第2話

 私たちは互いに名前で呼び合うことはなかった。名前を聞くことはなかったし、あなたとか君とかそう言った言葉で用足りていた。いや、むしろそれが心地よかった。会ったばかりにも関わらず彼にはどんなことでも話せたし、不思議と心が落ち着くのを私は感じていた。

「よければ夕飯も召し上がっていって」

「いいのかい?」

 男は少し戸惑いがちに尋ねる。

「もちろんよ。好きな料理はあるかしら?」

「肉も魚も何でも好きだよ」

「そう、じゃあ魚にしましょうか。この街は魚の方が美味しいわ」

「だろうね」

 男は窓の外に広がる景色を見ながら呟いた。


私の家から崖沿いに坂を下りてゆくと小さなスーパーがある。

男を助手席に乗せて、五分間程車を走らせた。男は窓を開けて外を眺めて、車が目的地に着くまでの間、ただ黙っていた。

簡単に買い物を済ませて、家へ戻ると私はそのまま台所に立った。男は再びソファに腰掛けて、冷茶の飲み残しに口を付けていた。


「良い香りだね。実に食欲をそそる」

いつの間にか私の横まで来ていた男が魚のソテーを見ながら言う。

「私あんまり料理が得意じゃないから、こういう簡単なものしか作れないの」

「とても美味しそうに見えるよ。バターの香ばしい香りがなんとも言えないなあ」

男はフライパンに顔を近付けて、満足気に目を細めた。

「もう少しで出来るからそこのテーブルで待っていて。落ち着きのない子供みたいな人なのね」

「これまた失礼」

男は私の言葉を受けて頭を掻くと、軽やかな足取りでキッチンから出て行った。

フライパンの上で熱せられた魚が音を立てて踊る。その音に紛れて私は忍び笑いを漏らした。


「どうぞ。召し上がって」

男は手を合わせて、食事を始める。

「ワインがあるけど、飲むかしら?」

「いや、あまりお酒は強くないんだ……」

「そうなの? せっかくだし、少しなら良いんじゃない? 私は頂くわ」

「じゃあ一杯だけ」

白ワインの注がれた二つのグラスを私はテーブルに置いた。

「全く飲めないわけではないんでしょ?」

「ええ、まあ嗜む程度には」

そう言って男は遠慮がちにワインを口に含んだ。そっと嚥下して、私の方を見て微笑む。

「すごく飲みやすいワインでほっとしたよ」

「そうでしょ。良かったわ。白ワインは魚料理に合うと思うからソテーも食べてみて」

ああ、と小さく返事をして男は魚のソテーとしばし見つめ合った。そして、ナイフで小さく切った魚をさらに小さな一口で脅えるようにして囓った。感想を待つ私の視線の先で男は一瞬硬直した。

