第一章 四

 目が覚めた時刻は、感覚だと明朝だった。日が昇り、大気には朝靄のにおいがする。いつもなら飯炊きのにおいがするのだが、ここは撫瑚の城ではなく、神々の陣だ。若干の空腹を覚えたが、神が積極的に食事をする必要はないため、朝食の用意は難しそうだった。クロードに給仕をさせるわけにはいくまい。

 天蓋をめくる。天幕の主はどうやら戻ってこなかったらしい。昨夜のままの椅子と机が、心なしか寒そうにたたずんでいる。

「…………?」

 だが、昨晩と違って椅子の方向が異なるのは気のせいだろうか。座ると寝どころを向くように移動している気がする。眠っている顔を座って見ることができるような位置に。

 だが、確かめようにも神気が邪魔をして不可能だ。冬とは思えない、しかし朝方の冷えた空気に両腕を組み、そっと外をうかがった。

 神の力が寄り集まって異界を成し、靄は金と薄桃色を帯びて、五色の雲のような輝きを放っている。空を駆けるものが見える。翼を持った馬だと気付いたのは、それがそこまで近付いてきたからだ。

 滑らかな茶色の毛並み。黒いたてがみは星をまぶしたように輝いている。その格の高い生き物は[おはようございます]と聞き覚えのある声で呼びかけた。

[よくおやすみになれましたか?]

 内心の驚きを隠して、頷く。

[心を砕いていただいたおかげで。ところで妾の処遇はどうなりましたか]

 神格を持つ獣は、人に変じる力を持つという。

 半神半獣のクロードは、穏やかな馬の瞳で頭を垂れた。

[後ほどお知らせしようと思っていました。――アマノミヤの使者がいらっしゃるそうです。姫にお話があるということでした]


 飲み物と果物という食事に、着替えと化粧道具を持って現れたクロードは、開口一番[大変失礼しました]と赤面していた。

[朝早く、しかもあのような姿で……]

[誰かになんぞ言われましたか]

 素直に彼は認めた。

[獣の姿をさらしたのか、裸同然なのにと……アンバーシュに]

 あれなら彼を不要に笑って揶揄するだろう、と思い、いちるはせめてもの慰めに微笑みかける。

[驚いたのは確かだが気分を悪くしたわけではない。御姿は美しくていらした。東国ならば、群れを率いる神馬だ]

 だがクロードはますます顔を赤くして、用があるからと、逃げるように去ってしまった。

 蜜柑と林檎という食事を終えて、身支度を整えた。撫瑚より西にある美花の国は、東側の国と少々衣装の様式が違う。二枚重ねた衣の上から、同じ型の単を着て、腰で飾り帯を締める。いちるが撫瑚で着ていた衣装は、あの国のものでも時代遅れのものばかりだったが、これもまた変わった服飾だ。袖は膨らまず、裾も長くない。重くもないのが気に入った。ただこれでは髪がぞろぞろして似合わないと感じたため、地面につく分は頭の上でまとめあげる。

 白粉をはたき、目を縁取り、紅を塗る。

[そんなに塗りたくらなくていいのに]

 気配は感じていた。そこにいるのも分かっていたし、声をかけてくるだろうことも予期していた。相変わらず人を苛立たせるのが得意な男だと、いちるは振り向きもせずに言った。

[女の支度を覗き見するとはいい趣味じゃ]

[俺は薄化粧が好きです]

[東神が到着なされたそうじゃな。その顔をもう見なくていいと思うと清々するわ]

 これでしまい、と使った道具を揃えて立ち上がる。振り返った先に相手がにやにやしているので眉を寄せた。

[……姑息な手を使ったのか]

[いえいえ。東とどういう協定を結んだのかは聞いてません。一通りの報告と意思確認をされて解放されただけだから]

[なるほど、御身はその程度の立場か]

