第23話 ふたりきりの会話
休憩をしているときだった。
晶人が、突然、こう訊いてきた。
「ご両親は結婚されて、もう長いの?」
きょとん、と綺音は晶人を見やる。クッキーをつまんだまま、
「そりゃあ……中学2年生の娘がいるほどには?」
質問の意図がくめない。
しかし、晶人は続ける。
「どうやって出逢われたんだろう」
「イタリアで出逢ったって聞いてるよ。私とそう変わらない年頃のときに、ヴェネツィア音楽院で」
晶人の表情に影が差す。
「じゃあ、そのときから?」
綺音は片手を振った。
「ううん。それからしばらくは離れ離れだったって。再会したのは大人になってからだっていう話だよ」
「そうなんだ」
「そう。再会したのもイタリア。トリーノなんだって」
「ふうん」
「パーパとマンマが共演して、仲を深めていったんだって。パーパったら、あのマンマにどうやってにじり寄っていったんだろうね。私も気になるっ」
「訊いてみたことないの?」
「あるけど、マンマが嬉しそうに「秘密よ」って言うし、パーパは誇らしげに笑うだけだし、結局、ふたりだけの内緒の思い出みたいだから、教えてもらえないの」
内心で、参考になりそうなのにな、と思いながら、綺音は肩をすくめた。晶人は結架なみにガードが堅そうだ。
晶人の無表情に、ちょっとだけ、残念そうなものが混じる。
「……それで、ふたりとも、仲がいい?」
その言葉に、綺音は笑ってしまう。
「うん、とっても! 私たちが困っちゃうくらい、いまでもラヴラヴだよ」
「そっか」
綺音が淹れたケニルワースを飲みながら、晶人は頷く。その表情と仕草に、綺音は気づいてしまった。
──もしかして。
胸に杭が刺さったかのような、烈しい痛み。
──でも、まさか。
そのときだった。
「あ、休憩中?」
澄んだ声が二人の耳に届いた。
「美弦」
「ケニルワースだね。僕もご一緒していい?」
「もちろん」
綺音は、ほっとしながらも、すこし複雑な気分になる。
美弦は沸かしたてのお湯でしか、紅茶を飲まない。お礼を言って、キッチンに向かっていった。
「……美弦くんは、小学6年生だっけ」
「そうだよ」
「しっかりしてるね」
「そう? まあ、たしかに、弟ってより兄ってときもあるけどね」
──私、笑えてるかな。
今朝の美弦の優しい手を思いだしながら、綺音は自分を律そうとする。
「でも、伴奏は晶人くんのほうがいいかも。美弦は、私に合わせてくれすぎちゃうから」
「きみに合わせられるって、結構、大変だよ。美弦くんは腕がいいんだね」
「え?」
晶人が小さく微笑む。
「『チャールダーシュ』をあの速度で弾くなんて、なかなか出来ることじゃない。僕も大変だった」
「ご、ごめん」
「いいさ。あれはあれで、楽しかったよ」
「それで、
上目づかいで見てみると、晶人の表情には笑みが残っている。綺音は今度こそ、ほっとした。
「うん。どんどん速まっていくから、手拍子も大変だろうな」
「遅めたほうがいい?」
恥ずかしさで縮こまりながら、綺音は尋ねる。その目を見て、晶人が首を横に振った。
「あの曲なら、きっと盛りあがるよ。あれが、きみの個性だろう?」
嬉しくなって、綺音は笑顔を輝かせる。
「ありがとう」
そこへ、美弦の珍しくおどけた声が響いた。
「お邪魔かな?」
両手に持ったトレイに、ポットとカップのセットが乗っている。
「お代わりをお持ちしましたよ」
「美弦、ありがと」
「ありがとう」
大きなポットには、3人分の紅茶が入っている。
それを傾けて、美弦は晶人と綺音のカップに紅茶を注いだ。
「練習は順調?」
座るなり、そう尋ねてくる。
綺音は頷いた。
「すっごく順調! 楽しいよ」
「なによりだね。蔵持さん、ありがとうございます」
「晶人でいいよ」
晶人が優しい笑みで言う。
その笑みが向けられている美弦に、綺音の心がピリリとした。
「美弦くんは小学6年生なんだってね」
「はい」
「将来はピアニストになるのかい?」
美弦が首を傾けた。
「さあ、どうでしょうか。そもそも、僕にピアニストがつとまるかどうか」
「でも、両親ともに音楽家なんだ。素質はあるよ」
「晶人さんは、どうなんですか?」
一瞬、沈黙が降りた。
晶人の表情が一段と優しくなる。
「僕は、ピアニストにはならないと思う」
「えっ?」
「そうなんですか」
「うん、だって──」
言いかけた晶人の声に、柔らかな美声が重なった。
「あら、休憩中かしら?」
「マンマ」
にっこりと笑みを浮かべた結架が近づいてくる。
「もうすぐ昼食ね。なにがいいかしら?」
3人に問いかけた結架の手には、からの籠がある。どうやら洗濯物を干していたらしい。今日は天気がいいので、シーツを洗ったのだ。
綺音と美弦が声を揃えて、
「ラザーニャ!」
なんの相談もしていないのに、同じものを叫んだ。
結架が艶麗に微笑む。
「わかったわ。美弦、お手伝い、頼めるかしら?」
「もちろん」
「まだ、いいわよ。ゆっくりお茶を愉しんでちょうだい。そのあとで、よろしくね」
「はい、マンマ」
結架は晶人にも微笑みを向けた。
「晶人くん、ゆっくりしていってね。午後も練習するのなら、お昼もご一緒してくれるでしょう?」
「はい、ありがとうございます。今日も御馳走になります」
すこしかたくなった体を折り曲げて、一礼する。
結架は、じゃあ後でね、と言って、ランドリー・ルームのほうへ歩いていった。
緊張した表情を崩さない晶人を見上げて、綺音は小さくため息を漏らす。
「サラダはロマネスコと生ハムとオリーブでいいよね」
美弦はたいていサラダ係だ。
綺音は頬杖をついて、
「うん。ふつうのカリフラワーも入れて」
「わかった」
「スープは枝豆のポタージュだよね」
「ゆうべ、仕込んでたでしょ」
「そう。マンマと」
姉弟の会話を黙って聞いていた晶人が、小さな声で、
「ロマネスコ?」
ひとり言のように訊ねた。
姉弟は顔を見合わせる。
「ああ。知らない? カリフラワーの一種で、ブロッコロ・ロマネスコっていってね。イタリア語でローマのブロッコリーっていう意味なの。色は綺麗な黄緑色で、味はブロッコリーに近いんだけど、食感はカリフラワーなのよ。でも、ちょっと違うんだよね」
「形状はブロッコリーの花蕾が幾何学的に、フラクタル形態になっている感じです」
「そう。ドリルみたいな円錐形なんだよ」
「綺麗な野菜ですよ。美味しいし」
「楽しみにしてて」
次々と姉弟から言葉をかけられて、晶人は苦笑する。
「わかった」
結架がキッチンに向かう足音がした。
「そろそろ、僕、手伝いに行ってくる」
美弦が立ち上がると、綺音も腰を上げた。
「じゃあ、お昼まで、もうすこし練習しない?」
晶人は頷く。
「いいよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます