38:君が笑えば、それだけで、こんなにも

 それから、一週間が経った。

 金曜日。

 時計とにらめっこしながら、まだかまだかと昼休憩の訪れを待っていた私は、先生が去ってすぐに立ち上がった。

 お弁当が入った小さな袋を左手に下げ、軽やかな足取りで一年棟へ。

 昼休憩の度にこの道を通るのがすっかり日課になっているから、もう緊張なんて感じない。

 階段を上って、一年三組の教室の扉から、控えめに顔を覗かせる。

 でも、今日は「漣里くん呼んでもらえますか」とは言わずとも良かった。

 いつも私が声をかける男子生徒が――彼の席は扉から最も近く、声をかけやすいのだ――私の姿にいち早く気づき、窓際の漣里くんを呼んだ。

「おい成瀬ー、嫁が来てるぞ」

 えええええ!!?

 嫁という単語に、大いに焦り、赤面する。

 そんな私を見て、クラスメイトたちがにやにやしている。

 恥ずかしさのあまり、私は身を縮めた。

「嫁じゃない」

 私が来ることを見越してだろう、お弁当袋を机に用意してた漣里くんは静かに否定した。

 お弁当袋片手に立ちながら、真顔で付け足す。

「まだ」

 まだっ!!!??

「まだってことは、将来的には結婚するつもりなわけ?」

 男子生徒が軽い口調でからかう。

「わからないけど、最有力候補」

「うん、参った。俺が悪かった。思う存分愛をはぐくんできてくれ……」

 冗談は通用しないと悟ったらしく、男子生徒は早々に白旗をあげ、なおざりに手を振った。

 漣里くんがやってきて、不思議そうに首を傾げる。

「どうしたんだ?」

 ど、どうしたって……。

 私は真っ赤になったまま、小さな声で「な、なんでもないです……」と答えるだけで精いっぱいだった。



 中庭にある木陰の花壇に座り、漣里くんと談笑しながらお弁当を食べる。

 野田という不吉の代名詞が出ることもなく、話題は文化祭準備の進捗状況、最近有名なスイーツのお店、王子と姫――等々、話していて楽しくなるものばかり。

 漣里くんの顔からはガーゼも絆創膏も取り払われ、痣もすっかり消えていた。

 ……平和だ。

 私は漣里くんの隣で、幸せをひしひしと感じていた。

 あの事件が起きた直後――

 野田が連行された職員室には、常日頃から彼らに不満を抱いていた生徒たちが押しかけたそうだ。

 彼らは「煙草を吸っている現場を見た」「同じクラスの林くんを小突いたり、使い走りをさせていた」と口々にその悪行を告発した。

 先生たちは野田が葵先輩に殴りかかろうとした現場を目撃しているし、いくら彼らの血縁に権力者がいようと、もはや関係なかった。

 野田たちは保護者を呼び出され、事実確認の結果、一週間の登校謹慎処分を受けた。

 職員室の隣にある会議室で自習させられ、教室に戻った後も、葵先輩の一派が睨みを利かせているおかげか、彼らは随分とおとなしくしているようだ。

 野田は自主的にか、親にそうするように言われたのか、頭を刈り上げ、丸坊主になった。

 この一件により野田たちは元々悪かった評判を最低まで落とし、逆に、漣里くんは株を爆上げした。

 漣里くんは事件の翌朝、教室に入るや否やクラスメイトたちから同情され、やり返さなかったことを讃えられ、同時に、いままで無視したり、酷いことを言ったりして悪かった、とも謝られたらしい。

 漣里くんのクラスメイトだけじゃなく、全校生徒が見る目を変えた。

 もはや漣里くんの悪評を信じるものなど誰もいない。

 そしてなんと、小金井くんまでも己の言動を改めるようになった。

 事件の翌日、葵先輩との話し合いはどうだったか尋ねると、小金井くんは「至って良好だった。全てがうまく行くだろう」と答えた。

 さらに彼は目を伏せ、過去の過ちを悔やむように、こう続けた。

「僕は井の中の蛙だった。これまで僕は僕に劣る他人を見下し、蔑んできたが、あの人に会って、本当の愚か者は自分だと思い知らされたよ」

 小金井くんとは思えないほどの殊勝な言葉に、目玉が落ちるかと思ったよ。いや、本当に。

「成瀬先輩は学力も僕以上に優れ、さらに素晴らしい人間性まで兼ね備えた傑物だ。人生で初めて心から尊敬できる人間に出会えた。僕は彼に出会えたことを幸運に、そして誇りに思う。時海に入って良かった……」

