13:素敵な思い出?
一時間ほどウィンドウショッピングをした後、私たちはデパートに入っているコーヒーのチェーン店でコーヒーを飲んでいた。
正しくは、私はアイスコーヒーで、漣里くんは抹茶のフラッペ。
若者が多い店内で、漣里くんはそれなりに注目されていた。
隣の席の四人組のグループがさっきからちらちら彼を見て、何か囁き合っている。
行く先々で彼は女の子の視線を集めている。
三兄弟が皆で行動するときは、女の子が群がるんじゃないだろうか。
漣里くんは携帯でゲームをしていた。ちょうど一日に何回か開催されるゲリラダンジョンの時間らしい。
彼は「やってもいい?」とわざわざ断りを入れてきた。
もちろん私は快諾した。
難しい局面なのか、彼が動きを止めて何か悩んでいる間、私はその長い指先を見ていた。
左手の人差し指にもう絆創膏はなく、傷跡がそのまま晒されている。
「それって、なんていうゲーム?」
私はなるべく邪魔しないように、控えめな声で尋ねた。
「『姫と魔法のクロニクル』」
彼が挙げたのは流行のRPGのタイトル。
パートナーでもありサポーターでもある姫と一緒に主人公が旅をしていき、様々なトラブルを解決しつつ、魔王討伐を目指す王道ものだ。
「ああ、最近CMしてるよね。面白い?」
「それなりに。ただ、たまに画面がカクついて動かなくなる。敵に囲まれて何もできずに終わったときは腹が立つな」
会話しながら、漣里くんは指を動かしている。
「なるほど。ちなみにランクは?」
「182」
「……凄いね」
結構な高ランクだと思う。
「そうでもない。サービス開始当時からやってるから、こんなもの」
漣里くんは携帯の操作を止めて、ポケットの中に入れた。
もう大丈夫と判断し、話しかける。
「手、だいぶ治ってきてるね」
「ああ。おまじないが利いたんだと思う」
漣里くんは傷跡を見て言った。
「あはは。だといいけど」
私は笑って、ストローに口をつけた。氷がガラスコップにぶつかって、涼しげな音を立てる。
「……おまじないといえば、俺の母さんも夜にやってくれたな」
漣里くんは俯き加減に、懐かしむような、遠い目をした。
「寝付けない夜とか、怖い夢を見たときは、決まっておまじないをしてくれた。目を閉じてって言って、俺が言われるままそうすると、額にそっと触れてバニラみたいな甘い匂いがする香水をつけてくれるんだ。そうすると不思議とよく眠れた。母さんの記憶は色々覚えてるけど、夜眠る前の、あの時間が一番印象に残ってる。普段は香水とかつけない人だったのに、俺のためにわざわざ買ってくれたんだろうなって思うと嬉しかった」
漣里くんの口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
「…………」
幼稚園生の頃の漣里くんの思い出のエピソードに、私は何も言えなかった。
私はお母さんがいるのが当たり前だけど、漣里くんは小学生にあがったときにはもう、いなかったんだよね……。
家族というのはとても複雑なコミュニティだ。
上辺だけしか知らない他人がおいそれと踏み込んでいい領域じゃない。
私に何か言う権利なんて、あるわけがない。
でも――だから。
「……いまはちゃんと眠れてる?」
心配くらいは、許されてもいいと思う。
プライベートな話を打ち明けてくれたことを感謝しながら、お母さんがいなくなった後も、響さんや葵先輩や、お父さんがその欠落を埋めてくれていたことを祈って。これまでも、これからも、漣里くんが幸せであることを祈って。
「…………」
漣里くんは意外そうに軽く目を見張って、またすぐに無表情に戻った。
「夜遅くまで携帯でゲームしてるせいで、目が冴えて眠れないことはよくあるけど。いまは特に、学校がないから昼夜逆転状態になってる。昨日も寝たの朝四時だし」
「四時!? う、うーん。それはだいぶ生活リズムが乱れてるね……学校が始まったときに大変だから、いまのうちに少しずつ改善したほうがいいよ? 携帯も、せめて寝る一時間前くらいには止めたほうがいいかも。私もたまにやるけど」
「じゃあ、人のこと言えないんじゃないか」
「……仰る通りで」
私は苦笑いするしかない。
すると、漣里くんが少しだけ笑った。
――あ、また笑った。
出会ったばかりの頃はほぼ無表情だったのに、最近は少しずつ感情が表に出てきているような気がする。
ほんの少しでも、心を開いてくれているのかな。
だとしたら、とっても、嬉しい。
漣里くんはフラッペを取り上げ、目を伏せて飲み始めた。
既にその表情から笑顔は消えていたけれど、もう私は彼の無表情を見ても怖いとは思わない。
これが余計な力の入らない、彼のごく自然な表情なんだって、知ってるから。
「ところで漣里くん、来週の月曜日は暇?」
「ああ」
「じゃあ、今度はケーキバイキングに行かない? 千五百円で食べ放題の素敵なお店を知ってるんだけど」
「行く」
漣里くんはすぐさま頷いた。
……本当に甘いもの、大好きなんだなぁ。
月曜日にケーキバイキングが待っていると思ったら、私もお盆のバイトは頑張れそうだ。
家に帰って食事を終え、私はのんびりとテレビを見ていた。
帰宅してすぐにシャワーを浴びたので、今日の予定はもうない。
食器も片付けたし、洗濯物も干したし、あとは気の向いたときに眠るだけという、至福の時間。
ベッドの側面に背中を預け、バラエティ番組を見て笑っていると。
携帯の着信音が鳴り響いた。このメロディはメールではなく、電話だ。
手元の携帯を拾って画面を見る。『成瀬響』の文字。
えっ、響さんから?
