11:パンケーキに負けました
電車から降りて、駅から歩いて十分のところにあるのが、主に若い女性に大人気のお店、ストロベリーケーキ。
幸いにも今日は待ち時間なくお店に入ることができた。
「いらっしゃいませ」
外の熱気に比べれば楽園のように涼しい店内で、店員さんはにこやかに私たちを招き入れてくれた。
音楽が流れているお店の内装は白をベースにしていて、入り口やカウンターには観葉植物が飾られている。
天井には凝ったデザインの照明が吊り下げられ、壁には絵画がいくつか掛けられている。
こういうお店に入るのは初めてなのか、漣里くんは物珍しそうな顔でお洒落な店内を見ていた。
このお店は内装も素敵だけど、働く店員さんも親切で気が利いている。食事中、飲み物が少なくなったらすぐに見つけてくれるのだ。
ちなみに、このお店で密かに素晴らしいのがトイレ。とても広くて使いやすい上に、爽やかなフルーツの芳香がするんだよね。トイレって意外と重要なポイントだと思う。
店内のほとんどは女性が占めていた。その他にも、家族連れやカップルもいる。
私たちが案内されたのは、壁際の二人用の席。壁際の席はソファで、向かいの席は木製の椅子が用意されている。
「ソファとどっちがいい?」
「どっちでも……」
言いかけて、はたと止まる。
この答えが一番困るよね!
「ソファで!」
「そう」
すぐに訂正すると、漣里くんは椅子を引いて座った。
私も鞄を隣に置いて、向かいのソファに座る。
「何にしようか」
テーブルに置かれているメニュー表を二人で見て、悩む。
ワッフルもいいな。それともケーキにしようかな……。
「あれが標準?」
尋ねられて、なんのことかと顔を上げる。
漣里くんが見ているのは、隣の席だった。
私たちの隣は大学生らしきカップルが座っていて、二人が仲良く分けて食べているのはパンケーキだった。
標準、というのは、ケーキに載っているホイップクリームの量のことなのだろう。ここのパンケーキはちょっとびっくりするくらい、クリームが多い。標準でもメガ盛りだ。
「うん。あの赤い服の女性が食べてるのがダブルクリーム」
私は斜め前の席に座っている女性を視線で示した。彼女の前には山のようにクリームが載ったケーキがある。
「凄いな」
漣里くんの声は、心なしか弾んで聞こえる。
本当にこのお店に来るのを楽しみにしていたみたいだ。
「うん。でも、ダブルは止めたほうがいいと思う。私も甘いものは好きなほうなんだけど、標準でもギブアップしたもの。最初はホイップクリームが白い天使に思えるけど、だんだん悪魔に変わっていくよ」
私は経験者として忠告した。
「なら標準にしよう。俺はミックスフルーツパンケーキにする。あんたは?」
メニューから目線をあげて、漣里くん。
「私はシナモンロールにする。これもおいしいって書いてあったから」
私はボタンを押して、店員を呼んだ。やってきたポニーテールのウェイトレスにそれぞれ注文して、水を飲む。
「そういえば、ここのお店は食事の途中で店員さんがやってきて『お味のほうはどうですか?』って聞いてくるよ。アメリカに本店があるからかもしれないね」
「?」
怪訝そうな顔をしている漣里くんに、私は説明した。
「アメリカのレストランでは、食事中に『Is everything okay?』ってウェイターさんやウェイトレスさんが尋ねてくるんだって、お母さんが言ってた。私のお母さん、一年間アメリカに留学したことがあって、いまでも英語は結構喋れるんだ。娘の私は全然だけど……」
私は漣里くんの無表情の前に、笑顔を凍りつかせた。
しまった。漣里くんのご両親は離婚されてるんだった。
お母さんの話題はしないようにしようと思ってたのに、普通に喋ってしまった……!
さーっと顔面から血の気が引いていく。
どうしよう、どうしよう。
漣里くん、気を悪くしたかな。
無神経な子だって思われたかもしれない。
私は漣里くんの前でどれだけ墓穴を掘れば気が済むの?
