第二章
22:不穏から始まる新学期
響さんが通う大学は9月下旬まで夏休みだそうだ。
高校もそれくらい夏休みが長かったらいいのに。
そんなことを思いながら、私は久しぶりの通学路を歩いていた。
今日も暑い。
9月に入ったとはいえ、太陽はまだやる気を見せている。
予報では今日も三十度に達してしまうらしい。地球温暖化現象はなかなか深刻な問題のようだ。
駅からの合流地点を過ぎると、視界の中に同じ制服を着た生徒の数が増えた。
時海高校の制服はセーラー服。
胸には臙脂色のリボン、スカートには白のラインが一本入っている。
対となる男子は学ランで、夏服は半袖のカッターシャツ。
通りを行くのは、私と同じように一人で歩いている生徒。友達を見つけて駆け寄り、和気藹々と話し始める生徒。歩きながら携帯を操作している生徒。ヘッドフォンで音楽を聴いている生徒。
色んな生徒がいる中――
「真白ー」
後ろから声をかけられ、私は足を止めて振り返った。
予想通りの人物の姿に、顔を綻ばせる。
「みーこ、久しぶり」
「うん、おひさー!」
高く結い上げたポニーテイルを揺らし、小走りに駆けてきたのは私の親友の
中学からの付き合いになる彼女は目鼻立ちが整った、かなりの美人さん。
女子にしては身長も高く、理想的なモデル体型をしている。
ただし胸は控えめで、それが悩みらしい。
「もう足は大丈夫なの?」
「うん、すっかり。この通り」
左足のつま先で地面を軽く叩いてみせる。
「そっか、それは何より」
みーこは明るく、にっと笑った。
「そっちは? 山田くんと海に行ったんだよね? どうだった?」
「それがねー、最低なのよあいつっ!」
みーこは手を持ち上げ、身体の脇で握り締めた。
硬く握り締められた拳はぷるぷる震えている。
その美しい
……あれ? おかしいな。
浜辺で水を掛け合ったり、夕陽をバックにキスとかそういうロマンチックなエピソードが聞けるかと思ったのに、みーこさんったら、般若のような形相になってしまいましたよ?
「隣にこーんな可愛い理想の彼女がいるっていうのに、あいつはGカップくらいのおねーさんの胸をガン見してんのよガン見!」
Gカップのおねーさん……
反射的に、もしかして名前はマリっていうんじゃ? と思ってしまったのは響さんのせいだ。
「しかも私が見てないと思って、美女に誘われてほいほいついていくし! 帰ってきたかと思えば私の胸を見てため息つきやがったのよ!? あんまり腹立つから堤防に誘い出して海に蹴り落としてやったわ」
「海に蹴り落と……って、大丈夫だったの? 山田くん」
「あれくらいで溺れるようなら水泳部を名乗る資格はないわよっ。ほんっとに信じらんないんだからあいつ。いま絶賛絶交中なの!」
「絶賛絶交中……?」
聞いたことのない言葉だ。
「あんな馬鹿のことなんてどうでもいいのよ。それよりあんたのことでしょ? 彼氏できたんでしょ、誰なの!?」
みーこは興奮気味にまくしたてた。
多くの女子の例に漏れず、さばさばした性格のみーこも人の恋話は大好きだ。
夏休みに電話で彼氏ができたことを報告すると、彼女は全力で食いついてきた。
詳しくは会ったら話すよ、と答えたから、気になって仕方なかったみたい。
追及する彼女の目はきらきらと輝いてすらいた。
「あ、うん、えーとね」
気迫に押され、両手で彼女をガードしつつ一歩下がる。
「名前は成瀬――」
その名前を答えようとした、そのときだった。
「深森さん」
透明な水のような、酷く美しい声が耳に届いた。
みーこと揃ってそちらを見れば、葵先輩が立っていた。
少し離れた場所、葵先輩の斜め後ろには漣里くんもいる。
漣里くんはじっと、無表情に私を見た。
視線が合ってもにこりともしないのは彼らしいというか、なんというか。
……あれ?
