第42話 北原紗希

「別れさせ屋……?」

「うん、知り合いが探偵事務所をやってるんだけどね、たまに調査の結果そういう依頼を受ける事があるらしいんだ」


 僕の家に溝口さんが遊びに来た日、事を終えてベッドでくつろいでいると一息ついた溝口さんが思い出したように僕に言いました。


「ある女の人に近づいて、彼氏さんと別れさせて欲しいそうなんだ。一真君、そういうの得意だろう?」

「うん、そうだね」

 溝口さんの言葉に僕は頷きます。


 溝口さんとは今までと変わらない関係を続けています。

 僕の父に勘当されて大学を辞めてからの僕の生活についての話を溝口さんにすると、彼は最後までちゃんと聞いてくれて、それは大変だったろう、辛かったろうと頷いてくれました。


 僕は溝口さんのそういう適度な無関心さと軽薄さに、妙な安心感と信頼感を抱いていました。

 彼にとってはそれよりも、恐らく見た目が好みで性格も扱いやすい僕との関係をそのまま続ける事の方が重要でしょうし、それがわかっているからこそ、僕は安心して彼に甘えられるのです。

 今の僕の生活について、本当の事を話しているのは千秋と霧華以外には溝口さんだけです。


「謝礼も弾むそうだし、話だけでも聞いてみない?」

「そうだね。面白そうだから是非聞いてみたいな」

 興味も引かれたので、臨時収入が入るならと話だけ聞いてみる事にしました。


 後日、僕は溝口さんに連れられて、とある探偵事務所を訪ねます。

 繁華街の裏手にある雑居ビルの三階にあるそこは、思ったよりも綺麗で新しいオフィスでした。


 溝口さんが受付で飲食店にあるような卓上ベルを鳴らせば、四十代くらいのスーツ姿の男性が姿を現し、溝口さんの顔をみるなり待っていたと僕らを応接室らしき場所に案内します。


 長谷川はせがわ義夫よしおと名乗るこの探偵事務所の所長の話によると、以前、息子が連れてきた女性の身辺調査を依頼してきた母親が今回の依頼者だそうです。


 結婚前に息子の連れてきた恋人の身辺調査をした所、彼女の日常生活での素行が悪いので、なんとかして息子と別れさせて欲しいと依頼されたそうなのですが、その理由が食生活が外食ばかりだとか私服が派手で金遣いが荒そうという言いがかりのようなものばかりでした。


 ちなみに、一ヶ月彼女の生活を調査したようですが、犯罪歴も借金もなく、他に男の影もないようで、単純にただ息子の連れてきた恋人が気に入らないだけのように思えます。

 ……なんとなく、僕の義母を髣髴ほうふつとさせて、どこにでもこういう人はいるのだな、となんともいえない気分になりました。


「初対面の頃から気が強そうで気に入らなかった、息子に言ってもよく躾けるからと言われたけれど、結婚したら実家で同居するのだからそりが合わない人間と暮らしたくないとも言っていてね……」

