第16話 救済のアルビノーニ

 トマーゾ・ジョヴァンニ・アルビノーニ。


 この作曲家と、結架は縁が深い。


 彼女が集一と初めて出逢ったと思ったのは、イタリアのヴェローナだった。そして、再会したのはトリーノの王立劇場。そこでふたりは共演した。そのときの曲が、アルビノーニの曲だったのだ。


 ──私たちを結びつけてくれる、作曲家。


 その作曲家の曲を、二人の子どもたちが弾いている。


 楽園に向かう魂の歌。

 この曲を知って、いままでどうやってこの曲なしに生きてきたのかとまで思う。

 愛を謳う、うた。

 切実に。情熱的に。不可侵に。


 ──ただ、熱愛する。

 ──ただ、切望する。


 煌びやかなピアノに、輪をかけて輝かしいヴァイオリンが優しく、しかし力強く歌いあげる。


 ──そして、あなたは私が心の平安を見いだすことのできるただ一人のかたに違いない。


 たたみかけるように。

 囁くよりも優しく。

 叫ぶよりも強く。


 ──そして、あなたは永遠に私の大切な愛しいかたでありつづけるのだ。


 朗らかに、そして誇らしげに歌う。


 綺音の表情に、ほんのわずか、やわらかな微笑がまじる。

 天から降りそそぐ光を全身に浴びるかのような、あるいは、急速に天に舞い上がるかのような昂揚感。


 この途轍もない享楽。

 この途方もない愉悦。


 微笑みが自然にこぼれてしまう。

 平安に満たされて、豊かな心地で充足する。

 あたたかく、幸福感に満ちた終結。

 しばらくは誰もが拍手を忘れた。


「……きれい……」

 真理絵が呟いた。

 その声を契機に、晶人が拍手を始める。

 全員が、それに続いた。

 ヴァイオリンを下ろした綺音の顔に、満開の花のような笑みが浮かぶ。


 美弦が立ち上がると、姉弟は揃って頭を下げた。


 拍手の音が高まる。


「アンコール!」


 調子に乗って、美月が叫んだ。

 それに奏と咲子、真理絵も便乗する。


「アンコール! アンコール!」


 綺音は美弦と顔を見合わせる。にこっと笑った美弦に、綺音は頷いた。一瞬で、ふたりは曲を決める。こういうときの曲目は、盛りあがる、あの曲だ。


 ピアノによる序奏のあと、気だるげな主題がヴァイオリンで奏でられる。ゆったり、もったりとしたクリームのような、少し重めの旋律。深い味わい。


 ヴィットーリオ・モンティ作曲。チャールダーシュ。


 もともとマンドリンのために書かれた曲ではあるが、どちらかというとヴァイオリンの曲として有名だ。


 唐突に速い、べつの主題。

 奏が手拍子を始めると、皆もそれに倣った。


 テンポが変わり、途中で重音の旋律が入る。手拍子も緩やかに変化させられる。


 思わしげなフラジオレット。浮遊する音の波。


 心なしか、手拍子が小さくなる。


 そして、また急速な主題。

 盛りあがり、三人娘は楽しげに手拍子する。速まり、高まり、饒舌につづく主題は、ときおり速度を落としながらも息せききって駆けていく。


 手拍子がばらけたが、奏と結架は曲を知っているので、終結部分の拍子も間違えずに叩けた。


「ブラボー!」


 美月が立ち上がり、叫ぶと、皆も立ち上がった。

 手拍子が、そのまま拍手になる。


「よかったよ、綺音。美弦くん」

「ありがとう」

「ありがとうございます」


 ぺこり、と二人が頭を下げた。


「どうかな? 晶人くん。綺音のヴァイオリン」

 我慢できない、というように真理絵が訊いた。

 晶人の視線が真理絵から、綺音へと移る。

「……。」

「オーディションの結果は?」

「どうなの?」

 女の子たちは、気が短い。

 晶人はすぐには答えなかった。

 ちらり、と、何故か奏を見やる。


「……合格」


「やったー!!」


 綺音が跳ねた。

 万歳をした後、ヴァイオリンと弓を左手でもち、右手で弟とハイタッチする。


「よし! 新入部員確保は約束された!」

 美月がガッツポーズをとると、皆は笑った。


「さっそく、曲を決めないとね」

「このチャールダーシュは決定で」

「あとは? 超絶技巧ばっかりだと、引かれるかもしれないよ」

「クライスラーかサラサーテがいいんじゃない?」

「断然、モーツァルト!」

「んー、ヘンデルも捨てがたいよ」

「バッハがいい~」

「今回はバッハ却下!」

「うええ~ん」


 女子四人衆が盛り上がるなか、結架がくすくす笑いながら言った。


「でも、そろそろ皆さん、お腹がすいたでしょう? お昼にしましょうか」


 サンドイッチにオニオンスープ、チキンのグリルと茸サラダが待っている。そう結架が言うと、幾人かが歓声を上げた。


「もう、お腹ぺっこぺこ」


 綺音がお腹を撫でる。

 その様子に、奏と少女たちは微笑んだ。

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