第17話 ヴァイオリニストたち

 結架の用意していた食事は、素晴らしく美味しい。

 皆、口々にそう言った。奏の母、百合香が作ったチキンのグリルも、素晴らしい。特に綺音は鶏肉が大好きなので、大喜びだった。ぺろりと一枚、平らげる。


 晶人はスープをとりわけ気に入ったらしく、お代わりをしたほどだ。いつも遠慮がちにしている彼の積極性を見るのは初めてだったので、綺音は驚いた。


「このあと、どうする?」

 奏が一同に尋ねると、美月が張り切って答える。

「決まってるわ。『若草祭』で演る曲目を決めるのよ」


 楽器のできない彼女は、実際のパフォーマンスを綺音や真理絵に託すほかない。しかし、音楽愛好部の部長として、誰よりも部の発展を願っている。


「先輩がいないのは部の発足が去年だったから仕方ないとして、後輩もいないなんて、つまらないわ。これを機に、部員を増やさなくっちゃ。1人でも減ったら、同好会に格下げよ」

「減ることはないから、大丈夫だよ」

 奏がのんびりと紅茶をすすりながら言う。

 今日は、美弦の希望により、ピュアダージリンブレンドの『マグノリア』だ。花の香りが素晴らしい、最高級の茶葉である。


「そうだけど。危機感は持っとくべきよ」

 美月は真剣だ。

 ベーコンと玉葱のサンドイッチを頬張る。


「綺音は何を演りたいの?」

 咲子が訊くと、

「晶人くんの希望から聞こうよ」


 すると、サラダにフォークをさしていた晶人は、静かな美声で答えた。

「バッツィーニかな」

 その静かな声に、綺音の激しい声が答えた。


「『妖精の踊り』はイヤっ」


 綺音の家族以外が全員、揃って目を丸くする。

「あれ? 綺音、その曲で去年のコンクールに優勝したでしょ?」

 真理絵が言うと、美月も咲子も、そうだったと思った。


 去年のコンクール。

 終わった後、綺音は解放感に踊りださんばかりになり、応援に来た皆の前で鼻歌まじりに「歓喜の歌」をドイツ語で歌っていた。歌詞の思いだせない部分は鼻歌で、鷹揚に、無頓着に歌ったのだった。その上機嫌さを、優勝したからだと思ってきたが。それだけではなさそうだ。


「あの曲は、プロになって仕事でやらざるをえなくなるまで、絶対に弾かない」

 よく見ると、涙目になっている。

「……なんで?」

 奏が訊いた。

 きっと睨み、綺音は唇を噛む。しばらく彼女は黙ったが、やがて唸り声で答えた。


「言いたくない」


 そして、そっぽを向く。

 結架と美弦が忍び笑いをもらすと、綺音は2人を睨んだ。


 奏の心に、結架の言葉が浮かぶ。


 ──今までにも、コンクール前なんかは、ああして苦しい闘いを経験してきたのよ。そうでなければ鳴らせなかった。響かせられなかった。奏でられなかったわ。


 その苦しみが、この曲では、より濃かったのか。

 奏は考えこむ。


「でも、優勝曲なんだろう?」

 晶人に訊かれると、さすがに綺音は応えた。

「そうよ」

 とーぜんでしょ、とは彼女は言わなかった。もしこれが奏の質問だったなら、そう答えたかもしれないが。


 美弦の皿にあったチキンにフォークをさし、綺音は弟を見つめながら、

「弾かないったら、絶対に弾かないの。どーしてもってときには、美弦の伴奏じゃなきゃイヤ」

 それは『若草祭』では無理だろう。


「……構わないよ。カラブレーゼとか、ラ・カリヨン・ダラスとか、ほかにも曲はあるし」


 晶人の声の穏やかさに、綺音はほっとした。そして甘えるように問う。


「バッツィーニじゃなきゃダメ?」

「いや。きみが超絶技巧を弾くなら、もってこいだと思っただけだから」

「まだ、サラサーテのがいい。でも、クライスラーのほうがいいな」


 アントニオ・バッツィーニ。1818年、イタリアはミラーノに生まれたヴァイオリニスト、作曲家にしてヴァイオリン教師でもあった人物。少年時代に、あのパガニーニの演奏に接したらしい。その超絶技巧が忘れられなかったのか、『妖精の踊り』という難曲を残した。


 パブロ・デ・サラサーテこと、パブロ・マルティン・メリトン・デ・サラサーテ・イ・ナヴァスクエス。1844年にスペインはパンプローナに生まれたヴァイオリニストにして作曲家。初めての公演は8歳。10歳のときにはスペイン女王イサベル二世の御前で演奏をしたという。神童ぶりがうかがえる逸話だが、それはまだある。パリ音楽院で学んでいた13歳のとき、ヴァイオリン科の一等賞を得たのだ。年上の学生たちを退けて。そんな彼も、『ツィゴイネルワイゼン』という傑作を残している。


 フリッツ・クライスラーこと、フリードリヒ・クライスラー。1875年、ジークムント・フロイトと親しい医者の息子としてウィーンに生まれた彼も、早熟だった。大の音楽好きだったアマチュアヴァイオリニストの父親の影響で、3歳ごろからヴァイオリンを始めたが、7歳のとき、ウィーン高等音楽院に特例入学を果たした。わずか3年後に首席で卒業。その後パリ高等音楽院に入学し、12歳にしてまたもや首席卒業したという。しかし、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の入団試験では落とされてしまった。その悔しさをばねに、レパートリー拡大のために少しずつ作曲も始めたようだ。『愛の喜び』、『愛の悲しみ』、『美しきロスマリン』などで有名である。


 綺音は、サラサーテの編曲したショパンの幾つかの曲が好きで、ピアノ独奏する弟に伴奏を命じることも多くあった。彼女の十八番といってもよい。


 クライスラーの曲も好んでよく弾いている。なかでもお気に入りは、『ベートーヴェンの主題によるロンディーノ』である。


 そういう意味では、決してバロック音楽だけに傾倒しているわけではないのだ。

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