 長谷川さんが言いながら肩をすくめます。


「……別居するという選択肢は無いのでしょうか」

「あのお母さんの中では、無いんだろうねえ……息子さんと離れる気は無いみたいだし」

 思わずポツリと漏らせば、苦笑交じりに長谷川さんが言いました。

 この場合、むしろ彼女さんの方に逃げろと言いたくなってきてしまいます。


「一ヶ月以内に彼女を息子さんと別れさせて欲しい。出来るかい?」

「ええ、できると思います」

 僕は笑顔で頷きました。


 この時、初めて気づいたのですが、どうやら僕はこういった下衆な目的を達成する事に対して、妙に燃えてしまう性質のようです。


 ターゲットとなる北原きたはら紗希さきという二十七歳の女性については、勤め先や生活範囲など、一ヶ月の調査でわかった情報が渡されました。


 用意された情報を元に僕は、彼女がよく立ち寄るという店をいくつか実際にまわってみる事にしました。

 彼女がよく買い物をする場所や、行きつけの飲食店などをまわってみます。


 一ヶ月で彼女と出会って付き合わなければならないので、あまりもたもたしている時間もありませんが、早く距離を縮める為にもどう出会うかは重要でしょう。

 幸い彼女はよく外食をしたり、出歩く事が多いようですし、声をかけるとしたらこの辺でしょう。


 そんな事を考えながら、調べておいた彼女がプライベートでよく立ち寄るエリアにあるバーに向かいます。

 土日祝日はお昼の二時からやっているお店なので、知っておいて損はないでしょう。


 今日は土曜日なので、外の大通りは賑やかですが、そこから裏手に入った所にあるそのバーは、夕方六時過ぎという中途半端な時間もあって、客も三人しかいませんでした。


 落ち着いた雰囲気の良さげなバーだったので、ここは使えるかもしれない、なんて思いつつカウンターで軽めの酒を注文した僕は、ちらりと斜め向かいに座る女性を見ます。


 ……今回のターゲットである、北原紗希さんでした。

 あんまりにも都合のいい展開に、僕は目を疑いましたがそれはまぎれもなく写真で見た女性本人です。

 僕の視線に気づいたのか、相手の方も僕を見てきます。


 目が合ってしまったので、とりあえずにっこりと笑い返した後、視線を逸らします。

 もうこうなったら、この場で彼女をナンパしてみるのもありかもしれません。


 結局僕は、彼女のグラスが空になるのを見計らって、

「一杯どうかな」

 と声をかけてみました。


「……あら、いいの?」

 少し間を置いた後、彼女はにっこりと微笑みます。

「こんな綺麗な人と話せるなら」

 好意的な反応を意外に思いつつ、僕は頷きます。


「お姉さんはよくこの辺来るの?」

「ええ、このお店に来たのは久しぶりだけれど……」

 まだ早い時間とはいえ、婚約者もいるのにバーで一人飲んでいるというのも不思議に思いましたが、彼女は妙に含みを持たせる言い方をしてきます。


「久しぶりって、仕事が忙しかったから?」

「仕事というか、プライベートでちょっとね……」

 いかにも何かありましたと言わんばかりの彼女に、とりあえず僕は彼女の求めているであろう返事をします。


「何かあったの?」

「……彼氏とちょっと揉めててね、ケンカ中なの」

 どこか寂しそうな顔をしながら彼女は言いました。

 ナンパの相手というよりは、もしかしたら、ただ話を聞いて欲しいだけなのかもしれません。


「そうなんだ、大変なんだね」

「ええ、彼のご両親にも紹介されたのだけれど、彼のお母さんにはなんだかよく思われていないみたいだし、なぜだかいきなり結婚したら同居する事になってたの……」

 ため息交じりに彼女が言います。


「……彼氏は、なんて言ってるの?」

「それが、同居に関しては自分は長男だから仕方が無いの一点張りだし、彼、私が何を言ってもお母さんの肩を持つのよ……」

 依頼者の話からして、なんとなくそんな気はしていました。


「それは……おかしいね」

「そう! そうでしょう!? 今まで気づかなかったけれど、彼、マザコンなんじゃないかしら!?」

 少し興奮した様子で僕の言葉に彼女は食いついてきます。

 ……これはもう、僕の出る幕は無いのではないでしょうか。


「同居で彼が母親にべったりだと、奥さんが一番、立場が弱くて苦労しそうだね」

「そうなの……でも、私今年でもう二十八歳だし、彼は学歴も年収も申し分ないし、外では礼儀正しいし、今この人を逃したらこれ以上の相手に出会えるか……」

 暗にそんな男はやめておけと言ってみますが、彼女は首を横に振ります。


「うーん、僕は自分の母親と奥さんだったら、奥さんの方が大事だけどなあ……」

「……そう」

 彼女の目がどこか切なげに伏せられます。


「お姉さん美人だから、今の彼氏と別れてもきっとすぐに新しい相手が見つかるよ、僕とか」

 媚びるように僕が言えば、彼女は僕と目を合わせて、困ったようにクスリと笑いました。


「…………私、北原紗希っていうの。あなたは?」

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