない者の服装だ。

(調べさせるか……直接聞いてみた方が面白いかな?)

 さぞ嫌な顔をしてくれるだろう、とにんまりした。顔を隠して笑ったから、エルンストが上目でうかがってくる。

「申し訳ありません。過ぎた口を……」

「いえいえ。他人から聞くとまた面白いですよ。さて、他の者たちはどう思うかな」

 折よくクロードがやってきて来訪を告げた。アンバーシュは立ち上がり、候補、という言葉が取れない婚約者を迎えにいったが、いつも温和な従者の顔が強ばっているのを見て目を瞬かせた。

「どうしました?」

「すみません、もう少し時間をいただくか……あなたに来ていただきたいのです。説得役は私には荷が勝ちすぎて……」

 短く素早く囁く声は、緊急の用件を思わせる。しかし内容が分からず、アンバーシュは説得、と繰り返して首を傾げた。

「何があったんです?」

「とにかく来てください。このままでは皆さんがご不快になるかも……あっ!!」

 衣擦れの音がした。クロードが来ているからにはいちるも来ている、どうせこらえ性もなく出てきたのだろうと、さすがに身勝手さをたしなめるべきかと顔を向けたアンバーシュは、そのまま目を見張って固まってしまった。

 巨大な黒百合が咲いているのを幻視した。

 漆黒の花弁は重く垂れ下がり、花粉まで黒い。

 それは、黒いドレスを着た女だった。袖から溢れるレースは相当に重いだろうという具合に何層にもなって、動くとふさふさと音を立てる。同じように裾は引きずって長く、髪まで長く宝石を削ったようにつややかだ。なのにデコルテの薄黄色の肌と、胸元を飾るレースの白が眩しく、異国人の顔立ちは、創作物のように現実感がなかった。

 花嫁が、黒いドレスで現れた。

 一同は呆気に取られている。アンバーシュは、その様子を見て。

 ――こっそり笑ってしまった。

「……その格好、どこかで…………あっ!」

 我に返りつつあったヒューフ大臣が行き場のない手をわななかせた。

「お、おおっ、お」

「ど、どうしたヒューフ」

「おおおお思い出した。その格好、ネイゼルヘイシェ夫人の肖像画だ!」

 居並ぶ大臣がぎょっと目を剥いた。

 睥睨する女が、薄く笑ったのが見えた。






 歴史書、画集を集めさせ、いちるは、クロードにそれらを断片的に説明させた。拾ったのは、歴史に名が残った女性の生涯と逸話。女ながら国主になった者、時の国王に翻弄された令嬢、悲劇的な運命をたどった王女などの話を聞いたのだが、選んだのはネイゼルヘイシェという女だった。

 もう五百年は昔の人物で、西国では、服装は今とは違い、ゆったりとした一枚物を身につける時代だったようだ。


 西神を信仰する宗派が権勢を振るう、西神が縮小を命じる前の大信仰時代と呼ばれる頃のこと。後のヴェルタファレンを国土とする宗教王の側に侍った、ネイゼルヘイシェという女がいたらしい。

 出自不明となっているが、貧民だったらしいと歴史書が語る女は、己の身ひとつで王侯貴族と懇意になり、彼らにとってなくてはならぬ存在になった。やがて彼の女の手は宗教王に伸び、王は籠絡され、ネイゼルヘイシェの富める時代が始まる。女は悪しく着飾り、飽食し、快楽を楽しみ、その喜びを神に伝えるという軽薄な信仰が罷り通った。そうして後、ネイゼルヘイシェは若く美しい青年神に恋をするも、神の清らかさに己が身を恥じ、自害した――。


 その肖像画の衣装を真似るのに苦労した。何せ時間がなかったゆえに、黒いドレスを選び、そのドレスを細工するよう命じるにもクロードを介さなければならなかったし、針は持てないとレイチェルたちが言うから、針子を呼ぶところから始まった。

 衣装部の者たちの好奇と怯えの目に耐えて完成したドレスは、急ごしらえながらも華麗に映り、自分の趣味に満足もした。さすが、王宮に勤める者たちの仕事だ。クロードの助言を得て、仕事をさせた者たちには相応の礼を用意するつもりでいる。

 だがまずは、この者たちへの対面を終えねばなるまい。居並ぶ男たちに向かって唇に笑みをひくと、それぞれの驚愕の表情がみるみる締まっていく。覚悟を決めたのか、最も椅子に近い者が胸に手を置いた。

 それがきっかけとなり、次々に同じ動作を示す。数えて十七人。中には、エルンストの姿がある。一人一人の顔を識別して、それぞれ大臣とその補佐官であると、取るに足らない予兆を得る。

「紹介しましょう」

 アンバーシュがいちるの隣に立つ。発しているのは西の言葉だが、同時にいちるにも分かるよう話しているらしい。器用なことだ。

「アマノミヤの神々の地、東のナデシコ国から来た、イチル。千年姫と言えば分かると思います。この場にいる者たちに、俺は彼女を妻とすることを宣言します」

 宣誓に深く頭を垂れたのは予定通りなのだろう。異を唱えるものはいない。

 それから順に、アンバーシュが名前と役職を説明していった。

 宰相インズ、その補佐エルンスト。内務大臣ヴァーツとその補佐。外務大臣ライード、補佐官は女だ。先ほどネイゼルヘイシェの名を挙げた男は、教育担当のヒューフ大臣。アンバーシュの紹介に頷き、挨拶を受けることを十七回繰り返す。

「何か質問はありますか?」

[一斉に名を聞いても覚えきれぬが、努力はしよう]

 アンバーシュがやっていることを己でも試みてみる。アンバーシュには心での声として伝わっているが、いちるは東国の言葉を発しているので周りに伝わるわけではない。ただ黙っているのは不気味であろうと、歩み寄った結果だった。アンバーシュは苦笑している。

「他には?」

[ここに揃っている大臣とその補佐官と聞いた。が、宮廷管理官がいない理由を聞こう]

 補佐官の男はひっと竦み上がった。

 紹介された長官と補佐は揃って十七人。補佐だと名乗った男がいて、長がいないわけがない。

 蛇のように黒々と目を見開き、言う。

[宮廷管理の長が来ぬとは、妾を侮ってのことか]

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