第3話 全てが順調でした
準備を終えて玄関に現れた義母は、初めて会った日のように薄く化粧をして髪を後ろでまとめていました。
「おまたせ、それじゃあ行きましょうか」
「うん!」
義母の言葉に、僕は元気いっぱいに頷きます。
靴を履こうと玄関先で屈みこんだ義母からは、花のような香りがしました。
「……母さま、いい匂いがする」
僕がそう呟けば、彼女は初め驚いたようにきょとんとした後、はにかみながら微笑みました。
「ふふっ、ありがとう」
「早く行こうっ」
靴を履き終えた義母の手を取り、待ちきれないとばかりに言えば、はいはい。と彼女は立ち上がります。
そうしてそのまま僕らは手を繋いで玄関を出ました。
「えへへ……」
繋いだ手に軽く力を込めて、義母を見上げて笑顔を作れば、笑顔が返ってきます。
家の敷地から出て、僕が車道側に立って歩こうとすると、義母は手を反対側に繋ぎなおして僕を歩道側に立たせました。
「危ないから、一真くんはこっち歩いてね」
義母の言葉に頷きながら、僕は元気に答えました。
「わかった。じゃあ僕が大きくなったら、母さまがこっちね」
「ええ、大きくなったらね」
今度は義母が僕の言葉に頷きます。
それから僕達は、あてもなく家の周辺を散策することにしました。
近所の公園に行き、せっかくなのでブランコを押してもらったりしました。
ブランコの前には砂場があり、そこでは僕と同じ歳位の子達が遊んでいます。
なんとなくその様子を見ていると、
「砂場で遊んできてもいいのよ?」
と義母が後ろから声をかけてきました。
「ううん、服が汚れちゃうからいいや」
僕がそう返すと、義母は不思議そうな顔をしました。
「そう、一真くんが気分じゃないならいいのだけれど、服の事は気にしなくてもいいのよ?」
ちょっと戸惑ったように義母は言いましたが、僕は首を横に振ってブランコから立ち上がります。
「母さま、もう行こう」
僕は手を引きます。
その公園の遊具はブランコとシーソー以外は服や靴が汚れそうなものばかりだったので仕方ありません。
その日から、僕は雨の日以外は毎日義母に散歩をせがみました。
雨の日は義母に一緒におやつを食べて欲しいとか、義母の事を教えて欲しいとか、負担にならない程度のお願いをして、その度に大げさに喜んだり楽しそうに振舞います。
晴れた日は、今日はどこに行こうかと声を弾ませながら義母と出かける前提ではしゃぎます。
するとだんだん義母は僕に対してよく笑うようになり、はじめの戸惑ったような態度が嘘のように僕を可愛がるようになりました。
散歩中見かけた喫茶店の食品サンプルをなんとなく眺めれば、
「ケーキ、食べたい? それともパフェの方かしら」
なんてニコニコしながら立ち止まって僕の希望を聞いてきます。
別にケーキやパフェを食べたい訳ではありませんでしたが、義母がせっかく僕の事を気にかけるようになったのだから、ここでそのチャンスを無下にはできません。
何事も初めが肝心なのだと、母も常々言っていました。
「うん! 僕、このチーズケーキが食べたい!」
「そう、じゃあちょっと食べていきましょうか」
嬉しそうに笑い、期待に満ちた目で義母を見上げれば、彼女はクスリと笑って僕を連れて喫茶店に入りました。
喫茶店でケーキを頼んでもらえば、母に習ってお店でケーキを食べるなんて初めてだと大げさに喜んで見せます。
だって母はよく経験のある事でも、新しい男の前では『こんなの初めて』と言っていましたから。
義母と一緒にいる時、僕はよく彼女自身の事について尋ねました。
自分の置かれている状況を把握したり、今後義母の機嫌を取るためにはとにかく情報が必要だったからです。
それに、相手の話に常に好意的な反応を返して話を広げていけば、大抵の相手には気に入られる事も、その頃僕は既に知っていました。
義母は父と結婚してからずっと子供ができず、その事をずっと気にして病院で治療も受けたけれど、結局子供ができなくて、とうとう僕を養子に迎える事になったと話しました。