そこで私は、違和感を覚えた。
漣里くんに愛想がないのはいつものことだけど、今日は特別にその眼差しが冷たく感じる。
交流を拒絶するような瞳をしてる。
おかしいな、昨夜のLINEでは普通に話してたのに。
学校面倒だな、なんて愚痴ってたのに。
冷たいと感じるのは気のせい……だよね?
他の生徒の目を気にしてるとか、寝不足で不機嫌だとか、とにかく他の理由があるに決まってる……そう思いたい。
視線が合ったのはほんの一秒のことだけで、漣里くんはすぐに視線を逸らしてしまった。
「成瀬先輩……!?」
不意に現れた全校生徒の憧れの的、男性ながら高嶺の花とでもいうべき葵先輩に、みーこが氷みたいにかちんと硬直した。
顔が真っ赤に染まっている。
周りにいる生徒――主に女子――も似たような反応だった。
「おはよう」
「おはようございます、成瀬先輩」
葵先輩の、王子様のごとき優雅な微笑を受けて、私は軽く会釈した。
二人とも他の生徒たちと同じ夏服姿なのに、どうして彼らだけ特別な衣装を着て見えるんだろう。
「夏休みも終わっちゃったね。また今日からお互い、学校頑張ろうね」
「はい」
「じゃあ」
葵先輩は綺麗な微笑を残して立ち去った。
漣里くんも先輩と一緒に歩いていく。
……あ、漣里くんと挨拶できなかった。残念。
さっきの様子も気になるし、また後でメールしてみよう。
喧嘩とかしてないはずなんだけどな。
私、彼の機嫌を損ねるようなこと、何かしたっけ……?
「ちょいと、真白さん?」
「ひいっ!?」
妙に穏やかな口調とは裏腹に、がしっ!! とみーこに両肩を鷲掴みにされて、私の懸念は大気圏の彼方まで吹っ飛ばされた。
「どういうことなの? あんたの彼氏ってまさか……
葵先輩にしてみれば、知り合いの女子がいたから挨拶した――その程度のことだったんだろうけれども、この状況は誤解を招くには充分すぎた。
みーこはもちろん、周りの生徒たちの『あの女誰よ』的な視線も四方八方から容赦なく突き刺さってくる!!
「い、いや、みーこ、ちがっ」
「どういうことよ一体夏休みの間に何があったっていうのどんなミラクルが起きたっていうのそこんとこ詳しくきっちりはっきり説明なさい!!」
「だ、だからっ」
肩を激しく揺さぶられて、うまく発声できない。
みーこ、質問しておきながら完全に私の発言権を奪ってるよ!?
「ていうかあんたあの人を彼氏にする意味わかってる抜け駆け禁止っていう暗黙の協定を破るってことよ時海に通う約500人の女子を敵に回すってことよ新月の夜どころか日常茶飯事として命を狙われるってことよ道を歩けば植木鉢が降ってくるわよもしくは包丁ようんやっぱり死ぬわよあんた!!?」
「ああああだから違うんだってばっ!!!」
息つく暇もなく繰り広げられる弾丸トークと、しつこく激しい全身の揺さぶりに、とうとう私も怒った。
みーこの手首を掴み、力ずくで引き剥がして叫ぶ。
「違うんだってば、成瀬先輩は私の彼氏じゃないの!! 私の彼氏は――」
「深森先輩」
またも名前を呼ばれて、私は言葉と同時に呼吸を止めた。
声の主は、誰かなんて考えるまでもない。
たとえいつもとは違う他人行儀な呼び方だとしても、漣里くんの声を聞き間違えるなんてことはありえない。
「……漣里くん?」
葵先輩と一緒に歩いて行ったはずなのに、いつの間に引き返してきたのか、挑むような直線の眼差しで立つ、漣里くんが傍にいた。
みーこが息を呑む音がする。
彼女は一歩後ずさった。
遠巻きに見ていた生徒たちもみーこと同じような顔をしている。
……え。
私は一変した空気に、思わず身を竦ませた。
皆が葵先輩を見る目は尊敬と崇拝、それからたっぷりの愛に満ちていたのに。