 一体どんな魔法を使ったというのか、葵先輩はたった一度話しただけで小金井くんを魅了し、心酔させ、その高飛車な人格をも変えてしまった。

 おかげで小金井くんに対するクラスの皆の冷たい態度は緩和されつつある。

 以前の彼が彼だっただけに、完全に受け入れられるのはもう少し時間がかかりそうだけど、でも、昨日の放課後は私たちと一緒にUNOをしたし、そう遠くない未来にクラスに溶け込めるようになるんじゃないかな。

 小金井くんが野田たちに巻き上げられたお金は、葵先輩の交渉の末、二倍の額が返されることが確定している。

 葵先輩は十数人から成る生徒たちの前でそう誓わせ、念書まで書かせたらしい。

 一応書いてもらったけど、ただ念押ししたかっただけで、特にそれ以上の意味はないんだけどね。僕が直接手を下すまでもなく、野田たちも色んな方面からお灸を据えられて、随分と反省しているようだし、と、葵先輩は笑っていた。

「葵先輩は本当に凄い人だよねぇ……」

 お弁当を食べ終え、水筒のお茶を飲みながら、私はしみじみと呟いた。

 葵先輩は全てにおいて素早く、完璧な対処をしてくれた。

 もう私が心配することなんて何もない。

 漣里くんの名誉は完全に回復したし、小金井くんのお金も倍になって戻ってくることになったし、野田たちは反抗する気力もなくしたみたいだし、万々歳だ。

 私たちはいま、思い描いていた理想の未来にいる。

「なに、いきなり」

 これまでの話題とは全く違うことを呟いた私に、漣里くんが小さく首を傾げた。

「だって、いまの平和は葵先輩が作ってくれたようなものでしょう? 何かできることがあれば手伝おう、なんて思ってたけど、私の出る幕なんてなかったよ」

 苦笑する。

 葵先輩はあっという間に事件を解決してみせ、手を貸す暇なんてなかった。

 ううん――私の手なんて、葵先輩は最初から必要としなかったんだろうな。

 私ができることなら、有能な葵先輩はそれ以上にできるに決まってるもの。

「結局、私は何もできなかったなぁって、ちょっと悔しいな。他でもない、漣里くんのことなのに」

 俯いて、足元に目を落とす。

 小さな虫がぽつぽつと雑草の生えた地面を這っていた。

「……それ、本気で言ってるのか?」

 その声に顔をあげれば、何故か漣里くんは呆れたように私を見ていた。

「……だって、事実じゃない」

「全然違う。大間違いだ」

 漣里くんは真顔で言って、膝に置いていた私の手を取った。

 私の手を包む、漣里くんの大きな手。

 細くて長い指が私の手に絡まる。

 彼の手から温もりが伝わってきて、胸がとくん、と鳴った。

「俺も小金井も変なところで辛抱強くて、意地っ張りだから、真白がいなかったら、俺たちはずっとすれ違ったままだった。これが相手のためになるって思い込んで、感情を麻痺させて、きっといまでも理不尽な状況に耐え続けてたよ」

 漣里くんは頭を傾かせて、私の肩に乗せた。

 ちょうど、上様を亡くした夜のように。

 ふわりと風に彼の髪が舞って、数本が私の頬をくすぐる。

 肩に感じる彼の頭の重みに、心臓がさらに心拍数をあげた。

「状況を根底から覆したのが真白だ。真白は俺が独りでいるのが嫌だと、不幸になるのが嫌だと泣いてくれた。人に暴力を振るうなって言ったのも真白だろ。もしも俺があのとき、野田に一発でも殴り返してたら、皆が俺を見る目も違ってた」

 漣里くんは繋いだ手に、きゅっと力を込めた。

「やられてもやり返さずに耐えるなんて根性がある、お前は凄い奴だなんて褒められることもなかった。兄貴はうまく事後処理を担当してくれたかもしれないけど、そもそもの発端は全部真白だ」

「……そ、そう……かな」

 発言内容にも、私の手を覆う温もりにも、漣里くんが私の肩に頭を乗せていることにも――全てに私は動揺して、胸がドキドキと鳴りっぱなしで、聞こえてるんじゃないかと不安になる。