「……お口に合わないかしら?」

男は黙ったままこちらに手の平を向け、しばらく動かなかった。

「申し訳ない。非常に美味しかったよ」

「本当に? とてもそうは見えないけれど……」

男はバツが悪そうに頭を掻いて、眉を下げた。

「ただ、熱いものが苦手で」

男の返事に私は拍子抜けした。気付かぬうちに自分の肩に込められていた力がすうっと抜けてゆくのを感じる。

「猫舌なの?」

「ええ、極度の」

「ふふ、おかしい。本当に子供みたい」

私は笑った。今度は忍び笑いではなく大きく口を開けて。申し訳無さそうに顔を赤らめる男の様子が可笑しくて、私の笑いはなかなか収まることがなかった。


「こんなに楽しい時間は久しぶりよ」

私は窓の外に広がる真っ暗な海を眺めて言った。風が窓を震わせる音と、壁掛け時計の秒針が刻むリズムだけが二人のBGMになった。

「本当だね。なんだかこうしていると、とても懐かしい気持ちになるんだ。それこそ故郷に帰ってきたような」

「偶然ね。私も似たようなことを感じていたわ。あなたの匂いに言いようもない懐かしさを感じてた」

そして私はそっと男の手の上に自分の手を重ねた。初めて感じる男の温もりに、私の心はゆっくりと温められてゆく。

男は私と目が合うと優しく微笑んで、小さく頷いた。それが果たして何の合図だったのか私にはわからなかった。ただ、受け入れられた喜びだけが確かに存在した。

絡み合う指。少し首を傾けて男の身体に体重を預ける。柔らかな香りに包まれて私は幸福を感じる。


カーテンの隙間から差し込む朝日が久方ぶりの私の安眠を妨げた。太陽に舌打ちしたい気持ちをぐっと堪えて私は隣りに眠る男を見た。

寒かったのだろうか、男は母体の中にいる胎児がそうするように膝を抱えて小さくなっていた。

私は男の細くて柔らかい前髪をやんわりと撫でた。少し毛先のハネやすい髪質なのだろう、それぞれの髪は寝ぐせでてんでバラバラな方向に向いていた。

男を起こさないように気を遣いながらベッドから抜け出すと、キッチンで湯を沸かして、コーヒーを淹れた。

「目の覚める香りだ」

男がベッド上に胡座をかいて言った。

ボサボサの髪が目まで覆って視界が良さそうには見えないが、しっかりと鼻は利いているようだ。

「ええ、朝はコーヒーに限るでしょ?」

起きてきた男にカップを手渡す。男は受け取ったカップに口を付けることなくテーブルに置いて、窓の前に歩いていった。

そう言えば猫舌だったなと思い出して私はまた可笑しくなる。

「一番綺麗な一瞬を切り取ったような美しさだ」

 乱れた前髪をかき上げながら男が言った。

「そうね、私もここからの眺めがこの街で一番好きよ」

「鮮やかで、驚く程赤い……もうじきか」

「ん? 何?」

「いや、なんでもない。本当に素晴らしい景色だ」

窓の外を眩しそうに見やる男の表情が僅かに曇ったように見えた。その横顔は私を置いて出て行った彼の最後の表情とよく似ていた。しかし私にはその表情の理由を問い質す度胸はなかった。

「後で砂浜に降りてみない? 車で少し走った所にすごく綺麗な浜辺があるのよ」

「良いね。是非行ってみたいな」

こちらに目を向けることなくそう言った男の顔はまだ少し寂しげに見えた。


遠方に浮かぶ船の周囲を乱反射する光が囲み、浜辺に迫ってくる波は穏やかに押しては返す。

遥か頭上に弧を描いて旋回する鳶は、時折甲高い鳴き声を上げて身体を反転させる。

私は履いていたサンダルを脱いで、裸足で乾いた砂を踏んだ。日光で温められた砂が滑らかに私の足を受け止める。

「あなたの故郷に海はあるの?」

打ち寄せる波の音につられて、私の声も自然と大きくなった。

「いや、高い山に囲まれた地域で近くに海はなかったよ。冬になれば雪に閉ざされて出歩くこともままならない、寂しい土地さ」

男は遠くを見つめたまま言葉を続けた。

「望もうが望むまいが、いつかは向こうに戻らなければならない。そんな予感はするんだけどね」

はっきりとした理由はわからないけれど、なんとなく我慢出来なくなって私は足で砂を蹴り上げる。

「うちの猫がね、この砂浜を気に入ってたの。猫なのに散歩したがるのよ。濃いグレーの毛をした凛々しい猫でね、私が都会で一人暮らしを始めた時に里親を探している猫をもらったの。仔猫の時からずっと一緒。自分のことを人間だと思ってたのか、しっかり布団に入って寝るのよ」

「家族みたいな存在だったんだろうね。言葉の端からそんな感情がひしひしと伝わってくるよ」

 家族……男の言葉はすっと私の心に沁みた。

「私ね、すごく生きるスピードが遅いんだと思うわ。だからみんなに置いていかれちゃうのね。だから都会の暮らしも肌に合わなかったのかもしれない。ぼんやりと海を眺めている方が性に合ってるのよ」

 私は涙を堪えてひどい顔をしていただろう。そんなこちらの心中を察してか、男はこちらを向くことはなかった。砂浜に打ち上げられた小さな貝殻を掴み取っては、手のひらに乗せて眺めたり、太陽にかざしてみたりしていた。

「この海はすごくきらきらしたものが多いから、きっと猫もそれを気に入っていたんじゃないかな?」

 男は珊瑚色した貝殻を指先でつまんでこちらに示した。

 私はまだ彼の目を見ることが出来なかった。気を緩めたらきっと涙が零れてしまうと思ったから。

波が足に届く所まで私は歩を進めた。遠くに見えていた船影はいつの間にか見えなくなっていた。

「もう一年近く経つのにまだ忘れられないの。前に一緒に暮らしていた男のことも、飼っていた猫のことも。些細なことで……ふとした拍子に思い出してしまう。だったらあの家を出て行けばいいと思うでしょ? でもそれも出来ない。今いる場所から逃げ出すことも、逃げてきた場所に向き合うことも。私は臆病だからどちらも出来ないの」

 私の声は震えていたと思う。こんな所に来なければ良かったと私は俄かに後悔した。

 背後からそっと男の指先が私の固く握られた手に触れる。絡まって解けなくなった結び目を器用に解くようにして私の手を開かせると、優しく貝殻を握らせた。

「昔、あなたが一緒に暮らしていた男がそうしてくれたように、同じ科白を言ってあげられればそれが一番良いのかもしれないけど……」

 わざと力を込めるようにして押さえていた私の手を放すと、男は私の斜め前に立った。少し大きめの波が二人の足元をくすぐるようにして砂をさらっていった。

「やっぱり少し冷たいね」

海を見たまま男は呟いた。

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