漣里くんに向けられているのは戸惑いと、恐怖と、嫌悪。
漣里くんが学校で腫れ物扱いされていることくらい、知ってはいたはずだった。
でも、私の認識はまだまだ甘かったらしい。
だって、知らなかった。
こんな冷たい空気。
見知らぬ人たちから嫌悪と軽蔑の目で見られることが、どんなに痛いかなんて。
「…………」
怯んでしまいそうになったけれど、私はぐっと息を飲み込み、胸を張った。
努めて笑顔を作り、漣里くんに向かって言う。
「どうしたの?」
「ちょっと話があるから、来て」
私が同意するよりも早く、みーこが立ち塞がるように私の前に立った。まるで、私を守ろうとしているかのように――ううん、彼女は間違いなく、悪評の絶えない漣里くんから私を守ろうとしてくれていた。
「真白に何する気。話があるっていうならここで言いなさいよ」
みーこは鋭い眼差しで漣里くんを睨みつけた。
「あんたの悪評は聞いてるんだから。中学のときに自分をふった女子を階段から突き落としたんでしょ?」
「ちょっと、みーこ――!」
「
私の言葉に耳を貸さないみーこは――純粋なみーこの善意は――申し訳ないけれど、余計なことでしかない。
「待って! その噂は全部嘘、誤解だから! 私の彼氏は漣里くんなんだよ!!」
私はみーこの腕を掴み、強引にその台詞を止めた。
ああ、しまった。失敗した。
途方もなく大きな後悔が胸を焼く。
人生で初めての彼氏ができた。
それは私にとって特別な、大事な出来事。
だからこそ、親友のみーこには直接会って、出会ったときの顛末とか、漣里くんがどんなに優しい人なのかを話そうと思っていたのに。
こんなことになるならもったいぶってないで、全部話しておけば良かった。
この事態を招いたのは、私の責任だ。
「漣里くん、ごめんね。友達が酷いこと言っちゃって……でもあの、悪いのは私なの。先にちゃんと話しておけば良かったのに、ごめんね。本当にごめんなさい」
この期に及んでも何を考えているのか判然としない無表情の漣里くんに、私は謝ることしかできない。
「は? 彼氏って……え?」
みーこは面食らった顔をして、私と彼とを交互に見た。
これまで聞いた漣里くんの悪評と私の話、どちらを信じれば良いのかわからなくなったらしく、困惑の色が濃い。
「で、でもあんた、騙されてるんじゃ……」
「違う! 騙されてなんかないっ、私は私の意思で漣里くんを好きになったの!」
カッとなって、私はみーこを多分、仲良くなって初めて本気で睨みつけた。
「それ以上言ったら、いくらみーこでも怒るよ」
みーこが私のためを思って行動してくれたのはわかる。
それは嬉しいし、感謝もしたい。
でも、違う。
漣里くんを悪と捉えたその前提が間違っているから、もうこれ以上は何も言わないでいてほしかった。
「…………」
真摯に見つめていると、さすがにみーこも黙り込み、目を伏せた。
「いや、いいから。気にしてない」
横から取り成すようにそう言ったのは、話題の張本人である漣里くんだった。
「それより俺のために喧嘩するのは止めてくれ」
淡々とした口調で言って、私の手を掴む。
途端に、みーこが不安そうな顔をした。
口を開閉させてから、引き結ぶ。
そんなみーこを気にしたらしく、漣里くんが彼女に顔を向けた。
「……あんたが心配するようなことは何もしない」
彼はいつも通りの、無感情な声で言った。
「大事な奴だから」
みーこがその言葉を聞いて、目を見開いたのが、漣里くんに見えたかどうか。
漣里くんはそのまま私の手を引っ張って、人気の少ないわき道へと歩いて行った。
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