第25話 馴れ初め

 八月三十一日、僕は義母と弟に見送られて駅まで来ていました。

 義母は名残惜しそうでしたが、弟は冬休みもまた遊んでね! と笑顔でした。


「それじゃあ、僕がいない間、ちゃんと良い子にしててね」

 電車に乗る直前に僕が言えば、弟は元気に返事をしながら手を振ってくれました。

 義母は顔を赤らめて俯きました。


 九月になり学校が始まると、僕は何事もなかったかのように登校しました。

 相変わらず僕の前の席は空席のままで、それでも当たり前のように続いていく日常が、僕には恐ろしく感じられました。


 二学期が始まってしばらくすると、僕は学校の歯科検診で引っかかり、早めに治療に行くようにというプリントをもらってしまいました。


 その事はすぐに仲の良かった西沢あきらからその母親である恭子さんへと伝わり、

「ちゃんと虫歯を治すまでキスしてあげないからね」

 と言われてしまいました。


 仕方が無いので、僕はさっさと近所で歯医者を探して治療する事にしました。

 携帯で近隣の歯科医院を検索して、その中でも特に評判が良くて通いやすそうな所に予約を入れます。


 一人で歯科医院に行くのは初めてで、少し緊張しましたが、虫歯も初期の段階だったこともあり、治療は特に痛い思いをする事もなく問題もなく終わりました。

 治療が終わると、なんだこんなものかと思いつつも心底ホッとしたものです。


 それからは特に変わった事もなく十月になり、肌寒い日が増えてくると、そろそろ冬服の準備をしようと壁にかけっぱなしだった標準服の冬服を手に取りました。

 ほこりが結構かかっていたのでエチケットブラシをかけ、それが終るとなんとなくブレザーを羽織り、ポケットに手を入れました。

 その時、僕はポケットの中に何か入っている事に気づきます。


 小さく折られた紙のようなもので、何かと思って取り出してみると、それは佐藤玲亜が僕にくれた最初で最後の手紙でした。

 『明日、五時半に昨日の公園で待ってる』とだけ書かれた桃色の小さなメモです。

 それを見た途端、急に彼女との事がありありと思い出されて、僕は居たたまれなくなりました。


 当たり前のように続くと思っていた日常は、ある日突然切り離されて、その事が受け入れられずに僕はまだこの現実が悪い夢であることを願っている。


 だけど、これがまごうことなき現実なのだと、本当はわかっているのです。

 なのにそれが受け入れられなくて、何をするにもどこか実感の伴わない自分がいました。


 大して文字数も中身もない手紙をしばらく読み返した後、僕は壁にかけられた時計を見ます。

 何もない十月の金曜日の午後五時、僕は簡単に出かける準備をすると家を出ました。

 僕の足は彼女の家に向かいます。


 玲亜の話では両親は土日は決まって仕事だけれど、水曜と木曜は父親が、月曜と金曜は母親が休みだと言っていたので、今から行けば、もしかしたら彼女の母親に会えるかもしれません。

 そうしたら、線香を上げさせてもらって、彼女の墓の場所も聞いて、休みの内に墓参りに行こう。

 実際に彼女の墓を見れば、この気持ちにも踏ん切りがつけられる。そう思ったのです。


 しかし、僕が玲亜の墓参りに行く事はありませんでした。

 玲亜の住んでいた家に行ってみれば、その家は売りに出されていました。


 ちょうど隣の家に住んでいて、この家に通っていた時によく顔を合わせていた女の人が通りかかったので訪ねてみると、玲亜が死んでしばらくした後、彼女の両親は引っ越してしまったそうです。


 テレビや新聞等の取材もあったでしょうし、あんな事が起こった後では変わらず住み続ける気にはなれなかったのでしょう。

 他にも思うところは色々ありましたが、引っ越した先もわからない以上、考えても仕方のない事です。


 僕は女の人にお礼を言うと、ふらふらと駅の方へと歩き出しました。

 電車に乗って、玲亜と出かける予定だった水族館へと向かいます。


 玲亜が行きたいと言っていた水族館は、確か夜の八時までやっていたので、今から行ってもいくらかは見て回れるでしょう。

 一人でそんな所へ出かけても楽しくないだろうとは思いつつも、なぜだか僕はその時、そこに行きたいと強く思ったのです。


 目的の水族館に着くと、そこは平日なのに結構人がいて、そのほとんどがカップルでした。

 その時、僕は今日が金曜日だったことを思い出します。

 自分の場違いさを感じつつ、一人で水族館を見て周りました。


 水槽の中で泳ぐ色んな魚達を見ているうちに、僕は途中から玲亜だったらこれを見てどんな反応をするだろうかと考え始めます。


 想像の中の玲亜と水族館を周ると、想いの外楽しく、そして懐かしい気分になりました。

 そして、水族館を出る頃には酷く寂しくなりました。


 水族館を出て座れるところを見つけて一息つくと、どうしようもなく涙が溢れてきました。

 胸が痛くて寂しくて、ただただ悲しかったのです。


「篠崎くん?」

 僕がベンチに座って一人でしばらくそうしていると、不意に声をかけられました。

 顔を上げると、僕が通っていた歯科医院で僕を担当していた歯科医の男の人が立っていました。

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