第40話 それはそれで
その日は家から出ると、そのまま駅まで向かい、終電は終わっていたので駅前のネットカフェで一泊してから始発で千秋と霧華の新居へと向かう事にしました。
僕の部屋の鍵をそのまま送ってしまったため、千秋に鍵を返してもらわないと部屋にも入れないからです。
千秋には前日の内に連絡を入れて事情や予定も話していたのですが、そういう事なら荷物を運び出す手伝いもするし、泊まる場所がないならうちに来ればいいとまで言ってくれました。
父と相対していた時は、精神が高揚していたせいか、痛みなんて気にならなかったのですが、ネットカフェに入って落ち着いた途端、急に右まぶた辺りや左頬が痛くなり、シャワールームの鏡で確認してみたら、随分と腫れていて驚きました。
とりあえずその日は貸し出しされたタオルを濡らして患部を冷やしました。
翌日、僕が朝一で訪ねると、
「うわ、すごい顔だね。荷物を取りに行くなら早いほうが良さそうだからすぐに車を出そうと思ってたんだけど、とりあえず手当てするから上がりなよ」
と、千秋は驚きながらも嫌な顔一つせずに迎え入れてくれました。
「秋ちゃんからなんとなくの話は聞いてたけど、一体どんな修羅場をくぐってきたの?」
霧華も笑顔で迎えてくれましたが、救急箱を出しつつ目を輝かせて事の顛末を聞いてきます。
「顔以外も怪我してない? 見せて見せて」
一応手当てが目的のはずなのですが、隠しきれていない好奇心が見え隠れしています。
「一真の手当ては僕がやるからさ、霧華ちゃんは朝ごはん作ってよ。霧華ちゃんの甘い卵焼き食べたいなあ」
「え~、じゃあ、後で私にも話を聞かせてね」
千秋が間に入ってなだめるように言えば、霧華は不服そうにしながらもキッチンへと向かいました。
「それで、どうなったの?」
「勘当された。あと、まともな所に就職できると思うなよとも言われた。多分、付き合いのある会社なら書類選考段階で落とされるだろうし、関係ない所に就職しても嫌がらせされて辞職に追い込まれるんじゃないかな」
されるがままに千秋に手当てをされながら、事の結末を話せば、千秋は訝しげに首を傾げました。
「その割に、あんまり困っては無さそうだね」
「……そう見える?」
「うん。なんだかスッキリしたような顔してるよ。実際には腫れてるけど」
千秋は、それ以上特に何か言うでもなく、呆れたように笑っていました。
「そうだね……」
僕は静かに頷きました。
その後は、僕と千秋と霧華で朝食を食べ、その後すぐに三人で僕の住んでいた部屋へと向かいました。
僕の住んでいた部屋はいつ父の手が回るのかわからないので、僕が行動を起こす前に、最低限の貴重品だけは事前に千秋に持ち出してもらいましたが、可能なら他の日用品や換金できそうなものも回収したいのです。
部屋に着いたのは朝八時過ぎでしたが、流石にまだ父の手は回っていないようでした。
それからしばらく持っていく物と置いていく物を仕分けて、持っていく物を千秋の車に詰め込みます。
といっても、元々一人暮らしでそんなに荷物も無かったので、結局持って行く荷物はダンボール二つ分程度で収まりました。
その後は一旦千秋達とは別れ、回収した荷物の中から換金できそうなもらい物等を売りに行きました。
父から貰った車は、先にどこで売るのが一番良いか調べた方が良いでしょう。
一通り用事を済ませて百舌谷家に戻ると、千秋は台所で野菜を刻んでいました。
今夜は鍋だそうです。
霧華はと尋ねれば、慣れない早起きをして眠そうだったので、夕食まで寝かせているのだと言います。
「一真はこれからどうするの?」
「大学は辞めることになるだろうし、定職に着くのは難しそうだからね。あてつけに愛人にでもなろうかと思うよ」
「あてつけ?」
刻んだ野菜を鍋に入れながら千秋は尋ね返してきます。
「言ってなかったっけ、僕の本当の母親は父の愛人だったんだ」
「ああ、言ってたね、そんな話」
「……それだけ? 突っ込みどころだらけだと思うんだけど」
机を拭きながら、千秋のあんまりにもあっさりした反応に僕が聞き返します。
「一真だったらやりかねないなって思って。だって、今日売りに行った『もらい物』だって、親から買ってもらった物ではないよね?」