 この言葉にはさすがにぴくりと眉が動いたのを、いちるはせせら笑う。案内してもらおうと顎をあげると、怒ったのか、アンバーシュは黙って先導を始めた。

 天幕の前には輿が用意されていた。二本足で立つ大きな牛が立っており、クロードが待っていた。いちるを見て先ほどのやり取りを思い出したのか、赤味のある顔で輿に乗るよう促す。

[かたじけない。失礼する]

 手を貸してもらい、椅子に収まる。牛神がそれを担ぎ、輿はのっそりと動き出した。

 西神の陣を練り歩く形になり、はからずもさらし者のようになったが、いちるは表情を露にせず、置物のように腰掛けていた。背もたれに身体を預けることなく、目は別のところを見た。最初に会った巨大な神鳥も、水色の髪や緑色の髪をした神々が目の端にあっても、そちらに目も顔も向けずにおく。

 東神の使者が誰なのか、予兆を紡ごうとしたがやはりうまくいかない。アンバーシュの態度がどうも気にかかるのだが、力の渦が巨大すぎて、糸を取り出すこともできない。

(まあ、それは東神に会えばはっきりすること)

 代わりに、撫瑚を視ることにした。こちらは、常より注意を向けねばならぬがとりあえずは見える。だがいちるのいるところのために、曇った水鏡のように不明瞭ではある。

 疲弊と不安がないまぜとなって城中を満たしている。西神の来訪は大勢に不安を呼び、また城主たる鉦貞が癇癪を起こして、それに皆が疲れきっているのだろう。刃物を振り回したらしく、部屋には無数の刀傷が残っているようだ。

 予想通りではあったが、ここに帰るのかと思うとうんざりした。

(仕方あるまい。撫瑚のあの城でなければ、妾は魔物として永遠に追われていた。そうなるところを拾った貞晴たちには恩がある。その子孫たる鉦貞にも、妾の力を貸してやらねばなるまい……)

 紡いだ予兆は、近付いていく神の気配に消えた。

 輿が下ろされる。再び手を借りて降り立ったいちるは、導かれるままに先頭へ立った。近くにはアンバーシュ、少し下がってクロード。そして名前も知らない西神たちがいる。

 空の中から鈴の音が聞こえた。雲の隙間から、黄金に輝く牛車が現れる。その周囲には巫女より神に近しい、仙女たちが付き従っている。彼女たちの手にある黄金と銀の花が、凛とした鈴の音を響かせていた。

 いちるは膝をつき、叩頭した。

 牛車が降り立ち、仙女たちが輝かしい面に微笑を浮かべてこちらを見る。御簾の奥から、銀でできた鳴子の音のような声が響いた。

[――太陽と月の子たる西のきょうだいたちに、厚く御礼を申し上げます。わたしは、昴。東の大神より、おそれおおくも使者の任を賜ったものです]

[東のきょうだいに、太陽と月の祝福を。昴、ご足労戴いて申し訳ありません]

 代表して口を開いたアンバーシュに、昴と名乗った神は微笑混じりに応える。

[ご高名は聞き及んでいます。その武勇、苛烈で清廉な戦いぶりは、わたしたちにとって脅威でした]

 アンバーシュもまた笑った。それが挨拶の言葉であり、いちるは、昴の目が自分に向けられたことを感じ取った。面を伏せたいちるに、「顔をお上げなさい」と聞き慣れた言葉で昴は言った。

「我らの守護地に住まうそなたをここまで巻き込んだことを、まずは詫びたいと思います。東と西で和議がもたれ、西神は、和睦と引き換えに、そなたを差し出すよう告げたことは聞いていますか?」

「はい」

「――ではそなたの心意を問いたいと思います。そなたは、わたしたちの和睦の礎となった場合、何か不都合な思いをすることはありませんか?」

 伏せた顔の影で、いちるは驚きに目を見張った。

 これは。どういう意図の問いなのか。背筋が冷たくなるほどの予感が、胸をざわつかせ、手を震わせる。ありえぬ、と何かが叫んだ。

「……おそれおおくも……ご下問の意味が、分かりかねます」

「わたしたちの守護すべき者を生贄のごとく差し出すことに、半数が致し方なしと言い、半数が異議を唱えました。そなたは神仙として名を連ねているわけではないのだから、守るべきだと言う者も、求められたのはそなたなのだからと言った者もいます。最後まで二派は交わることはなく、結局、わたしたちは裁決を大神に委ねました」

