第5話 平和でした

 それを知ったのは偶然でした。

 ある日、両親の部屋を覗くと昼も夜も弟につきっきりでまともに寝ていないらしい義母が弟のベビーベッドにもたれかかり、うたた寝をしていました。


 ちょうど家政婦さんが義母と弟の様子を見に来たのですが、彼女は、義母の様子を見ると、慌てて義母の元へ駆け寄ります。


 そして何かを確認した後ホッとした様子で義母に寝るのならベッドで寝ないと身体を痛めると義母をベッドに移動させました。


 ベッドに移動して横になった母を確認して部屋を出た後、なぜ先程あんなに慌てていたのかと僕は家政婦さんに尋ねました。

 すると、義母が手に持っていた少し湿ったガーゼのハンカチが弟の鼻と口を覆っていたように見えて驚いたのだと言われました。


 なぜそれで慌てるのかと問えば、赤ん坊は寝ている間にガーゼのハンカチで口元を覆われただけで窒息死してしまう可能性があるからだそうです。

 僕はそんなに簡単に赤ん坊は死ぬものなのかと驚きながら家政婦さんに尋ねます。


 赤ん坊は大人が抱き上げた位の高さから落ちても打ち所が悪ければ死ぬし、本当にちょっとした事で死んでしまうか弱い存在で、だからこそ義母があんなにも神経質になるのだと彼女は教えてくれました。


「だから一真ぼっちゃんも裕也ぼっちゃんの事は丁寧に扱ってあげてくださいね」

「わかった。僕がお兄ちゃんなんだから、裕也は僕が守るよ」

 そう答えつつ、僕はいい話を聞いたと心の中でほくそ笑みました。


 義母と弟が寝ている間に弟の鼻と口を押さえれば、弟は簡単に殺せそうです。

 窒息死なら特に外傷も残らないし、弟が眠ったと思ったらいつの間にか死んでいた、という事にすればいい。

 そう考えた僕は、その日から義母と弟を気にかけるフリをしながら計画を実行する機会をうかがいました。


 弟が四ヶ月になる頃には、義母は僕が篠崎の家にやって来た頃以上にやつれていきました。

 目元も落ち窪んで隈が濃く、髪もぼさぼさで、寝ているか怒鳴っているか一人で何かをぶつぶつ言いながら作業をしているかという有様です。


 その頃の義母は口を開けば弟の事ばかりで、僕がテストで百点をとっても、前ならとても喜んで褒めてくれたのに、おざなりに相槌を打たれるだけになりました。

 ただ話しかけただけで鬱陶し気な反応をされた事も一度や二度ではありません。


 僕は早く弟を殺さなくてはと思いました。


 ある日、僕が学校から帰って身支度を整えた後、いつものように両親の部屋を覗くと、義母が弟の口元を両手で押さえているのが見えました。


 ほとんど反射的に僕は義母の元に駆け寄り、弟の口元を押さえる義母の手を掴んでどけさせました。

 義母の手は僕が掴んだ途端に驚く程あっさりと外れ、弟は母の手が外れた瞬間に咳き込み、泣き出しました。


「母さま、なに、やってたの……?」

 声を振るわせながら義母の顔を覗き込めば、呆然とした義母の顔がみるみる歪んでいき、彼女はその場に泣き崩れます。


 何に対してなのか、ずっとごめんなさい、ごめんなさいと彼女は床にうずくまりながら泣いていました。

 僕はその姿を見て、なぜだか無性に悲しくなりました。


 自分が弟を殺そうと考えていた事には何も思わなかったのに、義母が自分の子供である弟を殺そうとしていたのは、なぜだかどうしても僕にとって受け入れがたいものだったのです。


「母さまは、最近頑張りすぎだったんだよ。裕也は僕が見てるし、何かあったらすぐ起こしに行くから、一旦他の部屋で寝たほうがいいよ」

 僕は義母の背中をさすりながら、そう言って来客用の寝室に案内します。

 義母は酷く憔悴しょうすいしきった様子で、大人しく僕の指示に従ってくれました。


 義母を別室に送り届けてから僕が部屋に戻れば、弟が先程と変わらず泣いています。

 紙おむつの交換サインが出ていたので、義母がいつもやっていたのを思い出しながら、見よう見まねでどうにかおむつを交換しました。

 おむつを交換し終えれば、弟は先程の事など知りもしない様子で僕に無邪気に笑いかけてきました。


「何がそんなに楽しいの」

 弟の小さな手のひらをつつきながら呟けば、弟は思いの外強い力で僕の指を握り返してきました。

「君なんて、ちょっとした事ですぐ死んじゃう位弱いくせに……」

 僕の呟きなどものともせずに弟は僕の指を握りながら眩しい笑顔を向けてきます。


 その時、ふと僕は弟が自分ととても近い存在のように思えました。

 自分一人では弱くて何もする事ができないから、こうして笑顔を振りまいて周りに媚びて、保護してもらおうとする。守ってもらおうとする。


 意識的にしているかどうかというだけで、弟のやっている事は僕と何も変わらないのだと、そう思った瞬間、僕は弟の事がなんだか憎めなくなっていました。


 日も暮れて夕食の時間になると、少し落ち着いた様子の義母が起きてきました。

 僕も義母も、ほんの数時間前に起こった事件については何も口に出しません。


「母さまは最近無理しすぎだよ。僕も手伝える事はなんでもするから、もっと休んでもいいんだよ?」

 ただ、僕がそう提案すれば、今までは「大丈夫だから」の一点張りだった義母が、

「そうね。じゃあこれからは一真くんに頼っちゃおうかな」

 と疲れたように笑いました。


 それから義母は少しずつ僕に弟の面倒を頼むようになり、初めは難色を示していたベビーシッターにも週に何度か来てもらうようになりました。


 すると睡眠時間と休息の時間を確保できるようになった事もあり、義母はまた少しずつ元気を取り戻していきました。

 しかし、父との間にはどうしようもない溝が残ったようです。


 弟はすくすくと元気に育ち、幼稚園に上がる頃には随分と僕に懐いてくれて可愛かったのを憶えています。

 両親の愛情が弟にばかり行かないように、そのせいでまた弟を殺そうだなんて考えが浮かばないように、僕は何をするにも両親に気に入られようと前以上に必死に取り組むようになりました。


 義母は僕が学校や習い事では優秀な成績を残す事を随分と喜びましたし、父は僕が女の子に興味を持ったり、モテているとやはり自分の子供だと妙に嬉しそうでした。


 そうして僕が中学に上がってしばらくするまで、篠崎家は表面上平和でした。

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