第二章 西国の風景
第二章 一
受け渡しは」という問いかけに、昴は頭を垂れて応えた。
「滞りなく完了してございます。が……」
濁した昴に、大神の子である大河の神、珠洲流(すずる)は柳眉を潜める。岸辺に垂れ下がる柳のようなたおやかな容貌は、すると少し不機嫌に、険しく映ると言われる。
「問題が?」
「問題、と申しますか……花嫁自身が、嫁入りのための道具も、付き人も、何一つ必要ないと、すべて返還してまいりました。また、神籍の登記も必要ないと」
昴は弱った顔をする。使者を命じられて、仕事が完了しないのだから困りもするだろう。女仙と精霊を束ねる昴に、珠洲流は問うた。
「撫瑚のいちる。お前はどう見る?」
巫女でなく、市井の影に生きるのでもなく、遠見と予見の力をもって国を動かす女。珠洲流はそう聞いていた。
撫瑚は、取り立てて豊かな国ではない。河川があるために水は豊かだが、耕地に向かない地が多かった。ただいちるが城に住まうようになってからは、あの者が岸辺に生える草を使い、紙を作ればいいといったところから始まって、紙、ひいては墨といった筆記具、その筆記具を使った書物の製造によって国庫は潤ったようだ。この二百年の話だ。
人の身で二百の年月を生きる者があるのかと、珠洲流はその存在に疑惑を抱いている。もしあるのだとすれば、それは――……。
「……苛烈な魂だと思いましたわ。ひどく頑なでいて、強靭な精神を持っているようです。強いまなこで西神の前で国を守れと誓えと言われたときには、さすがに了承せざるを得ませんでした」
考え考え、昴は言った。口元には笑みと、少しの苦みがある。よほど恐ろしい顔を向けられたようだ。
「やはり無理に神籍に記すべきでしょう。でなければあの者は、大神に仇を成すかもしれませぬ」
「それを狙っているのかもしれんな」
昴は目を瞬かせた。
「神位を辞退したのは、思いのままにはならぬという意思表示。哀れみをかけるなという拒絶だろう。それが虚勢であればいいが、何か企みがあるのかもしれん」
女神の顔が白くなる。珠洲流は笑みを浮かべて言った。
「後のことは私が引き継ごう。大神にご判断願うことにする。大儀だった」
昴が下がると、珠洲流は裾を払って大神の元へ向かった。歩みながら思うのは、何故、人外の力を持つだけの人間の娘に、誓約の結婚を担わせるのかということだった。
昴が言った『反対を唱えた組』に珠洲流はおり、兄も、その上の兄も同じ意見だったが、長兄と次兄はすぐさま大神に判断を仰ぎにいったのだ。
(兄神は何をご存知か。あの者に何がある?)
それを尋ねる前に準備を任せる旨を告げられ、奔走していたためにこんな時期になってしまった。すでに花嫁は西国へ向かった。
それが取り返しのつかないことにならなければよいが、と珠洲流はせめて足を速めた。
*
西の神々、総じてアストラスと呼ばれる者たちの治める国々は、人と神が交わる異国である。人の姿も、獣の有り様も、半分神の姿を映し、色素は薄く、背が高く力が強いのだそうだ。
空を駆けると西国が見渡せた。境の海で渦巻く雲の影響はなくなり、青い大地が広がっている。峻険な山々は白銀に輝き、磨いた鏡のような雲がけぶる。地上には、神馬に率いられた俊足の群れが。崖の上にはこれもまた神の血を引くであろう賢者の眼を持った山羊とその家族がいる。鳥群は馬車に道を開け、同道していた巨鳥の神が一声挨拶、鳴いて飛び去っていった。
車輪が、細い雲を引いていく。
異国の神話そのままの、風景。
[通ってきた国は、順にスヴァムラ、エルダール、ティトラテス。ティトラテスは西国で最も国土が広い皇帝国です。その隣が、我がヴェルタファレン。神が王座にあるのは、ヴェルタファレンと、その南にあるイバーマ。この二国は今は中立国で、他国の調停役を西の大神から託されています]
着込んだ外套はあまり防寒として役立たず、手のひらを内側に隠して両腕を組んで景色を見ていたいちるは、白くなる息を長く吐き出した。それでも立って呼吸ができるのは、この馬車が神の乗り物であるからにほかならない。
(神が治むる国は平和そのものというわけか。神々の庇護があるゆえに攻められることもなく、また周辺国が王座にある神の独裁を許さず目を光らせているために、西国は安定を保っている)
紡いだ糸から見える光景も、聞いた言葉と違いはないようだ。ここではこの力も用済みらしい。困窮する者は縋ってこず、虐げられるものは神の恩寵を授かり、おとぎめいた世界が広がっているのだろう。
[御身が妾に求めるのは何だ]
顔を見ない問いかけを、アンバーシュはくすりと笑う。いちるは眉を動かした。
[何を笑う]
[さあなんだろう、と思っておかしかったんですよ。子どもを作らなければならないわけではありませんから。王妃としての務めは最低限果たしてもらいたいとは思いますが、言葉を覚えるまでは無理でしょうしね。だから、まずは言葉を覚えてもらうことかな]
王に座す不老不死の神が跡継ぎを設ける必要がない、というのは理解できなくもない。だがそれ以外に何があると言いかけて、あまりのはしたなさに口が歪んだ。
[…………御身は、確か他の者に否やを言わせぬために、単身撫瑚に乗り込んできたのではなかったか]
[ええ]
[矛盾している。妾が欲しいわけではなかったのか?]
