14:どうか、笑って

「うー……」

 漣里くんと出かけた二日後、バイトが終わった夕方六時半。

 私はベッドにうつ伏せに横たわり、唸っていた。

 学校があるときは夕方の五時から働いているけど、急に日勤の子が辞めてしまったため、夏休み中はオーナーに頼まれるまま、臨機応変に朝から働くときもあれば、昼からのときもあった。

 お盆が明けたら再び夕勤に戻る予定だから、とりあえず今日が日勤最後の日、だったんだけど。

 今日は横柄なお客さんが多くて、物凄く疲れた。

 舌打ちしながら小銭をカウンターにばらまくお客さん、袋が必要かどうか聞いただけで怒鳴るお客さん、レジが混雑しているにも関わらず割り込んできた挙句、偉そうな命令口調で道を尋ねてくるお客さん……。

 思い出すだけで気分が沈む。

 どうも最近、お客様は神様で、何をしても許されると勘違いしてる人が多い気がする。

 もちろん、良い人もいるんだけど。

 常連のお客さんは、何も言わずとも煙草を用意したら「よくできました」って褒めてくれたけど。

 そういうプラスの記憶よりも、今日はマイナスの記憶の方が断然多い。

 昨日は葵先輩がアイスコーヒーを買いに来てくれて、ほんの数分のことながらも楽しいひと時を過ごすことができたのにな。

 接客業は大変だなぁ……。

 明日から四日間はコンビニのバイトはお休みで、みーこのお姉さんとアミューズメントパークでのバイトだ。

 うまくやっていけるかな。

 できれば、横暴なお客さんと遭遇しませんように……それが無理なら、せめて出会う回数を減らしてください……。

 枕に顔を埋めていると、携帯が鳴った。

 ごろんと身体を転がして、仰向けの姿勢になり、携帯を掴む。

 両手に持った携帯の画面を見上げる。

 電話をかけてきた相手は『成瀬響』と表示されていた。

 響さんか。なんだろう。

「もしもし、真白ですが」

「真白ちゃーん。ちょっと助けてくんない?」

 響さんは苦笑交じりの声でそう言った。

「え? どうしたんですか?」

「漣里が凹んでるんだよね。上様が今朝、お亡くなりになられてさ」

 その悲報を聞いて、胸を占めていたバイト先での憂鬱や、明日から始まるバイトへの不安が全て霧散した。

 私は上体を起こし、背中を壁に預けた。

「……そうなんですか……」

 なんと返せばいいのかわからず、相槌だけ打つ。

 そうか。亡くなったんだ、上様……。

 寿命だとはわかっていても、手のひらの温もりと柔らかい感触を思い出して、悲しくなった。

「漣里の奴、夕方から縁側に座ってぼーっと空見てるんだよね。背中から哀愁漂いまくりで見てらんないんだ」

 そ、それは、聞くだけで物悲しくなる光景だ。

 漣里くんが上様たちにかけていた愛情は、私も知っている。この目で見た。

 愛するペットを失って悲しまない人なんていない。

 漣里くんの心境を想像すると、胸が苦しくなった。

「真白ちゃんならどうにかできるんじゃないかなぁ」

「え、そんな、私は……」

 私になにができるんだろう。

 どんな言葉をかけたって、ペットを失った事実は変えられないし、漣里くんの悲しみは消えない。

 それでも。

 傍にいることくらいなら……

 私はきゅっと唇を噛んでから、口を開いた。

「……響さん、いま漣里くんは家にいるんですよね?」

「うん。そりゃもちろんいるよ。ついでに葵も」

「少しだけご自宅にお邪魔しても良いですか?」

 響さんの答えは「もちろん。大歓迎」だった。



 自宅にお邪魔したとき、漣里くんはちょうど外にいた。

 庭の片隅に屈み込んで、ある一点を見ている。

 彼の視線の先には墓石に見立てたらしい丸い石が置いてあった。

 言われなくともわかる。あれが上様のお墓なのだろう。

「漣里くん」

 声をかけると、漣里くんは緩慢な動作で私を振り返った。

 表情はない。

 いつものことだけど、今日はその無表情から悲しみを感じ取った。

 彼の頭上に広がる空は曇天で、星一つ見えない。

 漣里くんの心境をそのまま表しているかのよう。

「……上様、亡くなっちゃったんだってね」

「ああ」

 棒読みの相槌が、とても悲しい。

「……私もお墓参りさせてもらってもいい?」

「どうぞ」

 と、漣里くんは横に移動して、私に場所を譲ってくれた。

 二人肩を並べて、上様のお墓に屈み込む。

 漣里くんの肩が私の肩にわずかに触れる、そんな距離。

 簡素な上様のお墓を見て、再び漣里くんの横顔を見る。

 悲しみに暮れて、沈みきった、無表情。

「……上様」

 私は再び上様のお墓に向き直り、両手を合わせて目を閉じた。

「とても短い間でしたがお世話になりました。あなたの極上の手触り、忘れません。ふわもこでとっても気持ちよかったです。触らせてくれてありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げ、それから顔を上げる。

