第二章 四

 ヴェルタファレンの統治組織には、いちるにとって興味深い点がいくつもある。

 撫瑚のような国はここでは領であり、土地も人民も王に帰属する。東で城主と呼ばれる者は、王の膝元では特に領主と呼ばれる。しかし領内に城があるので、土地の者には城主とも呼ばれるらしい。

 また、この国では王の血筋が機能していないことが特徴だった。アンバーシュが在位して三百年近く。前王の血筋は今は高位貴族に継がれているだけで、王家は潰えたとされ、王位継承権を持つ者はいない状況にある。

[では次期国王はどのように決める?]

[大神が指名なされます。しかし大神がそう簡単にアンバーシュから王位を奪うことはないでしょう。それこそ彼が破壊神になって大神に仇なすとなれば話は別でしょうが]

 そんなことはない、とクロードは信じきっているようだった。

 ヴェルタファレン国は、神を王にいただいたことによって安寧を得た。王が神であることによって他国からの侵略がなくなり、戦は国禁となっている。他国への援助は吟味されるが、しかし危急存亡には手を差し伸べる。

 まさに完璧な王だ、と舌打ちしそうになるが、クロードの前だった。まだ堪えておく方が賢明だ。

 そんなヴェルタファレンだが、国を守る組織がないわけではない。騎士団とそれに準ずる集まりだ。

[騎士団、というものがあるのだな。騎士というからには、騎馬する剣士という意味でよろしいか]

[そうです。身分は低いですが貴族に叙せられた者たちで、剣と精神の鍛錬を怠らず、崇高な精神を始めとした徳を身につけた人物に資格があると言われています]

[セイラ・バークハードは、エルンストと兄妹か]

 はっとしたようにクロードは黙り込み、苦い顔をする。先ほどのことを思い出して、言葉を尽くそうとするがいちるはにっこり、頭を振った。先に答えろと、暗に示す。

[そう、兄妹です。血のつながりは半分しかないそうですが]

[騎士団長と言っていた。腕のほどは?]

[強い、と聞いています。申し訳ありません、私は剣を使わないので]

 神の身では仕方あるまい。動物神であるなら、刃や火を忌むのは当然だった。

 頷いて先に足を進めたところで、あの、と追いついたクロードから幾分か親しげな言葉がかかった。

[私に気を使った話し方を、なさらないでください。アンバーシュにあの話し方で私にこれでは逆です。姫はヴェルタファレンの妃となられるんですから]

[では、クロード、と呼んでも構わぬと]

 もちろんです、と彼は頷いた。

「クロード」

 実際の発音は拙く、彼はけれど顔を赤くさせて、小さく肯定を意味する応答を返した。いちるは満足に笑い、慣れぬ踵の靴で城内を闊歩する。

 やがて、幾人かの使用人とすれ違う度に驚かれる理由が、自分の髪を始めとした見た目にあるらしいことに気付いた。内部の人間の誰もが、赤味のある白い肌と、薄い色素の髪や目をしている。白雪のようだともてはやされたいちるの肌は、こちらではどちらかというと生成りのような色をしていた。目につくのは当然だろう。

[西国の民は皆色素が薄い]

[ええ。南に行くと褐色の肌の人々が暮らしております。南は太陽神に仕えた民の国ですから]

 なるほど、と神話が生きていることを確認した瞬間だった。

 世界を創造した太陽の神と月の神。太陽の神が守護した最初の人間たちは、褐色の肌に黒い髪と目をした一族だった。東国には月の神の愛した一族がいて、その者たちは白い肌に黒髪黒瞳だったという。この二つの種族は二神が去ったことで引き起こされた大災害で繁栄を失い、今はどちらの島にもわずかに残った子孫が暮らしていると、書物で読んだことがある。

 いちるは東にいたものの月の一族に会ったことはない。そうだと名乗るうさんくさい占い師に呼び止められたことはあるが、それももう撫瑚に住む前の話なので、二百年は過去のことだ。

(……おや)

