第二章 三

[一言一句間違いなく訳してその言葉か]

 アンバーシュの、感情のないただの頷きを確認すると、いちるは東の言葉で言った。

「……本妻を前に愛人が大きな顔をするとは、いい度胸をしておる」

 視界の端で、前掛けの娘たちが青ざめた顔でぶるりと身体を震わせたのを見る。

 いちるは腕を上げ、扉を指した。

「――出てお行き」

 セイラは微笑んで一礼すると、その露な格好で堂々と出て行った。

 レイチェルが扉を閉めると、疲れたように寝台から身体を起こすアンバーシュに、いちるはさっと、抜き身の剣を向ける。周囲が動けず緊迫するも、当のアンバーシュは平時と変わらない顔で、堂々と両手をあげた。

[面目ないです。申し開きのしようもない]

[ならばここで喉を掻き切られる覚悟も持っているであろうな?]

 刃を横に引くと、うっすら赤い傷ができる。が、神の身ではそんな小さな傷はすぐに癒えてしまう。改めて視認して、不快な怒気がふくれあがる。

[あいにくと妾は武人ではない。こんな物を持ち慣れておらぬから、手元不如意で血を見るはめになるやもしれぬ]

 エルンストが跪いて何かを言った。

「……姫、どうか……そこからおどきください。聞き届けられぬ場合、衛兵を呼ぶことになってしまいます」

[……と、言っているんですが]

[では言っておやり。これは初めての夫婦喧嘩だとな]

 伝えたようだが、エルンストは引かなかった。緊張した面持ちでこちらの動きを注視し、首を振った。

「お止めください。いくら陛下が不死とはいえ、血が止まらない間、この部屋中が汚れてしまいます! そちらの絹の敷物、その白銀の糸は何十年もかかって採ったもの。頭上の紗は、刺繍を施すのに一年以上の月日がかかる高級品でございます。陛下の不手際とはいえ、この部屋には相応の価値が。汚されるのはご勘弁願います!」

[……エルンスト。あなたは、俺より部屋にかけた金が大事なんですか?]

[いい臣下に恵まれているではないか]

 訳していて空しくなったらしい。味方を失ったアンバーシュは挙げた手を振る。

[セイラと別れれば収まりますか?]

[そんなことは些事じゃ。許せぬのは、妾に愛人の存在を認識させたこと]

 ますます強く、柄を握った。

[妾が欲しかったと言っておきながら、本心は別のところにある。すぐ別れると言うところを見れば、あれが本命ではないことも明白。お前は妾に真実を口にしたことがあるか? たいがいにせよ、雷霆王! 生贄の我が身なれど、我慢の限度がある]

 アンバーシュは目を閉じた。顔を背け、額を押さえている。いちるは、腹部を抑える膝をますますめり込ませた。再び持ち上げた懐剣の刃が光る。手を離せば、まっすぐに相手の顔に落ちるだろう。

 それからしばらく、時が経った。どちらかが折れれば終い、という空気が漂い始めた頃、アンバーシュが再び身体を起こそうとした。

 身体が傾きそうになり、相手が動かぬよう押さえつけようとした手は、アンバーシュの手に逆に制された。どうやら刃を上にやったのが敗因だったようだ。喉に突きつけたままならば優勢だったものをと歯噛みするも、遅い。すくいあげられるように手首を掴まれ、剣が落ちた。

「くっ、う……!」

 悔しさに顔を歪めた間に、エルンストが落ちた懐剣を拾って遠ざける。

[力で勝って楽しいか! 何か言うてみや!]

[では真実を]とアンバーシュは天空青の瞳を近づけて言った。

[俺は決してあなたを蔑ろにしない。あなたの身を損なう真似はしない。慈しみ、守る。――だからここにいてください。頼むから]

 何を、という反意は、喉に留まった。不可解な顔を男にやる。

(何故、縋る目をする)

 生贄に何を懇願するというのだ。神の血を引き、東西に勇名とどろき、人の世に国を与えられ調停者を命ぜられてなお、人でないいちるに「ここにいろ」という理由は――いちるの知らない過去か。

[……逃げ場を奪ったのはお前たちだというのに?]

 笑い飛ばした。動揺せず慰めの言葉も口にしなかった。

 アンバーシュはその一言に苦笑し、すみませんと肩を叩き、離れた。

[夜、食事が終わった後くらいに主立った臣に紹介します。セイラのことは、すみませんでした。言い訳はしません]

[言ったはずじゃ。見えないところで気付かれないようにする分には目をつむってやる。見返りは貰うが]

[だったらやっぱり止めておきます。ちょうど、頃合いだったしね]

 飄然とした態度が、演技であることは明白だったが、それ以上踏み込むほどいちるはこの男に情を持ってはいないのだった。

 扉を開けると、クロードが控えていた。彼が代わりに入室し、エルンストと言葉を交わすと、彼はいちるに目礼して出て行った。その目に光っている警戒心に笑い、膝の上に落ちた乱れた毛布をぺしりと払い飛ばした。

 空気が弛緩する。

 久しぶりに剣を持った。右手が痺れたようなのを、開いて閉じることを繰り返してほぐす。エルンストは懐剣を丸ごと持っていってしまったようだ。さもありなん。武器を持っていたとは思っていなかったのだろう。

(思いがけず大立ち回りを演じてしまった)

 夜に引き合わされるというのは、国を動かす者たちだ。撫瑚でも、一癖も二癖もある者たちが無能な領主を補っていた。アンバーシュが暗愚とは思えない、だからこそ俊秀が集うだろう。心してかからねばなるまい。

(さて、どのように印象づければ、これからが過ごしやすくなるか)

[姫。女官たちがお召し替えをなさるかと聞いております。その後で僭越ながら、私が城の中をご案内させていただきます]

