第二章 二
「お帰りなさいませ。陛下。無事のご帰還、心よりお喜び申し上げます」
低い声のそれは、西国語だ。この珍妙な出来事が始まって、初めて聞く西国語である。口上を述べた男の目が光った。眼鏡のせいのみではない。
[留守中、問題はありませんでしたか?]
「書類がいくつかございます。また、イバーマのオルギュット陛下よりお手紙をいただきました」
[書類の件は了解しました。オルギュットの手紙はいつもの件ですね。いつも通りの返事をして余計なことは何も言わないように]
「かしこまりました。――そちらの方が、お知らせいただいた方でいらっしゃいますか」
相手の背丈が勝っていたので、わずかに顎を上げて、いちるはじっと相手を見つめ返した。男の目はいちるの顔から、無遠慮にならない程度に全身を見てから伏せられる。身につけている物や立ち居を確認したことはすぐに分かった。
[そう。ナデシコのイチルです。西国語に堪能でないから、しばらくクロードを通訳につけます]
「西国語が使えぬのに、クロード殿と意思疎通ができるのですか」
[念話が使えます。だが万能というわけではなくて、魔力を持つ者には聞こえるようですが普通は伝わらないようです。そうですよね?]
首肯した。
アンバーシュに出会うまで、いちるは心の中で会話する術など使ったことがなかった。そのような能力を用いても聞く者がいなかったのだ。心の言葉は、アンバーシュやクロードといった神の血を引く者には聞こえるらしいのだが、それ以外の者には伝わらないようだというのを、いちるはこの時再確認した。「何か仰っているのですか?」と尋ねられたのを翻訳され、[名前を聞きたい]と言っても、アンバーシュを通してでなければ彼は答えられなかったからだ。
眼鏡の男は言う。
「エルンスト・バークハードでございます。恐れ多くも、ヴェルタファレンの宰相補佐を仰せつかっている者です。ようこそ、ヴェルタファレンへ。イチル姫」
[妾のことはどのように伝わっているのか、聞きたいのじゃが?]
アンバーシュが尋ねると、エルンストは頭を下げたまま、慇懃に答えた。
「ヴェルタファレンの妃殿下となられる方だとうかがっております」
(その辺りが妥当であろうな)
バークハード宰相補佐は口上の無駄遣いをしない相手だと分かったし、迎えの一陣に出てきたところを見ると、アンバーシュとクロードの主従に次ぐ程度の力を持っているのはこの男なのだろう。注意しておくべき人物だと認識する。
[にらみ合いはそろそろ休戦して、部屋に案内しましょう。疲れたでしょう、イチル]
「姫の世話は、レイチェルに任せるつもりでしたが、よろしいでしょうか」
エルンストの後ろで、金の髪をまとめた前掛けの女が慎ましく目礼する。女はいちると目が合うと、こちらにも静かな礼を寄越した。背筋がよく美しい顔立ちをしているが妙に感情が読めない、と、こちらもまた注意人物に列挙していると、アンバーシュは破顔して言った。
[レイチェルなら安心です。そうだ、フロゥディジェンマはどうしています?]
アンバーシュは急に声を潜め、それに答えるエルンストも小さな声で会話を始めた。フロゥディジェンマというのは名前のようだが、西の音は変わっている。
ヴェルタファレンの城は、いちるの目を奪うに値する、広く華麗な空間だった。
手を伸ばしても届かない高い天井。繊細な織りの敷物は、継ぎ目が分からないほど長く、廊下に敷き詰められている。金を象眼した飾りは、贅を凝らしてかなり緻密であるし、そもそもの素材からしてかなり細工が難しい石や木を使っているようだ。絨毯の廊下を抜けると、銀に輝く大理石が続く。窓にはまる硝子は透明で、外の像が歪むことなく映っているのは一番驚いた。それが無数に、惜しげもなく使われているのだから、この国は富めるところなのだと別世界であることを実感する。
(アルカディア……)
蒼穹と緑の大地。永遠の安らぎととこしえの祝福降る、彼方の楽土。
遠い日に、何度も想像を巡らした場所を示す言葉。
いちるは唇を結んだ。
(そんなところはない。妾に安寧など訪れぬ。この身、この力があるかぎり、力を求める輩が群がっては欲の望みを口にするのだから)
撫瑚の城に連れられたのも、始まりはそれだった。飢えと凍えることはなくなったが、そこで与えられたのはいちるという名と、妖女という渾名だった。
さあ、ここではどんな愚か者が顔を見せるのだろう。
静かに近付く予感に人知れず嘲笑っていると、目的の場所についたようだ。
[あなたの部屋です]
白木の扉を開けると、室内はずいぶん広い。窓には布の帳がかかっており、薄暗かった。巨大な西国の寝台がひとつ。足の長い椅子が二つと卓がひとつ。座が長い椅子は窓に近いところに置かれている。家具に彫り込まれた文様は、植物の意匠のようだ。蔓と、葉と、果実。つづれ織りの赤と茶色と緑の色調が、部屋を落ち着かせている。
暖炉があり、上には絵がかかっている。
(挿絵のような絵だな)
この城を遠望している。獣を侍らせた女人が、森の中の岸辺でどこかを見ている。女神だろう。遠くに結晶の城が見えるがヴェルタファレンの城に間違いない。人物は小さく、森を描くのに苦心しているようだ。春めいた、穏やかで美しい景色。
[隣は衣装室。その隣は身支度を整える化粧室。風呂は別の場所です]
「……どうしてカーテンを閉めたままにしているのでしょうか。レイチェル」
エルンストに指示され、レイチェルが紐を引くと、光がたっぷり注がれた。
その時だった。アンバーシュが突然振り向いた。いちるも聞こえた。
(うめき声?)
