第22話 練習開始
晶人がやってきたとき、綺音は最後のチェックを姿見の前でしていた。
薄手のツイード生地で胸もとにレースをあしらったピンクのワンピースが、良く似合う。飾りボタンが並んだ胸もとの装飾は上品で、シルエットもお嬢さま然としている。
「おめかししたねぇ」
午後になって美月に言われるような恰好だった。
綺音はチャイムの音に駆け出し、結架とともに晶人を出迎えた。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
そうして綺音は晶人をピアノ室に連れて行った。午後からは、メンバー全員でのアンコール曲の練習がある。いちいち音楽堂から移動するよりも好都合だと思ったのだ。かわりに、美弦が今日は音楽堂のピアノを使って練習している。
結架は美弦の練習に付き合うため、音楽堂へと行ってしまった。
──ふたりきり。
「……最初は、なにから練習する?」
ふたりとも昨夜のうちに譜読みを終えていたので、すぐにでも合わせられそうだった。
「早く仕上げられそうな『チャールダーシュ』から合わせてみようか」
「そうだね」
綺音はヴァイオリンを構えると、晶人がラの音を鳴らすのを待った。
彼が来る前に、チューナーで音合わせはしてあるが、やはりこの儀式のような作業は外せない。
ピアノの音にヴァイオリンが溶けこむのを確認して、ふたりは頷きあった。
「じゃあ、まずは最初から通してみよう」
「うん」
晶人が鍵盤の上に手をのせる。
みっつの分散和音のあとに、すこし溜めたあと、大きな和音。ロマンティックな旋律。
そこにヴァイオリンが乗せられる。
思わせぶりな、少し重たい、気だるげな主題。
流れる憂い。
軽やかな音の連なりを、ひきずるように奏でる。
もったいつけるように。
そして、唐突に駆けだす。
勢いよく、息せき切って。
休息所のような重音とフラジオレット。
しかし、またも唐突に駆けだす。
限界を超えて。
力のかぎり。
「……いいね」
晶人の言葉に、綺音の笑顔が輝く。
「ん、完璧!」
はじめて合わせているとは思えないほど、息の合った演奏だった。
「でも、ちょっと
「いいよぉ。ノリがいいほうが、盛りあがるよ、きっと」
「そうかな」
「そうよ。あとの二曲は大人しいんだし」
「アンコール曲は派手だけどね」
あはっ、と、綺音は笑う。
「そうね!」
綺音は派手な重音を響かせた。
そのまま止まらなくなって、曲に突入する。晶人は黙って聴き入った。綺音は激しく楽弓を動かし、情熱的な旋律を奏でる。太陽の国の音楽。引き絞る高音。はじけるようなピッツィカートに入り、我に返ったように綺音が手を止める。
「……最後まで弾かないの?」
「ん……」
綺音は微笑んだ。
「タンバリンとカスタネットが欲しくなって」
「それは、午後からだね」
「うん」
晶人が楽譜を取りかえた。
「じゃあ、次はワルツをやろうか」
二年前、コンクールの自由曲で弾いた曲だ。綺音にとって、そのときの練習は忘れられない。美弦の伴奏で弾いた曲。それが、晶人との演奏で、どう変わるのか。
わくわくした。
ヴァイオリンを構えた綺音に、晶人が頷く。
明るく艶やかな音色が流れ出る。
上品に。
華やかに。
軽やかに。
美弦との合奏では物憂げに聴こえた旋律が、晶人とのそれでは、まるで違って聴こえる。
もっとずっと明るい。
もっとずっと朗らかで。
もっとずっとやわらかい。
──好き。
胸の奥から心が溢れだしてしまいそう。
サラサーテの書いた音符が、舞い上がって、踊りだす。
艶麗に。
輝かしく。
煌びやかに。
──好き。とても、とても好き。
優しいピアノの和音が響いて、綺音の胸を震わせる。
心に浮かんだ想いは、胸いっぱいに広がって、膨らんで、はじけそうなほどだ。
艶めかしい音色。
楽弓の滑らかな動きとともに、動いていくピアノ。
しかし、それが唐突に止まった。
晶人の顔が渋くなっている。
「どうしたの?」
不安になった。
ヴァイオリンを下ろす。
──そんな顔しないで。
「……速い」
「えっ?」
「速すぎるよ」
「そうかな?」
「せせこましい気がする」
晶人の眉間に皺が寄っていて、なんだか怖い。
「もっと優美さを出すには、緩急の差を広げたほうがいいよ」
「そう?」
「うん。ごく少しでいいから」
「わかった」
素直に頷いて、綺音はヴァイオリンを構えなおす。
「中間部は、このくらいの速さでもいいよ」
「うん」
逆らわない綺音に、晶人も頷く。
もう一度、最初から。
ほんのすこし速度を緩めるだけで優美さが増すのが判り、綺音は心の中でなるほどと納得した。たしかに、このほうが曲にしっくりくる。
──さすがだなぁ。
綺音の弾きたいように弾かせてくれる美弦とは、まったく違う。そして、綺音は大体、どの曲も、少しばかり速く弾こうとする癖があった。これは好みの問題だろう。
──遅いと野暮ったくなる。
そう思っていたが、遅くしすぎなければ問題ない。
綺音は晴れやかな気持ちで弾いた。
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