茶化すように答える千秋に、思わず僕は作業の手を止めました。
「……千秋のそういう、わかっててもあえて口出ししてこない所、好きだよ」
思わず、そんな言葉がこぼれていました。
千秋には、僕が大学生活の裏で愛人業を営んでいる事を話した事はありません。
けれど、アルバイトをしている訳でもないのに金回りが良く、明らかに親以外からの高そうな贈り物を貰っていれば、なんとなく金の出所の予想はつくでしょう。
別段、自分から言わないだけで隠しているつもりもありませんでしたが、まっとうな稼ぎ方ではないので、その事を知られれば、何かしらのお小言は言われるだろうと思っていました。
だからこそ、僕は千秋のその態度を嬉しく思ったのです。
今回のように、頼れば親身になって助けてくれるのに、そんな事は良くないだとか、普通はこうすべきといった話を一切してこない千秋の性格が、僕にはとても好ましく思えました。
「ゴメン、僕、霧華ちゃん以外の人はちょっと……」
「大丈夫、千秋の事はそんな目では見てないから」
そんな軽口を叩きながら、僕は親に勘当された直後なのに、妙に自分の心が落ち着いている事に気づきました。
それからしばらくして、僕は千秋の家と付き合いのある不動産屋から、そこそこ交通の便も良い部屋を紹介してもらい、その物件に引っ越しました。
冬休みが終わった頃に、大学から家庭の事情で自主退学する事になったと退学届けが出されたが間違いないか、という確認の電話がかかってきたので、間違いないと答えます。
こうして晴れて無職になった僕ですが、あまりお金には困りませんでした。
大学を辞めた直後、僕は肉体関係もあり、金銭的に援助を受けている相手が三人いましたが、それとは別に、たまに食事に行くだけだけれど、これからそういう関係にもっていく予定の相手が五人いました。
突然相手と音信不通になったり、他に好きな相手ができたからと、今まで散々貢がれた相手に捨てられる事も多々あるので、一度に複数人と付き合うのは、稼ぎを増やすという以外にも、リスクヘッジという意味もあります。
また、そうすることで、素質のありそうな相手を時間をかけてパトロンに育てる余裕も出てきます。
こうなってみると、かつて僕の実母が常に複数の男と付き合っていたというのも、合理的な事だったと思えます。
家族とは、あの日以降連絡を取り合う事は一切ありませんでした。
気がかりなのは弟の事でしたが、今更その事を確かめる術もありません。
僕が家を出た翌年の一月の終わり、弟が入選したと言っていた書道大会の入選作品の展示が大阪で開かれたので、僕は初日に向かいました。
国内外から一万六千点以上の高校生の書道作品があつまる大会で、入賞した二千あまりの作品が展示されるそうなのですが、会場一杯に広がる書道作品は壮観でした。
弟の作品を探してしばらく歩いていると、どこからか聞き覚えのある声が聞こえてきます。
まさかと思って辺りを探してみれば、高校の制服を身に付けた弟と、同じ制服を着て弟と親しげに話す何人かの高校生の姿を見つけました。
遠目から見ていたので何を話していたのかはわかりませんが、どうやら次は団体で優勝するだとか、個人でももっと上の賞を取るだとか、そんな事を言い合っていたような気がします。
一瞬、弟と目が合った気がしましたが、すぐに逸らされたので僕の気のせいかもしれません。
ただ、友人達と楽しそうに笑う弟の姿に、なぜだか彼はもう大丈夫だと、そう思えました。
それから僕は弟が以前、毎年高校で参加していると言っていた大会の入選発表を度々チェックするようになりました。
弟は年々実力をつけてきているようす。
自分の事ではないのに嬉しくて、今ではそれは僕の密かな楽しみになっています。
明るい未来が待っていそうな弟とは逆に、将来の展望などはなく、根無し草のような生活を続けている僕ですが、そんな生活を続けていると、たまに奇特な人にも出会う事もありますし、思いも寄らない事が起こったりします。
この年の春、僕は千秋の紹介で知り合った探偵業の男に、別れさせ屋の仕事を依頼され、当時付き合っていた彼女に無理心中させられそうになりました。
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