アンバーシュが寝台に近付く。白い蛇がぬっと現れたので目を見開いた。
蛇は、女の腕だった。肉のついた、しっかりしたしなやかな腕。アンバーシュが毛布を奪い払うと、あられもない姿で眠る女がいた。丸みを帯びた背中や尻は、布の一切を身につけていない。
「ん……ぅんんー……」
エルンストもレイチェルも、他の者たちも硬直している。
「セイラ」
名を呼ばれた女は、次の瞬間、ばちっと目を開くと飛び上がるように起き上がり、アンバーシュを見て顔を輝かせた。
「アンバーシュ!」
二本の白腕が彼の首に絡み付く。
「ようやくお戻りですのね! まったく、待ちくたびれましてよ? 一人きりのベッドが、どんなに冷たいかご存知?」
ちゅううっ、と音を立てているそれが、何の行為なのか。いちるは努めて冷静に受け止めようとした。目前に繰り広げられているのは、裸の女に愛撫と包容を受けているアンバーシュという喜劇的な情景だ。これが自分のことでなければ嘲笑してご随意にと退室しているだろう。
だがアンバーシュはいちるの結婚相手とされる相手であり、この部屋は、いちるの部屋だと案内された場所なのだ。
いちるは動いた。
落ち着いて、胸元に忍ばせていた懐剣の鞘を払った。
「姫!?」
刃を下に向けて振り下ろす。肩を狙ったはずのそれは、二人がもつれ合って横に倒れたために逸れてしまった。羽根と綿を詰めた敷物に突き刺さった剣を抜き、再び振り上げる。
「お止めください! どうぞご容赦を! ここは一度お引きください!」
「黙りや。申し開きはこの男に聞く。それは誰で、おぬしの何じゃ。納得のいくように答えてみや」
「……このひと何者ですの? 何語?」
エルンストが硬直から解けてため息をついた。
「セイラ。通達したはずだ。異国より陛下の花嫁が来られる、迎え入れる準備を、と。陛下の知らせは、お前も聞いていたはずだが?」
「ええっ! 本当でしたの? てっきり冗談だと思ってましたわ! だってまだ十年も経っておりませんのよ!?」
胸の上に手を置かれたまま天を見るアンバーシュ。
[冗談ではないから、知らせを出したんですけどね]
「あら、念話。この方を慮ってですの? まあ本当に異国人。ではわたくしの言葉はお分かりになりませんわよねえ。挨拶しても意味がないかしら? 怒っていらっしゃるようですしね」
[アンバーシュ。訳しや]
彼は従った。いちるは吐き捨てる。
[では名乗ってもらおうではないか。お前は誰で、何者じゃ。なにゆえこの部屋におる?]
アンバーシュの言葉を聞いた女は、礼儀としてか裸の胸に手を当てて微笑んだ。
「セイラ・バークハードですわ。近衛騎士団の長の位をいただいております。ここで寝ていたのは、わたくしの定宿だからです」
いちるは眉を跳ね上げた。
「わたくし、アンバーシュ陛下の愛人ですの……お妃様がいらしたなら、もうお役御免かもしれませんけれどね?」
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