「……あ、あの、ごめんなさい」
小さな声で謝罪し、俯く。
時間を巻き戻せたら自分を殴ってでも喋るのを止めさせただろう。
でも、もう遅い。言ってしまった言葉は取り消せない。
自分の馬鹿さ加減に嫌気が差し、沈黙するしかない私に、漣里くんは首を傾げた。
「何が?」
どうやら、無表情だったのは気を悪くしたわけではなく、それが素顔でしかなかったようだ。
それでも。
「……お母さんの話は聞きたくなかった、よね」
私は窺うように尋ねた。
「ああ。なんだ、そんなこと。気にしなくていいよ。もう小さな子どもじゃないんだし、他人の母親の話を聞いたからどうするってこともない。変に気を使われるほうが迷惑だ」
迷惑という言葉が、小さな棘になって胸に突き刺さった。
「そ、そっか。ごめん」
「謝らなくていい」
「……うん」
微妙な空気が流れる。
うう、気まずい。
「……からかわれたり、嫌な思いをしたことはあるけど、悪いことばかりだったってわけじゃない」
空気を重く感じたのか、水を飲んだ後、珍しく漣里くんが喋り始めた。
「両親が離婚したのは幼稚園を卒業したばかりの頃で、小学校に上がったときにはもう母親はいなくなってた。一番悲しい……というか、寂しかったのが一年生のときの授業参観」
漣里くんはコップを片手に持ったまま、浮かぶ氷を眺めて言う。
「父さんは根っからの仕事人間で、家族にあまり興味がない人だった。そういうところが嫌で母さんも出て行ったんだろうけど。とにかく、クラスメイトは誰が来るって浮かれてるのに、俺は誰も来ないのがわかりきってたから、憂鬱で仕方なかった。参観日当日になっても、やっぱり父さんは来なかった。でも」
そこで、漣里くんの表情が少しだけ動いた。
当時のことを思い出したのか、口の端がほんの微かに持ち上がる。
「代わりに、ひー兄が来たんだよな」
「…………え?」
漣里くんが小学一年生のとき、響さんは五年生。
同じ学校に通う生徒のはずだ。
どう考えても、弟の授業参観に行けるはずないよね?
授業だってあるんだし。
「……でも、響さんってそのとき五年生だよね?」
「ああ。それなのに、あいつは授業中の扉を堂々と開け放って、物凄い明るい声で『遅れてすみません、漣里の父兄です』って挨拶したんだ」
感情を大げさに表すことのない漣里くんの台詞だとわかりにくいけど、私の脳内では『遅れてすみませーん! 漣里の父兄でーっす!』と、明るい声で言い放つ響さんの姿がありありと思い浮かんだ。
幼すぎる父兄の登場に、その場にいた全員が呆気に取られたに違いない。
いくら弟の授業参観に誰も来ないからといって、普通、同じ学校に通うお兄さんが授業をさぼって見に来るものだろうか。いや、来るわけがない。常識的にはありえない。
でも、響さんはそれをやった。
常識を鼻歌混じりに蹴飛ばして、その場にいる誰の目も、自分の立場すら気にせずに。
堂々と胸を張って登場したんだ。
ただ、弟のためだけに。
弟に寂しい思いをさせないために――
「ありえないだろ。昔からやることなすこと滅茶苦茶なんだ」
漣里くんの声には呆れたような、苦笑するような響きがあった。
「その後はもちろん大騒ぎで、騒ぎを聞きつけてやってきた他の先生に首根っこ掴まれて、自分のクラスに強制送還。でもあいつ全然応えてなくて、引っ張られながら笑顔で手を振ってきた」
「あはははは」
先生に引きずられながらも、懲りずに笑顔で手を振る響さんの姿が目に浮かぶようだ。
「後で担任の先生にも怒られたらしいよ。家では小兄にも怒られた、というか、呆れられてた。――馬鹿な兄だろ?」
漣里くんが私を見る。
口調とは裏腹に、その眼差しはどこか楽しそうで、誇らしげに見えた。
「……うん。素敵なお兄さんだね」
私は微笑んだ。
一人っ子の私にはとても羨ましいエピソードだ。
一人っ子の特権は色々あるけど、でも、やっぱり兄弟って憧れる。
「女好きなのはどうにかしてほしいけど」
「ふふ。携帯のメモリの9割は女の子なんだってね。セクハラはどうかとは思うけど、でも、あの社交性は見習いたいかも」
「お待たせしました」