 いちるは頷き、部屋を全て片付けるように命じた。クロードを介して伝えられた言葉を、女官たちは一礼することで了解を示す。

[誰ぞ、あの女に服を持っていっておやり]

 脱ぎ捨てた服を示すと、女官は応じる言葉を発して、床に散らばるものを集めて行った。

[寛大なご処置です]

[世辞はいらぬ。それに、あの女は別に嫌いではない]

 クロードは目を見開き、どういう意味だろうと困惑の顔で考えている。

 別に嫌味を言ったわけではない。あの状況で取り乱すことなく、美しい笑顔で挨拶を言って退けたあのセイラという女。恥じることなく、みっともなく服を掻き集めることもしなかった一連の行動を、いちるは天晴だと思っていた。自分でも、あの女と同じことをしただろう。いや、もしくは怒気を表して噛み付いたかもしれない。引き際が見事だというのは、難しいことだ。

 クロードが言った。

[それでは、ご支度が終わるまで部屋を出ております]

 衣服の用意と同時に、茶の用意が始まる。そういえば、到着から今までで、喉が渇いていた。

 レイチェルと呼ばれていた女官が、いちるの視線に気付いて目だけで笑う。歳の頃は二十代後半、三十歳くらいかもしれない。顔の作りもはっきりしており、所作も落ち着いている。薄い色の金の髪に、濃い青の目。前髪もすべてまとめてあり、突き出た額と卵形の顔がよく分かる。美人だが、あまりにも仕事に忠実な髪型と服装、化粧のせいでそれと分からず、きつい印象がある。

 そのレイチェルが茶の用意をしたのは、さて、女官としての気遣いか、それとも支度の間に茶を供すのが習慣だからか。それすらもまだ、いちるは判別がつかない。

 コルセットと呼ばれる補正具を身につけた上に、薄い一枚を着て、そこから外側の衣服を着る。深紅の裾。毛羽に柔らかい手触りがあるが、光沢感がある。腰は元々絞る形になっており、コルセットのせいで腰の細さと胸が強調される形になっている。袖から噴き出すように襞飾りが溢れて動きづらいが、貴人はこれでいいようだ。

 着替えを終えるとクロードが再び入ってくる。いちるはレイチェルに誘われて、椅子をすすめられた。

[お疲れでしょう、お茶をどうぞ、と言っています]

「ありがとう、貰おう」

 顔を見て、声に出して言うと、女官は慎ましい微笑を浮かべた。なるほど、かなりいい教育を受けているようだ。

 彼女が上役ならば、残りの二人は見習いか。仕事に戸惑ったところは少しもないが、いちるの顔色をうかがわないように意識している娘と、もう一人は明らかに怯えきっている娘。

 そこで、ヴェルタファレンに来て初めて予兆を紡いだいちるは、一人をネイサ、もう一人の小動物のように震える一人をジュゼットというらしいということを掴んだ。

(西に来ても目は鈍っておらぬようだな)

 さて、二人からどのように使用人たちへいちるの噂が回るのやら。

 把手のついた陶器の茶器で飲む茶は、黒い色をしていた。しかし香り高く、花のような甘みがある。

 茶を貰った後は、クロードに連れられて部屋を出た。女官たちは礼をして見送ってくれる。

[では、順にご案内いたします]

 と、クロードは言葉で説明しながら内部を歩き始めた。

 中央に公式な催事を行う本宮。両翼に個人的な部屋、内政を行う別宮。いちるの部屋は、東の別宮の北側に位置する、名は暁の離宮。離宮には警備兵がいて常に詰めている。アンバーシュが普段滞在している部屋は東翼にある。北側は街を防護する城壁代わりの山が連なっている。

 中央奥の結晶の宮殿は、アンバーシュの本来の住まいであり、神々がやってくる場所なのだそうだ。

[暁の離宮は、不便な位置にあるのだな]

[ですが暮らすには離宮だけで事足りますし、何かあっても、東の別宮に近いですから]

 それを聞いて思ったのは、わざわざそんな部屋にまでセイラは眠りにきていたということだ。エルンストは知らせを聞かなかったのかと責めていたが、あれは確信的にあの部屋にいたのだろう。

(なんの目的があるのか、まあそれは追い追い分かろう)

 内は静かだ。その理由を尋ねると、こちらは裏なので、と答えがあった。まだ表に出るわけにはいかないかといちるは納得した。披露は、うんと派手にするのがよい。

[城内は以上です。この城内に至る一の郭と呼ばれるところが、貴人たちの居住区。二の郭が騎士や兵士の宿舎があります。三の郭には住民が暮らしています。そしてこの周りを壁を囲み、門を作って街を守っています]

[この城下町に最も近い街はどこになる?]

[街道を南下し、東にいったところにレステタという街があります。馬車で半日ほどです]

[街の西は?]

[馬車で一日行ったところにも街があり、その向こうは海です。そこから南下すると更に街があり、街道を下ると隣国ティトラテスの領土です]

 城の話が街周辺の話になっている。気付いたクロードはいちるの顔を見たので、いちるは微笑んで頷いた。

[興味がある。地理が分かるものがあったら見せていただきたい]

[では用意させていただきます]

 街の様子は、後から力を遣って俯瞰すればいい。気が向いたら街に出向けばいいのだ。西方の街がどのように機能しているのか、東との違いに興味があった。

 ふとクロードはそこから見える建物を指差した。二人は東翼から移動し、本宮の裏を通って、西翼に来ている。

[西翼には図書室がありますから、よろしければご覧ください。あっ……言葉を、覚えてからですね]

[覚えておきます]といちるは微笑し、知識の宮殿であるその部屋の道順をよく覚えておくことにした。

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