第3話

 それから数日の間、私は男と一緒に暮らした。異性を感じさせない、どことなく中性的な雰囲気の男だった。それは子供のような振る舞いのためかも知れないし、私に指一本触れない紳士的な態度のためかも知れなかったが、判然とはしなかった。

 二人ともゆったりとした時間の使い方が好きだった。

朝寝坊して、コーヒーを持って庭に出る。たまに車を走らせて景色の良い道をドライブして、あの砂浜にも行った。夕方になれば適当に材料を買って、簡単な夕食を一緒に作って食べた。あまりにも穏やかで濃密な時間だった。


「なんだか眠くなっちゃったな」

 昼下がりの暖かさに中てられたのか、男が大きく伸びをしながら言った。

 身体の働きそのものが鈍くなってしまうような、緩慢とした午後だった。一人でいた時にあれだけ私の耳を蝕んだ、時計の針さえも止まっているのではないかと思われる程だった。

「そうね。私も少し眠くなってきちゃった」

 私の脚に頭を乗せて、男はソファの上に寝転がった。小さなソファからはみ出してしまう両足を身体に引き付けて丸くなると、男はそっと私の膝頭を撫でた。男が自発的に私に触れたのは、後にも先にもこれが最後だった。

「もうずっと前からこうしていたような気がする」

 私は彼の滑らかな鼻筋に沿って指を這わせた。

「たった数日前に知り合ったばかりなのに、ずっと以前から知っているような気がするわ」

 男の言葉に私も同調した。ソファの上だけがまるで別の空間かの如く独立して感じられた。

暗い海の上で、私と男を乗せて沖合に出る小舟のような……この感覚は……ふと思い当る。彼とここへ逃げてきた夜にも同じように感じたことを。星が空を埋め尽くす光景を初めて目の当たりにしたことを。空と海の境目が曖昧な闇の中で、美しく浮かぶ二つの月のことを。ぼんやりとした意識の中で私は瞼を閉じたまま目を開けた。

 

闇の中に大きな黄金色の目が二つぽっかりと浮かんで、しっかりとこちらを見据えていた。私は恐怖を感じているのに、どうしてもその瞳から目を逸らすことが出来なかった。

生きるスピードが遅い?

「誰?」

 誰かが自分に合わせて生きてくれるなんて思うことは傲慢だ。本当に誰かと生きようとしたことはあるのか? いつも誰かがお前に合わせてくれたんじゃないのか。

「誰なの?」

逃げることも出来ない?

 自分勝手に傷付いただけなのに、誰から逃げるって言うんだ? 綺麗言を並べ立てる術だけを身に付けた臆病者じゃないか。

「そんなこと言われなくたってわかってる」

 まだ忘れられない?

 もともと大した愛情を注いできた相手でもないだろう。ただ依存するのに都合が良かっただけ。互いの利害が一致しただけ。まだ誰かに依りかかって生きていきたいのか? いや、むしろそもそも男なんて存在したのか? 全てがお前の生み出した幻想なんじゃないのか?

「うるさい。黙れ」

過去を理想的に書き換え過ぎると、矛盾で正確な時が刻めなくなるってことさ。もうすべきことはわかってるんだろ? 

闇の中の瞳が猛烈なスピードで私の横を通過していった。


誰かが私の頬を優しく撫でた。

自らの手で頬に触れて、不意のうちに涙が流れていたことに気が付いた。知らぬ間に開け放たれた窓から流れ込んで来る風が冷たくて、私は身体を強張らせる。

「どこ? トイレ?」

 私の問い掛けに返事はなかった。家の中のどこを探しても男の姿は見当たらなかった。庭に出たのだろうかと思って降りてみてもやはり男の影はない。

 

結局夜になっても、男が私の前に姿を現すことはなかった。

「どこに行ったのよ?」

 男が残していった黒いハットに向かって私は冷たく言葉を放つ。帽子は当然沈黙を守ったまま、私の冷たい言葉も視線も受け入れた。電気も付けず暗い部屋の中を、私はハットを抱えたまま、落ち着きなく歩き回った。

一つ大きな嘆息をして乱暴にソファに座ると、何かを下敷きにしたような感触があった。手で探ってみると、男が私の手に握らせた小さな珊瑚色の貝殻が出てきた。

月光に照らしてみると、貝殻は光を反射してきらきらと光った。その貝殻をワッペンのようにハットに付けてみると、なんだかすごく似つかわしく思えて、私の気に入った。

 私は昼間と同じようにソファの上で目を瞑り、ハットを顔の上に乗せた。月光さえも遮られた暗闇の中で、私は再び微睡んだ。定期的に感じ取れるリズムは壁掛け時計の秒針なのか、打ち寄せる波なのか……


