第32話 帰宅

 その日、帰ってきた綺音は玄関に入って、すぐに気がついた。


 ──マグノリア!


 急いで靴を脱ぎ、リビングに駆けていく。

 いつもより廊下が長く感じた。もどかしい。


「パーパ!」


 扉を開けると、父が優雅に紅茶を愉しんでいた。

「おかえり、綺音」


 カップを置き、立ちあがると、両手を広げる。


「ただいま!」


 綺音は鞄を放りだし、父に飛びついた。


 まっ白い花の香り。父の昔からの愛用の、マグノリアの香りだ。


「いい子にしていたかい?」

「もっちろん!」


 あたたかで力強い父の腕の中で、綺音は頬をふっくらとさせる。


「パーパこそ、いい演奏してきた?」

「もちろん、と、言いたいところだな」

「知ってる。訊いてみただけ」


 くすり、と笑う声が耳元でする。くすぐったさに、綺音は小刻みに笑った。


「かなわないな、綺音には」

「とうぜんよ!」


 くすくす笑う綺音を、父は優しく抱きしめる。

 その腕から抜けだして、

「パーパ、新譜の曲! マンマとって!」

 さっそく、おねだりした。


 集一が首を傾げる。

「新譜の? どの曲だい?」

「『移り気は物笑いの種』の、『その姿とその美しい顔』!」

「ああ、あれか。言うと思ったよ」


 そこへ結架が綺音と美弦のティーカップを持ってやってきた。


「おかえりなさい、綺音」

「ただいま、マンマ。ねえ、マンマも。パーパと一緒にって」


「あら、なにを?」

 もう一度、綺音が曲名を告げると、結架は朗らかに笑った。


「いいわね。わたしも演奏してみたいと思っていたの。総譜を暫く見せてもらえるかしら?」


 やる気になっている母の表情を見て、綺音は、わくわくした。こんなときは、凄い音楽に接することができるのだ。


「何のさわぎ? あっ、パーパ! おかえりなさい!」

 美弦が扉から飛びこんできた。


「ただいま、美弦」


 綺音のときのように両手を広げた集一のもとに、美弦が駆けこんだ。彼は息子を抱きしめ、そして抱き上げた。


「あっ、ずるいー」

 綺音が不満げな声で言う。


「重たくなったな、美弦。もう、これからはこんなこともできなくなりそうだ」

「パーパ。僕、もう小学六年生だよ」

「そうか。そうだったな」


 嬉しそうに父が笑う。


 母が姉弟のティーカップに紅茶を注いだ。


 テーブルの上には、薔薇のマカロンと、レモンのギモーヴ、ココアとミントのクッキーが並んでいる。クッキーは父のアメリカ土産だろう。


「とりあえず、お茶にしましょう?」

 母の言葉に、姉弟は頷く。


「そのあとで、聴かせてよね。パーパ、マンマ」

「ああ」

「ええ」


 両親が揃って首肯するのを見て、綺音は満足げにソファに身をしずめる。


 カップを手にとり、香り高い液体を愉しんだ。


「これ、ダージリン?」

「そう。アリヤだよ」

「いい香り」

「甘いね」

「アリヤは珍しいわね」


 久しぶりの家族そろっての団欒。


 綺音は父の隣をキープして、ご満悦だ。その反対隣りには、美弦がいるが。


「綺音。『若草祭』で演奏したんだって?」


 集一が、まろやかな声で訊いてきた。


「マンマから聞いたの? そう。すごいピアニストが転校してきてね。一緒にったの。思いっきり弾かせてくれる伴奏をしてくれて、楽しかったぁ」


「それは良かったね。録音はないのかな」

「先生が録画してるかもしれないけど」

「練習風景なら、わたしが撮ってあるわよ」

「ええっ、マンマ! いつの間に?」


 結架が声を出さずに笑う。


「気づいていると思っていたわ。でも、そうね。とても、集中していたのね」

 頬を染めた綺音が、抗議する。

「声をかけてから撮ってよぅ」

「ごめんなさい。綺音はともかく、皆さんに緊張してほしくなくて」


 それはたしかに、そのとおりだった。

 美月や咲子は、カメラが回っていると知れば、緊張して練習に支障が出ただろう。


「では、さっそく見せてもらおうか」


 少年のような表情をした父を見て、思わず姉弟は顔を見合わせる。


 音楽の前では、父も母も、無邪気になる。


 その共通認識は、綺音と美弦だけのものではなかった。

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