39:穏やかな時間

 翌日の午後、七時半過ぎ。

 漣里くんの家で、漣里くんお手製のチーズ入り絶品ロールキャベツとデザートのプリンを堪能した私は、コーヒーを飲みながら歓談に興じていた。

 この場にいるのは漣里くんと葵先輩、それと私の三人だけ。

 響さんはもう大学に戻っていて、お父さんはまだ仕事中らしい。

「漣里が真白ちゃんを担いで帰って来たときは本当に驚いたけど、まさかこんな未来になるとは思ってもみなかったよ。学校で一番有名なカップルになったよね。昼食は仲良く一緒に食べてるって、僕の耳にも届いてるよ」

 ブラックのコーヒーを啜ってから、葵先輩は微笑んだ。

「野田の件も含めて、真白ちゃんには本当に世話をかけたよね、ありがとう」

「いえいえ、そんな。私は何もしてませんよ。解決してくださったのは葵先輩じゃないですか」

 急いで手を振る。

 全ての功績は葵先輩のもので、私はお礼を言われることなんて何もしていない。

「小金井くんもすっかり葵先輩の虜ですよ。一体どんな話をされたんだろうって、凄く気になってました」

「大した話はしてないよ。大変だったねって慰めて、それから、具体的に野田たちにどんなことをされたのか聞いて、じゃあ慰謝料は三倍くらい請求してみようかって提案しただけ」

「三倍……」

 小金井くんが野田たちにいくら巻き上げられたのかは知らないけど、三倍っていうのはなかなか……いや、これまでの被害を考えるとむしろ安すぎるのかな?

「うん。でも、小金井くんは謙虚な人で、あれだけのことをされたのに同額が戻ってくればそれでいいって言ってたよ」

 謙虚な人……?

 小金井くんを形容するにはおよそ相応しくない単語だ。違和感しかない。

 話し始めて数分と経たないうちに、小金井くんは葵先輩に心酔して、謙虚な態度を取ったということなのだろうか。

 でも、わかる気がする。

 葵先輩の優しい微笑には心を解きほぐし、全ての邪悪を浄化してしまうような力があるんだよね。

 常日頃から光り輝くような、神々しいオーラを身にまとっているし。

「僕がそれじゃ甘すぎるって言って、最終的には二倍で落ち着いたんだ」

「そうなんですか……じゃあ、野田たちにはどんな話を?」

 ミルクの入ったコーヒーで喉を潤してから、尋ねる。

「あの人たちの対処はとても簡単だったよ。暴力の証拠として病院の診断書もあるし、警察に被害届を出そうかって言ったら態度が一変して従順になってくれた。所詮は小物だよね」

 葵先輩は天使のような微笑を浮かべて、とても辛辣なことを口にした。

「実際には診断書なんてなかったんだけど。漣里が面倒くさがって病院に行かなかったんだ」

 葵先輩は小さくため息をついた。

「小金井くんは相応のお金が返ってくる予定だけど、漣里は特に何も要求するつもりはないみたいだから、結局、殴られ損だよね。慰謝料もいらないっていうんだよ。ほんと、我が弟ながらお人よしすぎて困る。腫れた漣里の顔を思い出すと、いまでもぞっとする。あのとき僕は冷静を装ってたけど、物凄く我慢してたんだよ? 自制しないと野田たちに何をするか自分でもわからなかったからね」

