曼珠沙華

如月 朔

第1話

飼っていた猫が死んで、そこそこ愛していた恋人がいなくなって、自身の不幸で肥えた傲慢と彼と選んだ海辺の家が私のほとんど全てになった。

一面に広がる海を眺めることが出来る窓の前が私の指定席だった。すぐ後ろにソファが置かれているにも関わらず、何かに取り憑かれたように茫然と佇む私の姿は、外から見たらまるで亡霊か何かに見えたろう。

何日そうしていたのか覚えていない。毎日同じように波の間を揺蕩うカモメの一群をただ眺めていた。

この家に越して来た当初は澄んで青く見えていた空も、今では鮮やかさを失い、海の黒さと対照を成すに過ぎない。

モノクロームな世界の中で、希望を失うとはこういったことなのかと合点がいった。

私は時折、胸の下に手を当てる。果たして私の心臓はまだ鼓動しているのかと確認するために。そうして脈を感じる度に、ささやかな失望に苦しむのだ。この生活はまだ終わらないのだと。

無意味な確認を終えると、私は再び地球の自転と様々なものが絡み合って生じる単純作業の繰り返しをぼんやりと遠望する。

灰色がかった雲の切れ間から遠くの水面に真っ直ぐ陽光が降りる。あの光の真下に立つことが出来たなら、私は空に吸い込まれるように天へと昇ってゆけるのではないか、そんな妄想を重ねていた。

壁掛け時計の秒針の音が妙に耳障りに感じられる。進みも戻りもしない単調な日々は、それとは裏腹に着実に針を刻み続ける。

風が強いのか見る間に雲が流れていった。窓に縁取られた枠の中をあっという間に移動する雲の一つに、死んでしまった愛猫を想起させるシルエットを見付けて、私はまた感傷に浸った。雲が見えなくなってしまうのが悲しくて、私は無意識のうちに窓を開けてベランダに立つ。

久しぶりに吸った外気は生ぬるく、肌にまとわりつくような不快さを孕んでいた。その反面、足裏に触れた木の床はひんやりと心地良く、そのまま寝そべってしまいたい衝動に駆られる。

視線の先に浮かんでいた雲はやがて山の陰に消えてゆく。私はベランダの手すりに掴まって身を乗り出すようにしてそれを見送った。

雲が見えなくなると、私は気が抜けたように脱力し俯いた。私が脱力した理由は猫の雲が見えなくなってしまったためだけではない。

実は外に出ることに臆病になっている自分がいたのだ。もし心情同様に、気に入っていたこの街の景色がくすんで見えてしまったらどうしよう、と。

当然のことだが外に出て風を感じてみれば、空は青く、山は木々に彩られて見えた。その光景に私は心底ほっとしたのだ。


庭の突端、海を望む崖のすぐ手間に私がこさえた猫の墓がある。その上に腰掛ける何者かの姿が目に入った。ベランダから庭へと続くわずか数段の階段を、私は猫のように足音を忍ばせて下りてゆく。

グレーの長い外套と黒いハットを目深に被った横顔から、表情を窺い知ることは出来ないが、その出で立ちから男であることが知れた。男は細い木の枝でもって床を小気味好く叩き、リズムを取るように身体全体を揺らしながら海を眺めている。