「そうだ。言っただろ、俺は真白に感謝してるんだって。疑うのか?」

 繋いでいた手が組み変わり、俗に言う『恋人繋ぎ』になる。

「う、ううん、そんなことは……」

 ざあ、と気持ちの良い風が吹いて、頭上の枝を揺らす。

 校舎の中から生徒たちの話し声が聞こえてくる。

 心臓が負荷に耐えかねて爆発しそうだ。

 続ける言葉に困って、逃げるように目線を上げると、校舎の中からこちらを見ている人影があった。

 相川くんだ。隣には同じクラスの男子もいる。

 購買部からの帰りなのか、彼は片手に紙パックのジュースを持っていた。

 相川くんは漣里くんと目が合うと、片手をあげた。

 そして、漣里くんと、隣にいる私を交互に指し、にやりと笑う。

 ラブラブだねー、とでも言いたいのかもしれない。

「なにやってんだ、まもるの奴……」

 邪魔をされたとでも思ったのか、わずかに不機嫌そうな調子でそう言って、漣里くんは頭を上げた。

 私の肩から重みが消失する。

「守?」

「相川の名前」

 私の全身、頭のてっぺんから足の爪先までを、落雷にも似た激しい衝撃が貫いた。

「守が名前で呼んでいいかって聞いてきたから、別にいいよって……なに、その顔」

 口をあんぐりと開けている私を見て、漣里くんは怪訝そうな顔。

 名前で呼び合える友達ができたんだ……!!

 夕陽の差す屋上で、独り寂しく読書していた在りし日の物悲しい光景が脳裏をよぎる。

 あまりにも嬉しくて泣きそうになり、私は強く目頭を押さえてから、改めて彼に顔を向けた。

「良かったね」

 おとついの、昼下がりの午後の光景を思い出す。

 優しい風が吹く渡り廊下を、漣里くんは相川くんたち友達と歩いていた。

 移動教室の途中だったんだろう、漣里くんたちは化学の教科書を持っていた。

 友達と話す漣里くんの口元には微笑があった。

 笑うことはあまりない、って言ってたのに。

 確かに、漣里くんは友達と笑っていた。

 胸がいっぱいになって、その光景をただ黙って見ていると、漣里くんは二階から見ていた私に気づいて薄く笑い、片手をあげた。

 私は微笑みながら手を振った。

 ねえ、漣里くん。

 友達と笑ってた漣里くんの姿が、私に手をあげて合図してくれたことが――その全てかどんなに、どんなに嬉しかったか、知らないでしょう?

 ――私は漣里くんと誰かが仲良くしてる姿、見たいな。誰かと笑ってる漣里くんを見てみたい。

 私の願いを、叶えてくれたんだね。

「もう独りじゃないんだね」

 涙を滲ませながら、万感の思いで微笑む。

「わ」

 漣里くんは急に私の肩に手をかけて引き寄せ、横から抱きしめてきた。

 相川くんたちが窓を開け放ったらしく、冷やかしの声が降ってくる。

 彼ら以外の複数の視線も感じた。

 大勢の生徒たちを巻き込んだおかげで、私たちは学校で一番有名なカップルとなり、いまのように注目の的になることも多々あった。

 あのあの、公衆の面前ですよ漣里くん!?

「あいつらほんと邪魔だな」

 私に密着したまま、漣里くんが不機嫌そうに言う。

 いや、中庭で堂々と抱きしめる行為こそいかがなものでしょう、と、胸中で正論を唱えてみる。

 でも、口に出す余裕なんてあるわけもない。

 漣里くんの胸が私の肩に押しつけられ、吐息が耳を掠めた。

 ギャラリーに見せつけるようにますます腕に力を込め、指先で私の髪を梳き、さらに頭を撫でてくるものだから、私はどうすることもできず、石化。

「そうだ」

 と、思いついたように漣里くんは身体を離した。

「明日の土曜日、バイト? 家に来ない? 兄貴も真白にお礼したいって言ってるし、ご飯一緒にどう?」

「は、はい。では、そのように。バイトが終わるのが、夕方なので、直行して、伺わせて、いただきます」

 まだ抱きしめられた余韻が全身に残っている私は、かちこちになったまま、ぎくしゃくと頭を下げた。

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