「……迷惑かけてごめん」

 当時のことを思い出しているのか、苦々しい顔つきの葵先輩に、漣里くんが軽く頭を下げた。

「色々、ありがとう」

 もしかしたら、漣里くんが葵先輩にはっきりとお礼を言ったのは初めてだったんだろうか。

 葵先輩は意表を突かれたような顔で漣里くんを見つめ――やがて、苦笑した。

 右手を上げて、弟の頭を撫でる。

「まあ、蒸し返しても仕方ないしね。珍しく殊勝な漣里が見れたから許してあげる。でも、次に何かあったらちゃんと相談するんだよ?」

 髪の乱れを気にしているのか、髪を撫でつけている漣里くんを、葵先輩は優しい眼差しで見つめた。

「そもそもこの一件だって、最初から僕に言ってくれてたらここまで引きずることはなかったんだ。僕なら三日もあれば全部解決してあげたのに、意地っ張り」

「うるさい」

 意地悪な笑みを向けられて、漣里くんは拗ねたように顔をそむけた。

「ふふ」

 微笑ましいやり取りに、自然と笑みが零れてしまう。

「あ、そうだ」

 ふと思い出したように――多分、この空気から逃げるために――漣里くんが立ちあがった。

「真白、ちょっと来て。渡したいものがあるんだ」

「ああ、例のあれか」

 葵先輩が呟いた。何か知っているらしい。

「? うん」

 私は漣里くんの後に従って階段を上り、彼の部屋へ行った。



「うわあああ可愛い!」

 ハムスターのケージが壁際に二つ置かれた部屋にて。

 私は漣里くんの隣に座り、『ふわもち』シリーズのぬいぐるみを抱えて大はしゃぎしていた。

 ふわもちシリーズはビーズクッションのような、柔らかい感触が特徴のぬいぐるみ。

 現在女子の間で大流行中で、雑誌でも特集が組まれるほど。

 私はブームになる前から好きで、手のひらサイズのものをいくつか集めていた。

 漣里くんがくれたのは体長一メートルほどの、インパクトのある巨大なイルカのぬいぐるみ。

 デフォルメされた水色のイルカはとても愛らしく、手触り良好で、思わず顎を埋めてしまう。

 癒し効果は抜群だ!

 バイトで疲れたときも、このイルカを抱けばたちまち癒されるに違いない。

 この大きさなら抱き枕にだってなるよね。良く眠れそう。

「こんな大きいぬいぐるみは初めて見たよ。どこで売ってたの?」

 私はぬいぐるみを抱きかかえたまま訊いた。

「買ったんじゃなくて、ゲーセン。たまたま見かけて、取った。好きだって言ってたから」

 私の反応が嬉しいらしく、漣里くんもご満悦の様子。

 ふわもちシリーズの中でも特にイルカが好きだっていうのは、デート中に一回だけ話の流れで口にしただけなのに、覚えててくれたんだ……。

 そう思うと、さらに喜びが倍増する。

「そのとき葵先輩もいたんだ」

「ああ。取れたのは兄貴のおかげ」

 己の実力不足が悔しいのか、漣里くんは少しだけ不満そうに言った。

「なかなか取れなくて苦戦してたら、兄貴が店員に頼んでくれて。ちょっと押せば簡単に取れる位置に移動してくれた」

「ああ……」

 そのときの光景が目に浮かぶようで、私は笑った。

 葵先輩は自分の魅力をよくわかっている人だから、女性店員に声をかけたんだろう。

『取りたいんですけど難しくって……』と、眉を下げ、困った顔の一つもしてみせれば、どんな女性だって全力で助ける。それはもう間違いない。

「だから、俺の力っていうよりは、ほぼ兄貴の力」

「そんなことないよ。葵先輩が助けてくれたんだとしても、漣里くんが取ってくれた事実は変わらないもの。大切にするね」

 ぎゅーっとイルカを抱きしめながら言うと、漣里くんもようやく表情を明るくしてくれた。

「あと」

 漣里くんは立ち上がって、机の引き出しから綺麗にラッピングされた袋を取り出し、私に手渡した。

 ラッピングを見た瞬間、以前に漣里くんと行ったことのある雑貨屋さんのものだって、すぐにわかった。

「これは、香水のお礼」

 部屋の棚には、夏休みに私がプレゼントした香水が置いてあった。

 バニラの香りがする香水。

 漣里くんのお母さんが夜に良く眠れるようにおまじないをしていたと聞いて、私が贈った香水だ。

 漣里くんのお母さんが使っていたのは実は香水ではなくバニラエッセンスだったというオチだったんだけど、私はそのオチを響さんにも葵先輩にも、漣里くんには明かさないように頼んだ。

 よく見れば、買ったばかりの頃よりも、香水の液体の量が少しだけ減っている。

 ちゃんと使ってくれているんだ。

「ありがとう。開けてもいい?」

「どうぞ」

 感動しながら、私は丁寧にラッピングを解いていった。

 中から出てきたのは、ヘアピンだった。

 先端に水色の桜の花がついたヘアピンと、ピンクの桜の花がついたヘアピンが一本ずつ。

 一目で気に入った。

 ううん、気に入らないわけがない。

 漣里くんが私のために選んでくれたものなんだから。

 女の子とカップルしか入らないような可愛い雑貨店に、照れ屋の漣里くんが勇気を出して行ってくれたんだから――。

「気に入るかどうかはわからないけど……」

「ううん」

 私は控えめな漣里くんの言葉を即座に否定した。

「好き。私、このヘアピン、大好き。ずっとつけるよ。大事にする」

 私は早速水色の花がついたヘアピンを髪に留め、向き直った。

「どう?」

「可愛い」

 漣里くんは小さく顎を引いた。

 はっきりとした褒め言葉をもらって、喜ばない女子なんていない。

 このヘアピンは私の宝物になる。

 私は手元に残ったヘアピンをぬいぐるみの隣に置いて、漣里くんに近づいた。

 怪我が治ったらキスしようって言ったよね?

 ねだるような視線で思いは伝わったらしく、漣里くんは私の後頭部に手を回して引き寄せた。

 目を閉じて、とても幸せなキスを交わす。

 二度目のキスは、わずか一秒にも満たなかった記録を三秒ほど更新した。

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