「あの……そこに座らないでください」

久方ぶりに私が発した言葉はまるで他人の声のようによそよそしく響いた。

男は私の声に反応して、ハットの鍔を押さえながらゆっくりとこちらを向いた。

「何故?」

細く囁くような声だった。ややもすれば風にかき消されてしまいそうな、そんな小さな言葉だった。

「あなたが座っている場所、お墓なの」

男は一瞬、瞳を大きく開いた。

「おっと、それは失礼。知らなかったもので」

軽やかな身のこなしで、ふわりと墓石の上から跳び降りる。

「いいのよ。ただの大きな石にしか見えないものね」

男は自身の座っていた場所を丁寧に手で払った。

そして、外套の襟を合わせて居ずまいを直すと私に正対した。

海から吹く風が、男の背後に伸びる緑をハラハラと揺らす。

なんとなく潮の香りが懐かしかった。

「失礼致しました」

男はハットを右手に抱えて深々とこうべを垂れた。

「気にしないでください。猫の墓ですから」

「そうでしたか。これほど眺めの良い所に墓を作ってもらえて、猫も喜んでいるに違いありませんね」

そう言って男は少しだけ吊り上がった目尻に皺を寄せて優しい表情を作った。

「そうだと良いのですが」

雲が切れて、男の背後から陽光が差す。私は目を細めて、影になった男を見る。

再びハットを被り直した男は手に握られていた木の枝を指揮棒のように軽やかに振った。

「海が綺麗で気持ちの良い街ですね」

この街の景色は確かに美しい。そう感じたからこそ、私もこの家を買ったのだ。

「ええ、それ以外に何もないですけど」

男の影は庭と崖とを隔てる柵をひょいと跳び越えて、いよいよ崖の突端に立つ。

私は口から漏れかけた小さな悲鳴を必死に押しとどめた。

男は両手を大きく広げて天を仰ぐ。

「風が実に気持ち良いですね」

そう言葉を発しながら男が脱ぎ捨てた外套はたちまち風に流されて崖下へと消えていった。

「あっ」

今度こそ私の口からは小さく声が漏れる。

「良いんです。あんな季節外れの服。こんなに暖かい所では必要ありませんから」

「でも……」

私は後に続く言葉が出なかった。

男は崖の先端に座り、足を宙に投げ出してブラブラと揺らした。

「今までこんなに気持ち良く肌で風を感じたことはなかったかもしれません」

男は後ろ手を付いて大きく身体を反らした。

「お茶でもいかがですか?」

見ず知らずの男に何故こんな言葉をかけたのかと、正直、自分自身に戸惑った。ただ、口をついて出た言葉はごくごく自然な調子で、何の違和感も不調和も無く、純粋に響いた。

「ちょうど喉が渇いていたんです。お言葉に甘えてもよろしいですか?」

 支えにしていた手を外して、コロンと仰向けに寝転んだ男は逆さまの視線をこちらに向けて言った。

「ええ、どうぞこちらへ」

 私の言葉に反応して、男は自分の頭の重みで潰れたハットと同じようなクシャクシャっと崩れた愛嬌のある笑顔を見せた。

 私は男を身振りで階上へと促した。

 男は先程同様の流れるような動きで私のすぐ後ろを付いてきた。まるで足音を立てない不思議な男だった。

「帽子はそこにかけて」

「ええ、どうも」

 窓に向き合うように配置されたソファに腰掛けた男は興味深げに首を回して、部屋の中を隈なく確認しているようだった。

「温かいものがいいかしら。それとも冷たい方がいい?」

 私はダイニングから男の背に向かって声を掛ける。

「冷たいものでお願いします」

そのやり取りは他人から見たら長年連れ添った夫婦のように見えたかもわからない。

私が置いたグラスは、木のテーブルの上でコトリと小さな音を立てた。


「この音が落ち着くんだよな」

そんな風に言っていた彼の言葉が一瞬フラッシュバックする。

 

ゴクリと喉を鳴らして男が冷茶を飲む。

「すごく美味しいです」

 室内で聞く男の声はとても穏やかに私の耳へと届いた。その声の響きだけで、私はこの男を信頼してもいいのではないかと感じた程だった。

 他に方法もなかったので、私は男の隣りに腰を下ろす。その拍子にわずかに男の匂いを鼻先で感じる。不快なものではない、落ち着く香りだった。


 そしてまた彼を思い出す。ベッドに、枕に染みついて拭えない彼の匂いを。


「どちらからいらしたんですか?」

私は窓の方を向いたまま男に尋ねた。

「もっとずっと北の寒い所から。名乗りたいのですが、名乗るべき名もありません」

「どういうこと?」

 男は顎に手を当てて少し考え込むような仕草をしてから言った。

「何もかも捨てて逃げるようにして故郷を後にしました。もう、この社会の誰とも関係がない以上、名前など必要ないのです。呼びたければ好きに呼んで下さって構いません」

人の事情はそれぞれだ。私も人の事を言えた義理ではではないし、それ以上聞かなかった。

 それでも男は律儀に自身の身の上を語った。もちろん、話したくない部分は省略しているのだろうが。

 そして、私は男の話を聞くうちに、男の境遇と自身の境遇とを次第に重ね合わせていった。

「私もね、世間から逃げてここへ来たの」

 男の話が一区切り付いたところで私はこう切り出した。

「仕事も上手くいかなかったし、人付き合いも得意じゃなかった。都会の暮らしにも向いてなかったのね。死のうと思ったことだって何度かあったわ。そんな時にある人が言ってくれたの。それならいっそ死んだことにして俺と暮らそうって」

 男は神妙な面持ちで私の話を聞いていた。余計な相槌を挟むこともなく、ただ黙って頷いていた。

「私たちはその日のうちに都会を離れたわ。彼の車で。家も会社も、家族さえも捨てて。連れてきたのは猫だけよ。さっきあなたが座っていた場所で眠ってる……」

「じゃあ……あなたも誰でもない?」

 静かに聞いていた男がゆっくりと言葉を発する。

「そうね」

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