「漣里くんと離れるのはとても悲しいと思います。心残りだと思います。でも、安心してください。私が上様の分まで漣里くんを幸せにします……とは言い切れませんが、努力します」

「……ちょっと待て。なんだそれ」

 隣から突っ込まれて、そちらを向く。

 漣里くんは呆れたような、怪訝そうな、複雑な顔をしている。

「だって、私が上様だったら、自分がいなくなって落ち込んでる漣里くんを心配すると思うの。漣里くんが好きだった分だけ、上様も漣里くんのことを好きだったと思う」

「……そんなこと、わかるわけない」

「わかるよ」

 目を逸らしてしまった漣里くんに、私は訴えた。

「私が上様を手のひらに載せたとき、上様は落ち着かなくて、動き回ってた。でも、漣里くんが手のひらに載せたときは、安心したようにそこにうずくまってたじゃない。頬を触ったら、幸せそうに目を細めてたよ?」

 私は知ってる。

 ほんのちょっとの時間だったけど、ちゃんと見てたよ。 

 知ってるよ。漣里くんが上様のことが大好きだったこと。大切にしてたこと。

 けれど、漣里くんは落ち込んだ顔のまま、視線を上様のお墓に固定している。

 悲しみに閉ざされた心を開くには、もう一押しが必要なようだ。

「ちょっと失礼」

 私はそう前置きして、漣里くんの右手を取った。

 驚いたように漣里くんが私を見る。

「漣里くん。突然だけど、手のひらのことを『たなごころ』っていうのは知ってる? たなごころは『手の心』っていう意味があるの」

「……は?」

 漣里くんは、わけがわからない、という顔をした。

「握れば拳、開けば掌、なんてことわざもあるけど、手のひらを閉じるか開くかは相手に対する気持ちによって変わるんだよ。漣里くんがいじめられていた人を助けるために振るったように、敵意を持って誰かを殴る武器になることもあれば、誰かに愛を伝えることだってできる」

 私は微笑んで、漣里くんの手に自分の手を重ねた。

 大きくて、骨ばっている、男の子の手。

「子どもが頭を撫でられたら喜ぶのは、その感触が優しくて、愛情が伝わるからだと思うの。言葉なんてなくても、手のひらには相手の心に直接訴える力がある。恋人同士が手を繋ぐのは、相手のことが大好きだから、少しでもその心を伝えたいからでしょう?」

 私は漣里くんの手を握って、その手を見下ろした。

「漣里くんの愛情は、手のひらを通じて、きっと上様にも伝わってたよ。だからきっと、上様も漣里くんのことが好きだったよ。上様のリラックスした表情は、誰よりも漣里くんが知ってるんじゃないかな。手のひらの上で眠ることだってあったんでしょう? 安心しきってないと、動物が人の手の上で眠ることなんてない。その事実こそ、上様が漣里くんを好きだった証拠だよ」

「…………」

 漣里くんは無言。

「漣里くんがずっと悲しい顔してたら、上様は心配しちゃうよ。だから、私は上様の分まで漣里くんを幸せにできるように頑張りたい。そうしたら安心して天国に行けるでしょう?」

 微笑む。

「っていっても、私じゃ力不足だとは思うけど……」

 頬を掻くと、漣里くんはなんともいえない表情をしてから、再びお墓に向き直った。

 私も手を下ろす。

「……上様は俺に飼われて幸せだったかな」

 漣里くんが呟いた。夜に溶けるような、小さな声だった。

「当たり前だよ。漣里くんほど愛情をかけてる人、私は知らない。上様は幸せだったよ。それは断言できる」

「……そっか」

 漣里くんはそれから少しの間、沈黙して。

 こつん、と。

 私の肩の上に自分の頭を傾け、乗せた。

 えっ。

 全神経が私の肩に集中する。

 彼の頭の重みと、感触が、私の鼓動を加速させた。

 彼の柔らかい髪が、私の頬に触れる。

「……え、え、えっと」

 予想だにしなかった彼の行動に、私はパニックに陥った。

「ちょっとだけそのままでいて」

 甘えるような声は反則だった。頭にかあっと血が上る。

「幸せにしてくれるんだろ」

 彼は私を上目遣いに見て、微かに笑った。

 こ、こ、これは……わ、私は一体どうしたら。

「あう……」

 何も言えない。気の利いた言葉も思い浮かばない。

 私は肩の重みと心臓の鼓動をどうすることもできないまま、顔を火照らせて硬直したのだった。

 ――まさかその様子を、カーテンの隙間から響さんが覗いているとも知らずに。

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