21:てのひらは君のため
月曜日の午前十一時過ぎ。
涼しい居間で英単語帳を眺めていると、襖が開いた。
「あれー、漣里は?」
寝起きの顔で居間に入ってくるなり、兄は首を傾げた。手には台所から持ってきたのだろう惣菜パンと一リットルの牛乳を持っている。
「真白ちゃんとデートだよ」
「ああ、そっか。ケーキバイキングに行くとか言ってたっけ」
兄は納得したように頷いて、座卓の前に座った。ビニール袋の包みを破り、パンを齧り始める。
牛乳は器用に空中キャッチして飲む。本人曰く、口をつけてないからいいじゃん、と言うのだが、見ていて微妙な気分になる。コップを使えといくら言っても聞かないのだ、この問題児は。
小さくため息をついて、窓の向こうの景色を見る。
今日の天気は晴れ。夏空に太陽が高く上っている。
外は暑いだろうな。今日も三十度を越えるって言ってたし。
「いいの?」
「何が」
外から兄へ視線を移す。
「お前も真白ちゃんのこと気に入ってたんじゃないの?」
「…………」
この兄は、時々妙に鋭いことを言う。へらへら笑っているくせに、観察眼だけは鋭い。
「いまどきあんな純真な子、珍しいよな。ついついちょっかいをかけたくなるというか」
「うん。一度漣里に本気で殴られたらいいよ」
頷いてみせる。漣里が兄のセクハラ行為に怒った場合、もう放っておこう。この兄には一度きついお灸を据えるべきだ。
「冗談はともかく、どうすんの。放っとくの?」
「弟の恋路を邪魔するような、無粋な兄にはなりたくないからね。温かく見守ることにするよ。受験もあるし、恋に現を抜かす余裕はないんだ」
英単語帳を軽く上げてみせる。
「かー、さっすが優等生。模範的な回答だ」
兄は大げさにかぶりを振って、さきほど自分がしていたように、外を見た。
「そういや、誰だっけ。恋は熱病のようなものだ、とか言ってた人」
「スタンダール。フランスの小説家だよ」
即答する。
「そうそう、スタンダール。恋は一過性の病気みたいなもんだよな。あの二人も、意外と長続きしなかったりして」
「…………」
僕は唖然として固まった。
「何さ」
「いや。兄さんがそんな哲学的なことを言うなんて、信じられなくて。これは雨が降るかもしれない。漣里に傘を持っていくように言えばよかった」
「失礼な。俺もたまにはそういう格好良いっぽいこと言うんだよ」
兄は拗ねたような口調で言った。
「まあ、人によっては一過性の恋で終わることもあるんだろうけど――」
晴れた青空を見て、笑う。
「死ぬまでずっと続く人だっているんじゃないの?」
◆ ◆ ◆
「ケーキバイキング、楽しみだねぇ」
良く晴れた空の下、私は漣里くんと手を繋いで繁華街を歩いていた。
捻った左足首の痛みは引くまで一日かかり、お盆休み最後のアミューズメントパークのバイトには行けず、みーこのお姉さんを始め、スタッフさんたちには本当に迷惑をかけてしまった。みーこのお姉さんは気にするなって言ってくれたけども。
明日からはコンビニの夕勤が始まる。
英気を養うためにも、今日はめいっぱい楽しもう。
「目標は八個かな」
「十個だろ」
「言うのは簡単だけど、きついよ?」
「小さいカットケーキならいける」
さすが甘党。断言した。目が本気だ。
「どんなケーキが好き?」
「一番はレアチーズかな……。モンブランも好きだし……いやタルトも捨てがたい……」
漣里くんは真剣な表情で悩んでいる。
「うん、ごめん、全部だね」
聞いた私が馬鹿でした。
「いや、アップルパイは苦手。リンゴは好きなんだけど、焼いて柔らかくなった触感と味が無理」
「あ、そうなんだ」
甘いものならなんでもいけるかと思っていたけど、苦手なものもあるんだね。
まだ夏休みの途中だから、平日でも繁華街は学生で溢れている。
パン屋さんの前を通ると、香ばしい香りがした。
「あれ、あの人……」
後ろから声が聞こえた。振り返ると、少し怯えた顔の女子二人組がいた。彼女たちの視線の先にいるのは漣里くんだ。
不良だと誤解している人たちなんだろう。漣里くんの同級生かな。
残念ながら、彼女たちのような子はとても多い。
「知ってる子?」
「いや。知らない。同じ学年の奴だとは思うけど」
漣里くんは彼女たちに遠慮してか、手を離そうとしたけど、私はその手を離さなかった。逆に手を強く握り返し、見せつけるように漣里くんを抱きしめ、顔を寄せる。漣里くんが硬直するのも構わずに。
――何か文句でも?
視線だけで尋ねると、彼女たちは「い、行こう」と立ち去った。
「……どうも、学校始まってからは誤解と偏見との戦いになりそうだね……って、漣里くん、大丈夫?」
漣里くんは不意打ちに弱いらしく、顔を赤くしていた。目が困ったように泳いでいる。
そんなに照れられると、私まで照れてしまう。
ちょ、ちょっと大胆だったかな?
「い、行こうか!」
私はぱたぱたと熱くなった頬を片手で扇ぎつつ、漣里くんの手を引いて歩き出した。
ややあって、平静を取り戻したらしい漣里くんが尋ねてきた。
「挫けそう?」
「まさか」
かぶりを振る。
「知らないの? 障害があったほうが恋は燃え上がるものなんだよ」
悪戯っぽく笑うと、漣里くんは軽く目を見開いて、笑った。
「なるほど。確かに」
「でしょう?」
私は微笑んで、再び歩き出す。目的地であるケーキ屋さんに向かって。
そう、私はしぶといのだ。
何があろうと、この手は離さない。
「ケーキバイキングを制覇したら、次は抹茶パフェのお店に行くのはどう? 京都のお店がここにもできたんだって」
「ああ、行こう」
私たちは未来の話をしながら歩く。
手を握ったら、漣里くんは握り返してくれる。
手のひらから伝わる温もりが、堪らなく愛しかった。
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