 感覚の隅にかかった予感で、前方に注意を向ける。クロードも気付いたようだ。

 靴を鳴らして廊下をやってきたのは、あの金髪に緑の瞳の女。

「あら」

 わざとらしいほどに目を見開いて、にっこりと微笑む。化粧気のなかった唇には薄く紅をはき、髪をまとめて、アンバーシュが着ているような固い仕立ての衣服に身を包んだ姿は、名乗りに恥じぬ騎士の姿だ。

「セイラ・バークハード」

「まあ。先ほどは失礼いたしました。もうお名前はお忘れかと思っておりましたのに、光栄ですわ」

 クロードの通訳を介して、いちるは頷いた。

[服は無事に届いたか]

 セイラはにっこりした。

「おかげさまで。助かりましたわ。あいにく仕事着は、たくさん持っておりませんの。その他の服なら色々揃えているのですけれども。よろしかったらご相談にのりますわ。ご婚約の知らせが急でしたから、衣装もそのようなものしかご用意できなかったようで、誠に遺憾です」

 わずか、分が悪い。いちるは己の衣装にどのような価値があるか、現在の一般的な服装の認識、流行り廃りと、華美と悪趣味の境を叩き込めていない。暗に時代遅れだといったセイラは優雅に微笑んでいる。この女の趣味がいいのは確かだろう、となんとなく感ぜられるから、ここはひとつ乗った方が面白いかもしれない。

[その他の服。それは、表面だけ? それとも見えないところにまで気を配ることができると自負を?]

 クロードがぎょっとし、赤くなりながら正しく翻訳する。

「もちろんですわ。色々ございますのよ」

 いちるはそれは嬉しいという顔で笑い、母国語で呟いた。

「あばずれめ」

 小さくクロードが囁く。

[姫、申し訳ありません、聞き取れませんでした]

[独り言じゃ。セイラに、何かあったら妾を訪ねてくるよう伝えてくれるか]

 クロードがそのように伝える。セイラは感謝の言葉を述べ、道を譲った。しかしその直後、ふと何かに引っかかったような顔をしていちるを呼び止める。

「ひとつお願いがございますの。わたくし、どうやら耳飾りを忘れてしまったようなのです。大切なものなので、もし見つけたら知らせてくださいませんか? もしかしたら姫のお部屋にあるか……ああでも、アンバーシュの部屋かもしれませんけれど」

 伝えるクロードの顔色が悪いので今度は何を言ったのかと薄々予期していたが、この女も相当したたかだった。呆れ半分、感嘆半分でいちるは了解を伝え、その場を去った。


 夜が更け、供された食事は、いちるには慣れぬ味付けのものばかりだった。柔らかい赤味の肉が出たので何かと尋ねると牛だと言われ、驚いた。干したものか味噌でつけたものを食べたことがあったが、このように分厚く切って表面を軽く炙ったものは初めて食した。

 その食事そのものもまた面倒で、箸の上げ下げは慣れているが、銀食器の使い方をいちるは知らなかった。三つ又や四つ又になった食器を何本並べられても、それが何に相当するか知らなかったし、順に料理が出されるのも時間がかかって辟易した。汁物がぬるいと感じた瞬間には、さすがにクロードに文句を言った。

[この国では冷めた料理を出すのが普通か。料理を順に出すなら、何故冷めたものが出る!]

[決まりに則るとそうなるのです。姫の身体を重んじてのことですから……]

 すぐにぴんときた。

[毒が入っているのなら感覚で分かる。別に飲んでも死にはせぬ]

 撫瑚でも城主の鉦貞はそうだったが、毒味役を介して食事が運ばれることがままあった。いちるは、離れに住んでいるせいで食事が冷めることを嫌って止めるよう命じさせており、おかげで毒に対する直感は養われたと思う。

 更にへりくだろうとしたクロードを、手を机に叩き付けることで黙らせ、言い放つ。

[ぬくい食事をお寄越し!]

