種火


ある日のことだった、唐突に僕は生きている理由がわからなくなり始めた。

大した理由なはない、だいたいがそんなものなんじゃなかろうか。平穏や穏便は言葉を裏返せば無味や無臭と同じ所謂”空虚”を有したものとも捉えられるものだし、それに気づいていなかったわけではない。ただ少しだけ物思いにふけた時に気づいただけだった─僕の足がついていると思っているこの場所はただの空虚じゃないのか。

人が自分自身を変えるということはとてもむずかしいことだとよく言われる。それは自分自身のこれまでの経験や育ち、考えなどのバックボーンという価値観を全て覆す必要があるからだ。だけれどその全てが、今まで一生懸命瓶に貯めてきた水がふと光をすかした時に何もない空気だったことに気づいた時、その事実を長い間オアシスを夢見て旅をし続けた砂漠の旅人は受け入れられるだろうか。自分自身の作り出したオアシスのかけらを詰めたものは”空”だったと。




『嘘つきの受ける罰は、人が信じてくれないというだけのことではなく、ほかの誰をも信じられなくなる、ということである』

バナード・ショー





潮の香りのする山間の町。

それが最初に思った感覚だった、あれからしばらく走り続けた先に大きな橋を渡ったところにその町はひっそりと存在していた。

「お腹が空きません?もういい時間だし。」

「そうですね、ちょっとだけ…」

「ごはんー!」

車の中に暖かな言葉が飛び交う、どれもこれもが久しくない感覚だった。

仕事以外の時にする会話なんてものはここ何年間かもうしばらくしていない気がする、ちょっとした連休には自分が喋れるのかすら不安になり「あー」とか「うー」とか無意味にいってみたりしていたものだ。

車が止まったのは小さな木造りの店の前だった、車から降りてみるとローストされた珈琲豆の香ばしい匂いとちょっとだけなつかしい洋食屋のデミグラスソースの匂いがした。

「さ、どうぞー入って入って。」

「はいってはいってー!」

少し重いティンカーベルの彫刻をもされた木のドアを開ける、中は薄暗く昔の純喫茶を思わせる佇まいだった。

「素敵なお店ですね。」

「でしょう、ここ30年前からずうっとやってるのよ。」

奥からは白と黒が疎らに混ざった無精髭の店主らしき人がこちらを見つめていた。

「はじめましてかな?そちらの方は。」

ゆっくりと口を開いた彼はおそらく僕に問いかけたのだろう。

「そう、駅前で拾ってきたの!」

笑いながら彼女が答える。

「拾ってきたとはまた、乱暴な。」

なんとも緩やかな笑みがコーヒの香りと共にその場所を流れていた。


─幸せであることと幸せを感じるということには大きな違いが存在する。ごく一般的─これは飽くまでも物のいいようであって一番ポピュラーであろう幸せとは不幸せでないということが絶対的な事由になる。だがしかし、世の中には不幸せである、言い換えれば”虚ろ”であることが幸せであり、不幸せの裏側に幸せがあるわけではなく、隣り合わせの位置にそれを置いておくことを幸せと考える人々もいる。僕もその1人なのだろう。”虚ろ”の美しさはそこに足を踏み入れない限りわかることはない。言わばそれは自己愛でありナルシズムに他ならない一種の自愛行動的な心理状態なのであるのだから、客観的に計測のしようが無いのだ。そのかくも甘い世界は自己を中心に回る自己を排他した刹那的な非現実として虚ろや渇きといった状態を享受し、そこに収束させることのみに存在を許される。


そんなことを思いながら僕は目の前にある小さな幸せを体現させてかのような時間を1人の登場人物として、また傍観者として体験している。


懐かしい味、としか例えようのないナポリタンとコーヒー、食後のタバコを嗜んで僕らはその店を後にした。食事を終えた後の揺れる車の中で娘はいつの間にか眠りについてしまっているようだった。

「つまらないことは嫌いだから全てを話す必要はないけど貴方はどこへ行きたくてあんなところで待ちぼうけていたの?」

それが突然の会話の切り出しだった。

「どこか、僕の知らない人しかいない遠くへ。」

現状、僕が出せる最良の選択肢はその答えだった、もっとも気の利いたことなどを言えるような人間でも事情でもないのだから最良は無いに等しいのだけれど。

「そう、それならきっとどうにかなるわね。」

気のなさそうな声で彼女はそう言い、車のキーを抜いた。




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次の日の嘘。 望月和哉 @kyakyazu

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