また、父が仕事であまり家に帰ってこず、近隣に友人もおらず、家政婦を雇っていて一切家事をする必要が無く時間を持て余していた事も彼女を追い詰めていたようでした。
「なら、母さまはこれからは僕と一緒だから寂しくないね」
義母の手を取って僕が言えば、彼女は困ったような、戸惑ったような顔で僕を見ました。
「一真くんは、寂しくないの? ここに来る前は、本当のお母さんと一緒に住んでいたんでしょう?」
それは、ずっと義母が僕に抱いていた疑念だったのでしょう。
しかし、その質問は当時の僕にとっては意外なものでした。
母が連れてきた男達は、ただ褒めて機嫌をとっていれば勝手に僕の事を気に入ってくれたし、そこまで深刻に前の父親の事について僕に聞いてきたりはしなかったからです。
だけど、こんな時、どうすればいいのかはなんとなくわかっていました。
僕は悲しそうな顔を作って、
「……お母さんは、僕の事、いらないって。結婚して、新しく子供を作るから、僕はもういらないんだって」
それは母から直接言われた、紛れも無い事実でした。
ただ、僕はその事実をどう演出して伝えれば、より義母の心に響くかを考えながら話しました。
こんな時は、できるだけ同情を引くようにした方が良いだろうと考えたからです。
「ご、ごめんなさいっ、辛い事思い出させちゃったね……」
案の定義母は僕の言葉を聞いてうろたえましたが、僕はそんな彼女を泣きそうな顔を作って見上げました。
「僕、良い子にするよ? 言いつけはちゃんと守るし、迷惑かけないようにする。だから……」
言いながら、視界がぼやけました。
なぜだか酷く胸が痛みました。
どうせ母の所に戻ったってもう僕の居場所なんてありはしないのだと、わかっているのに。
だからこそ、新しく連れてこられたこの家で彼女に気に入られようとしているのに。
頭ではわかっていても、母の事を思い出すと、どうしようもなく心がざわつきました。
「いいの、いいのよ。大丈夫だから。迷惑かけたって、わがまま言ったって良いのよ。あなたはもう、うちの子で、私はあなたのお母さんなんだから」
義母は席を立って僕の隣までやってくると、僕を抱きしめて背中を撫でてくれました。
「……母さまは、ずっと僕のお母さんでいてくれる?」
僕は、義母の背中に手を回しながら、尋ねます。
口では尋ねていましたが、否定的な返事が恐くて、背中に回した腕に力を込めました。
「ええ、ええっ! 約束する。私はこれからずっとあなたのお母さんだし、あなたはこれからずっと私の子供よ」
直後、義母は強く僕を抱きしめました。
「ほんとうに?」
「本当に」
恐る恐る義母の顔を見上げれば、義母の目にも涙が浮かんでいました。
「……えへへ、嬉しい」
どうやらその場の流れで適当な返事をしている訳でも無さそうな事を確認すると、僕はやっと安心できました。
これで少なくとも、しばらくは篠崎の家から追い出される事は無いでしょう。
もちろん、途中で義母の気が変わらないように機嫌を取り続ける必要はありますが。
しかし、この出来事があってから、僕と義母の仲は急速に縮まりました。
義母は少し過保護に思える位、僕を構うようになり、僕はただニコニコしながら義母に甘えるだけでよくなりました。
すっかり義母は僕にべったりです。
僕が貰われてきた当初、やつれて疲れた様子だった義母は、笑顔も増え、気持ちに余裕も出たのか、日に日に綺麗になっていったように感じられました。
そして、その頃から父もよく家に帰ってくるようになりました。
初めはどこかよそよそしく感じた両親の仲も、随分と良くなりました。
「子は
と、父も僕を気に入り、可愛がってくれました。
全てが順調でした。
翌年、義母が弟を出産するまでは。
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