ちょうどそこで、注文していたパンケーキとシナモンロールが届いた。
私が注文したシナモンロールは丸いお皿に載っていて、他のお店で提供されるものと見た目に大きな違いはない。
けれど、パンケーキは衝撃的。
漣里くんの前に置かれた正方形のお皿には、四枚のパンケーキと、フルーツとホイップクリームがこれでもかと盛られている。
店員さんは四つのシロップを持ってきた。二種類のメープルシロップと、ストロベリーとブルーベリーのシロップ。
「……確かにこれは凄いボリュームだな」
店員さんが立ち去った後で、漣里くんが呟いた。
「迫力あるよねー。あ、シナモンロールも味見してみない? このお店はシナモンロールも絶品なんだって」
「……食べる」
「うん」
私は笑顔でシナモンロールを切り分け、テーブルの端に置いてあった取り皿に載せた。フォークを添えて漣里くんに差し出す。
漣里くんは一口食べて「おいしい」と頷いた。
「そっか、良かった」
「…………」
漣里くんはじっと私を見つめた。
「どうかしたの?」
「あんたは俺が喜ぶと笑うな」
「? それって普通のことじゃないの?」
私は首を傾げた。
誰かが喜んでいるのを見ると、嬉しくなって自然に笑顔が浮かぶものじゃないんだろうか。
好意を抱いている相手ならなおさら――あ、いや、特別な『好き』という意味じゃなくて、あくまで友人として、ね。
「俺のも食べる?」
お返しのつもりか、漣里くんはパンケーキのお皿を私に向かってちょっと押し出した。
「ううん、いいよ。食べたことあるから、お気持ちだけで十分」
「そうか」
漣里くんは再び皿を手元に寄せてから、シロップを見た。
どれにしようか迷った様子の後で、彼は色が濃いほうのメープルシロップを手に取ってクリームにかけた。
ナイフとフォークを使ってパンケーキを切り、クリームをつけて一口。
「………………」
無表情なので、どうにも感想がわかりにくい。
「どう?」
尋ねてみると、彼は顔を綻ばせた。
「おいしい」
はっきりとわかる笑顔に、私は打ち負かされたような気分になった。
彼が浮かべているのは、手当てしたときよりも良い笑顔だ。
パ、パンケーキに負けた……。
そりゃあ、ここのお店のパンケーキはおいしいけど。
おいしいけど! わかるけど!!
「どうかした?」
がっくりと肩を落とし、涙を流している私を見て、漣里くんが怪訝そうな顔をした。さっきの笑顔は綺麗さっぱり消滅している。
「……なんでもないです……」
……なんだか悔しい。
私は漣里くんにとって、パンケーキ以下の存在なのかな?
ううん、この悔しさをばねに頑張ろう……!
妙な決意を燃やしつつ、私はシナモンロールを口に運んだ。
それからしばらくして、ウェイトレスさんがやってきた。片手にはウォーターポットを持っている。
「お味のほうはいかがですか?」
ウェイトレスさんは気さくな笑顔で尋ねてきた。
「とってもおいしいです」
「同意見です」
「そうですか。それは良かったです。お水のお代わりはいかがでしょうか?」
「あ、お願いします。漣里くんは?」
「いい」
私の水を注ぎ足した後、ウェイトレスさんは私たちを交互に見て、茶目っ気たっぷりに笑った。
「羨ましいですねぇ。夏休みにカップルでデートなんて」
「そんな……」
「カップルじゃないです。彼女はただの知り合いなので」
言いかけた私は、漣里くんの声に表情を凍りつかせた。
ただの知り合い。
彼ははっきりとそう言った。
「あ、そう……なんですか」
私はいまどんな表情をしているんだろう。
わからないけれど、ウェイトレスさんは私を見て、困ったような愛想笑いを浮かべた。
「それでは、何かありましたらお呼びください」
ウェイトレスさんはそそくさと退散していった。
漣里くんは視線を伏せて、再びパンケーキを食べ始めた。
私も同じように、シナモンロールを口に運ぶ。
「…………」
どうしてだろう。
さっきと変わらずにおいしいはずなのに、急速に味が失われてしまったような気がした。
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