「もしもし、真白です」
「はろー真白ちゃん。今日のデート楽しかった?」
響さんの声にはからかうような調子が含まれていた。
いや、彼はいつだって楽しそうなお調子者だ。暗い顔をしてるところなんて見たことがない。付き合いが浅いから、知らないだけなのかもしれないけど。
「デートじゃないですよ」
「でも、友達認定されたんでしょ? いやー、兄として嬉しいよ。漣里マジ友達いねえもん。中学のときの数少ない友達もさ、六月に機種変更して、アドレス変更の連絡メール送ったら、あて先不明で戻ってきたらしいぜ。まだ中学卒業して三ヶ月しか経ってないっていうのにな」
「え……そ、それは、悲しいですね」
私だったら、送ったメールが跳ね返ってきたら落ち込む。
漣里くんだってきっとそうだ。彼は一見すると無愛想だけど、決して感情がないわけじゃない。
むしろ人一倍優しい人だと、関わるようになって知った。
「うん。だから友達増えたーって上機嫌な漣里見てるとなんか和むわ。真白ちゃんと知り合ってから、あいつ雰囲気変わったよ。無愛想なのは相変わらずだけど、ちょっと丸くなったというか。あの性格だから落とすまで大変だと思うけど、デレたらすげえから楽しみにしてて。保証する!」
「なんの話ですか……」
苦笑する。どうも響さんは私たちの関係を誤解しているようだ。
友達だって言われたばっかりなのにな。
大体、私と漣里くんが……なんて、ありえないでしょう。
私は彼に迷惑を掛けっぱなしだし。
友達だと認めてくれてるだけでも十分なのに、彼女だなんて贅沢すぎる……うん、ないない!
「あ、そうだ。響さんにお尋ねしたいことがあるんですけど」
「なに? デートのお誘い?」
「違います」
即座に否定する。どうして響さんは何もかもそっち方向に持って行こうとするのだろう。
「漣里くんの……あ、えっと、響さんたちのお母さんが持っておられた、バニラの匂いがする香水を知りませんか? 幼い頃、眠る前におまじないとしてつけてくれたという話を聞いて、気になってて。漣里くんには本当にお世話になっているので、同じものを内緒でプレゼントできたらなと――」
「あはははははっ!」
何故か、返ってきたのは盛大な笑い声だった。ばんばんと何かを叩く音がする。
「そりゃ香水じゃねえよ、ただのバニラエッセンスだよ」
「え?」
私は呆気に取られた。
バニラエッセンス。甘い香り付けとしてお菓子に使われるものだ。
バニラエッセンスが入った茶色い小瓶は、私のアパートにもある。
お母さんが小さい頃によくお菓子を作ってくれた影響で、私もお菓子作りは得意だ。クッキーはたまに友達に振舞ったりもするし、親友の誕生日には皆でケーキを作った。アパートにあるバニラエッセンスはそのときに買った。
唖然としている私に、響さんは笑いながら言った。
「そっかー、漣里は小さかったから美化して覚えてんだな。うちの母親、匂いに敏感な人で、香水も大嫌いだったんだよ。香水なんて一本も持ってなかった。夜にやってたおまじないはそれらしいこと言いながらバニラエッセンスを額に塗ってただけ。俺、バニラエッセンスが入った小瓶もって歩いてる母親の姿、何回か見てるもん」
「そ、そうなんですか……」
どうしよう。こんなネタばらしをされたら、漣里くんの抱いている綺麗な思い出が崩壊してしまう。自分のために香水を買ってくれたとまで思い込んでたし。
漣里くんの微笑が脳裏に蘇る。
実際はただのバニラエッセンスでした、なんて、ショックだよね。
「……響さん、この話は聞かなかったことにしてください」
私は真剣な口調で言った。
「それはいいけどさ、どうすんの? プレゼントするの? バニラエッセンスを? リボン巻いて?」
「違います。バニラの匂いがする香水をプレゼントします。もうネットで見つけてあるので」
帰ってすぐに、私はある香水のページをブックマークしていた。
ネットの評価だけだと不安なので、また今度その香水を探してみるつもりだ。
そして、その香水が本当にバニラエッセンスと同じ香りなら、購入して漣里くんにプレゼントしよう。
彼は私のおまじないを喜んで、笑ってくれたから。
同じように、悪夢を見たときや、眠れないときに、その香水が気休めにでもなれば嬉しい。
「了解。漣里の夢が壊れるもんなー」
響さんがけらけらと笑う。
「他にもなんか言ってた?」
「そうですね。響さんが素敵なお兄さんだといってましたよ」
「え、マジで? そこんとこ詳しく」
食いついてきた響さんに、私は笑って授業参観のときのエピソードを聞いたことを明かした。
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