「月の道とはよく言ったものだね」

 海に反射した月の光を眺めて猫が喋る。

 空には赤い月と白い月が浮かんでいた。その周りを埋め尽くすように無数の星が輝き、明るい夜だった。

「あら、あなた話せたの?」

「喋れないと言った覚えもないけれど?」

「生意気な口を利くのね」

 猫の言葉に私は少しだけ呆れて笑った。

 夜の砂浜に次々と付けられていく愛らしい足跡は、横風が吹く度に何もなかったかのようにその存在を失う。私は髪が顔にかかるのが鬱陶しくて片手で髪を押さえた。

「ねえ、どこに行くの?」

猫は水平線の彼方まで星に覆われた海に向かって真っすぐ進んでゆく。

凪いだ遠くの水面は星や月を鏡写しにして、空と海との境界がはっきりとしなかった。

「あっち。橋の向こう」

気軽な調子で言うと、猫は一定のテンポを保って私の前を歩き続けた。

「下を見たらダメだよ。特に夜は危ない。どちらが上でどちらが下か分からなくなってしまうと道に迷うからね」

 波打ち際で一度振り返ると猫は早口で告げて二つの月が作り出した橋の上を歩いていく。

「ちょっと、どうしたらいいのよ」

「下を向かずに付いて来て」

 私は猫に言われた通り、しっかりと前を向いて一歩を踏み出す。何か大きな蛞蝓の上でも歩いているような奇怪な感触だった。時折立ち止まってバランスを取らなければ転んでしまいそうだったが、不思議と恐怖はなかった。私の少し前をピンク色の大きな魚が何度か跳ねた。魚が立てた飛沫までピンク色に光っていた。

「もう少しだよ」

 尻尾をぴんと立てたまま前を歩く猫が言った。猫の言葉に反応して前方を見晴るかすと、注連縄の巻かれた大きな岩が見えた。二百メートルは先にあるように見えた岩まで、歩数にすれば十歩程で辿り着いた。

「そこに立ってると危ないよ。早く岩の上に上がって」

 私が岩に足を乗せた時、背後で大きく水の跳ねる音がした。慌てて振り返ると海の中に緑色に光る大きな何かが潜水して行った。

「今の何?」

「知らないよ」

「なんだかあなた冷たくない?」

「そう? 前からこんな感じだったと思うよ?」

 私の言葉に短く応答すると猫は岩の内部へと続く階段を上がっていった。階段を登り切ると少しだけ拓けた空間に出た。

「ここは?」

「面会室みたいなものかな?」

「面会室?」

 今度は答えなかった。猫は、岩をくり抜いて作られたであろうこの面会室にはおよそ不釣り合いなソファの上に飛び乗ると、真ん中に陣取って丸くなった。私も猫の身体を踏まないように用心して、そっと横に腰掛ける。

 ソファの正面の岩壁に穴が空いていて、外の景色がよく見えた。

「あ、うちが見えるのね」

 崖の上に建てられた一軒の家を指さして言った。

「そりゃ、見えるよ」

猫は言葉同様に当たり前といった風情で、私の足に顎を乗せた。

「ねえ、触ってもいい?」

 答える代わりに猫は尻尾で私の指先をくすぐった。

私は耳の間から小さな額、そして鼻筋を指でさすった。猫は気持ちよさそうに小さく喉を鳴らして目を閉じている。短いが柔らかい毛の感触が心地良かった。

「どうして私の所に来たの?」

 猫は怪訝そうに片目だけ開けてこちらを見た。

「君の時間が止まりかけていたから」

「私の時間が止まる?」

「誰にでも平等に流れている時間は過去だけだ。でもその過去さえも不確かなものになりかけていた。だから僕はここに来た。君に正しい時間を思い出してもらうために」

「どういう意味なの?」

 猫の言葉に私は混乱していた。過去が不確かになる? 正しい時間?

とても理解出来る概念だとは思えなかった。

「一週間前にもここで同じ話をしたんだよ。でも止まりかけていた時間が途切れ途切れになってしまっていて、覚えていないんだと思う。でも今なら大丈夫、しっかりと時間が動き出したから」

「時間が動き出したってどういうことなの?」

「説明することは出来ないし、僕はそろそろ行かなきゃいけない」

 猫はすっと立ち上がって、私の足元をくるりと廻るとソファから離れていった。

「待って」

私は猫の後を追った。さらに上へと続く階段の手前で猫は振り返る。

「これより先に君は来てはいけないよ」

 そう言うと、猫はグレーの尻尾を振りながら階段を上っていった。私は猫が消えていった闇の中をいつまでも見つめていた。


 ハットが足元に落ちる。気付くと空が白み始めていた。

 私はハットを手に持ったまま庭へ出た。男が一週間前に放ったグレーの外套を探した。理由はわからないが、何故かそうしなければならないという強い衝動に駆られた。歩いて一番近い砂浜に降りると砂と流木に紛れた外套をすぐに見つけることが出来た。

 砂を払ってから持ち上げると、初めて触ったはずなのになぜか懐かしいその肌触りに、私の瞳からは自然と涙が溢れた。

 流れる涙を隠すために私はハットを目深に被る。珊瑚色の貝殻が鍔の少し上で陽光に煌めいた。


「私、この街を出ることにしたわ」

 墓石の前に座って宣言した。運んできた時には気が付かなかったが石には小さな穴が幾つか空いていた。

 墓石の後ろで彼岸花が最後の輝きを放つかのように揺れている。赤という色のうちで最も根源的な部分を抽出して、凝縮したらこんな色になるのではないかと思う程に鮮やかな赤い花だった。

「鮮やかで、驚くほど赤い……」

 私は男の言葉を思い出す。

「あなたに会いに行くためにはもう少ししっかりしなきゃいけないわよね」

 いつかと同じように、雲の切れ間から陽光が真っ直ぐに降りる。その光の真下にある大岩に波がぶつかって光の粉を拡散させる。

 私は外套を羽織った。

過去に抱かれて、もう一度正しい時間を生きる覚悟をして……

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曼珠沙華 如月 朔 @yazukazuya

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