[欲しかったですよ。――ずっと]
お互いに、お互いの顔を見なかった。ゆえに、その言葉が自分に向けられたものではないと感じて、いちるは横目で相手をうかがった。と、相手も同じくしてこちらを見ていたらしく、気配がぶつかって同時に目をそらした。
[……ともかく、妾はまずヴェルタファレン国の暮らしに慣れ、言葉を覚えるのが御身の望まれること、ということでよろしいか]
[相違ありません。それと、できることならその仰々しい呼び方を改めてください。いちいち『御神』だの『御身』だの呼ばれるのは、正直痛いです。値しないと知っているだけに]
[では何と]
[何が呼びやすいですか? 東の言葉で呼んでもらっても、俺だと分かるなら問題はありません。秘め事めいて面白いし]
[ならばアンバーシュと呼ぶ]
険のある言い方をしたのに、アンバーシュはあははと声に出して笑った。
高山と森の国ヴェルタファレン。国土の半分が山岳地帯で、残り半分が緑豊かな高原という高い場所にある土地。山と高原に複数の民族が暮らし、それぞれに発展の違いがある。物資が届きにくい山の民は信心深く、高原の民は交易に余念がない。ただ、商売の元手となる工芸の見事さは高原の民には再現できず、また金鉱山を持つことから、山の民は尊重され、敬われる存在だという。
見下ろして、厳しい土地柄だということが感じられた。太陽に近いせいで、日差しが眩しく、強い。連なる峰の大気は冴えている。しかしその力強さを、いちるは嫌いではないと思った。
やがて、地上に不思議な光を放つものが見えてくる。
今日からいちるの住まいとなるヴェルタファレンの城は、不可思議な結晶に覆われていた。
槍状になった鉱物が、蓮花のように無数に突き出ているのだ。
雲が動き、風の中の無数の塵の加減で、きらきらと日の光を反射するそれは、透明度が高く、近付けば鏡のように姿を反射した。
[魔石、魔鉱物と呼ばれる石です]
神々の扱う力を秘めた石。東では神々の降る神体や、聖域に安置されている、聖なる鉱物だ。あちらではこれがあまり採れないらしい。東の大神が大地の女神に希って、人の手から遠ざけているという言い伝えもある。
そんな貴重で価値のある石をあしらった風変わりな建物を、中央奥に抱く城。他にも中央部分手前に広い建物がひとつ。両翼に同じ建物がひとつずつ。東国の城のように屋根はなく、平たい屋上になっている。
アンバーシュの馬車は城の奥の庭園に降り立った。続いて馬姿のクロードが着く。途端、彼の姿は人の形を取った。昨日は恥じ入っていたが、服は身につけたままで、なかなか便利なものだと感心する。
[クロード。片付けは任せました]
[御意に。……あっ、あっ、そのまま戻らないでください! エルンスト殿が来るまでお待ちください!]
[もう来ましたよ]
アンバーシュの言葉に目をやると、城の中から複数人の人間がやってきた。眼鏡をかけた男が一人と、残りは同じ服を着た女たちだ。
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