 この振る舞いは、やってきたばかりの妃候補の気難しさを早々に城中の人間に認識させることになったが、構いやしなかった。

 食後の茶をレイチェルに貰うが、茶の方が熱いとはどういうことだろう。いらいらと額に青筋を浮かべていると、クロードが言った。

[近いうちに、礼儀作法や宮廷のしきたりを教える教師をお呼びしましょう。不慣れな西国で、姫も戸惑われることが多いでしょうから、正しくご説明する者が必要かと存じます。言葉のお勉強も]

 茶碗に口をつけて苦い顔をする。

 食事のことを指していた。クロードが側についていなければ、いちるは給仕の人間に食器の使い方が正しいのかを聞かなければならなかっただろう。

 人を呼び、時間を割いてもやらねばならぬことであるとは分かっているのだが、どうも気が重い。接する人間が増えると打っておかねばならない手も比例して多くなる。この国での立ち位置を、早々に決めておく必要があった。

[この城で、一番美しい所作をする者は誰か。クロードが思う者でよい。男でも女でも構わぬ]

 従者はしばらく考えていたが、やがて首をひねりながら照れた笑いで答えた。

[やはり、アンバーシュでしょうか。彼は幼い頃から人の習慣を学んでいましたから、ああみえても公式な振る舞いは堂々としたものです。人の口の端に上るご令嬢方もいるにはいるのですが、少々難しいかと思います]

[難しいとは]

[貴族間の力関係に、私は疎いのです。どなたかを紹介するならアンバーシュを介さなければ」

 頷いた。

[ならばあれに教えを乞う]

[アンバーシュにですか?]

 目を丸くしクロードは戸惑いの声で問い返した。

[国の主ならば教師役に申し分あるまい。あれは妾の面倒を見る義務がある。時間を取れとは言わぬが、食事時くらい妾に付き合うてもいいと思うが?]

[伝えては、おきますが……]

 それはそれで難しいのでは、と下がった眉尻にある。何が起こるかを案じているのだ。

[これで来ないのなら妾もその程度よ]と鼻で笑えば、クロードはますます困った顔でため息をついた。

 いちるの言葉は本心でもある。

 真実を口にせぬアンバーシュ。

 本質的なところで、雷霆王はまだいちるを警戒しているのだ。そのくせ、縋る目をしてここにいろという。

 茶器を置くと、レイチェルが新しい茶を注ごうとした。手を挙げて断ると、片付けが始まる。茶請けの菓子の皿を指して尋ねられたが、これにも首を振った。

(覗き見してもよいが、……あの時は気付かれたしな)

 神の上に予兆を紡いだことはないから、失敗する可能性の方が高いかもしれない。神々の性質は、いちるが紡ぐ予兆の力と同一のものだ。身体を取り巻くその力の固まりを紐解くには、かなりの技と時間、細心の注意が必要であろう。長くそうしていれば、何をすると気付かれてしまうことは必至。

(それでこそよ)

 そう簡単にいってはつまらない。いちるには充分な時間がある。服を仕立てるのに、糸を紡ぐ蚕を育てるところから始めるほどの時間だ。薄く笑みを佩き、神と対峙することを思い浮かべた。

[さて、ではそろそろ支度を始めようか]

[まだ少し早いのでは? お疲れになってしまいますよ]

 衣装室の扉を開けて、かけられた衣装を一瞥する。

 初対面の女に嘲笑われた姿を、国の中枢に居座る者たちにさらすわけにはいくまい。

[手隙なら、頼まれてくれるかや]

[はい、何でしょう?]

[図書室に絵巻があろう。……絵巻とは言わぬか。何と伝えればよいか……有名な人物、特に女について記した書物と、その絵姿が分かるものはないか]

[歴史書と肖像画……画集などでしょうか]

[そういうものを集めて持ってきてほしい]

 了解の意を示しながらも、支度をすると言ったのに何を言い出すのかという顔でいちるを見つめる。いちるは微笑む。口の端を持ち上げ、顎を引いて。

[妾の支度は、とびきり時間がかかるのだよ]

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