 御簾の向こうの気配が、静かに、否やを言わせぬ強さを帯び始めたのは気のせいか。何が言いたい、と顔を上げて睨みつけたい衝動を抑え込み、いちるは待った。

 すべての者に聞こえる声で、神は言った。

[和睦を成すため、そなたには西へ渡ってもらいたいのです]

 身体が沈む込むような重さを感じた。目眩がして、影が明滅する。抗いがたい震えが、吐息になって吐き出された。

 いつかの繰り返される当てもない問いかけを呟くのと同じように、これが、といちるは言っていた。

[これが、東神のご意志か]

 痛々しく聞こえたのか昴は「辛い思いをさせます」と慰めにならないような哀れみをかけた。

「大神は特別の配慮として、そなたを神仙に召し上げると仰せです。また、そなたが婚家で困窮することのないよう、援助を約束すると。他に望みはありますか?」

 神に召し上げられるのはそれで多少の体裁が繕えるから。

 援助の約束は、一種の賠償だろう。いちるを建前に支払おうというのだ。

 そこまで考えて、唇を歪めた。なんて、なんて馬鹿馬鹿しい。

(期待したのか。神が助けてくれると。そんなこと、今まで一度たりともありえなかったではないか。天災は止まず、人は幾度も争ったではないか。妾が予兆を紡いでも止められなかったものを、神は救ってくれなかった。妾を、救ってくれることもなかった――!)

 腹の奥が、身体の内が煮えたぎるようだった。

 しかし面と向かって吐き出すことは犬が吠えるのと同じこと。煮え上がる感情を押しとどめた声は低くなった。

「……では、お願いしたきことがございます」

「何なりと」

「東の国々に守護を。特に撫瑚は、わたくしが導いてきた国でございます。このまま離れてはかの国の者たちは迷うことになりましょう。どうぞ、東の御神々のお力で、すべての者が健やかであれるよう、ご厚情を賜りたく存じます」

「聞き届けましょう」と昴は応じた。

 東神の使者はそうして去り、雲の向こうへ姿を消した。ようやく立ち上がったいちるは徒労感を覚え、皮肉に顔を歪めてアンバーシュを見返った。

[御神の思い通りになったようじゃ]

 こうなることを知っていたら容赦しない、と暗に示したのだが、アンバーシュは顔をしかめるようにして目を細めた。

[昴が頷くと分かって言いましたね?]

 いちるは更に顔を歪めた。笑みに近い顔になる。

[俺たちが聞いているところでああ尋ねられれば、東神の沽券として頷かないわけにはいかない。人の娘を差し出した挙げ句、見返りすら与えない器の小さい神かと侮られることを恐れたわけです。そしてあなた自身は、望みなど叶えられるわけがないと思っている]

 ふ、と笑い声を漏らし、彼方を見遣る。首を傾けると、黒髪がぞろりと動いた。

 ――なぜこのように。

 何度問いかけても答えはなかった。幾度救いを求めようとも。魔物や妖女と呼ばれ痛めつけられても、その力を利用すべく牢に閉じ込められても、長い時を生きて半ば生き飽いていても。

 ――なぜこのようにつくられたのだ。

 人でないこの身が、何故この世にある。

 そこまで考えても解を得られないことはすでに悟っていた。だから笑う。嘲笑う。何を悲しむ必要がある。己がどこに在ったとしても、この身が損なわれることはない。西神に千年姫と呼ばれるほどの力を持つ自分ならば、どのように生きようと思いのままのはず。

[妾は己の力で生きてきた。それが西に移るだけのことを、何故嘆く必要があろうか?]

 天空青の瞳が丸くなり、やがて寂しいくらいの笑みを形作ると[怖いひとだ]と呟く。

 鬼の仮面のような艶麗さで、いちるは笑った。

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