第15話 哀切漂うヴィターリ
榊原家のトイレは広々としている。美月も真理絵も、感心しきりだった。
「すごい。豪邸の規模だよね」
「ほんとね。綺音ちゃんってば、こんな良家のお嬢様だったんだ」
「古い家ですよ。結構、傷んでます」
背後から美弦の声がして、ふたりは跳びあがりそうなほど驚いた。
「あ、ごめんなさい。驚かせてしまったみたいですね」
「や、いやあ、大丈夫―」
「うん。なんともないから」
綺麗な美弦の顔に、かすかに微笑がうかぶ。
ふたりは見蕩れてしまった。
「……この家、マンマの実家なんです。パーパもマンマも、ここがあまり好きではないみたいですけど、まるで縫い取られているみたいに、動けないんです」
「えっ……どうして?」
美弦は可愛らしく小首を傾げた。
「さあ。僕にも、わかりません。でも、そんな感じがするだけ」
ふたりは反応に困る。美弦が満面に笑んだ。
「戻りましょうか。そろそろ、綺音も体力が回復したと思います。ご協力くださって、ありがとうございます」
「へっ?」
「え? あ、ああ……そういうことだったの?」
「次はどうしようかなぁ」
美弦が歩きだす。そのゆったりとした歩調に、美月と真理絵は顔を見合わせた。しかし、何も言わず、彼についていく。
ピアノ室に戻ると、綺音と晶人がヴィターリのシャコンヌについて語らっている最中だった。結架がどうやら、スマホでふたりの様子を撮っている。奏と咲子は所在無げにしている。美弦は苦笑した。
「なんで、この曲を選曲したの?」
「それを話したら、オーディションで聴かせてもらう意味が半減……まあ、いいか。単純に集中力をはかるためだよ」
「無伴奏ソナタでは、足りない?」
「一曲を通して弾くのとは、違うからね」
「綺音」
美弦が声をかけると、綺音は振り向いた。頬が普段よりも上気している。
「あ、美弦。弾ける?」
「うん。いいよ、ごめんなさい、皆さん。お待たせして」
美月と真理絵がさらに顔を見合わせたが、黙って首をすくめ、事の成り行きを見守った。
美弦がピアノの傍に近づき、椅子に腰かける。綺音もその傍、美弦の視界の中央に立った。
美弦がラの鍵盤を叩く。これはもう、ふたりにとって、癖のようなものだ。実際には大切な音合わせの作業だが。綺音が同じ音を出して、その高さを確認する。どうやら一致したようで、ふたりは頷きあった。
「じゃあ、いくよ」
「いいよ」
姉弟は、にこり、と笑った。
ピアノの音がゆったりと、荘重に響く。和音が下がり、上がって離れていく。
悲しみに溢れた旋律が綺音のヴァイオリンから流れ出た。涙にくれ、悲歎に沈んだ。その優美さに、全員が小さな吐息を放つ。技巧的な走句に、戻ってくる主題。その変化。
ピアノとともに高まる重音。
技巧と主題が交互に繰り返されながら発展していく。
さらに変化する主題。
高まる悲劇的な表現と、音の洪水。
またもや変わる主題の音型。
静かながらも、憂いに満ちた重音の響き。
どこまでも変わる主題の音型。どんどん技巧的になっている。
そして戻ってくる、もとの主題。
そう思わせて、またも主題は変化する。
息つく暇もない嘆き。
悲哀の興奮。カデンツァ。
そして、終息。
美しい重音で終わる。
音が消えると、全員が拍手した。
「すごい! 綺音、かっこいい!」
「綺麗だったぁ」
「ほんと、すごく素敵」
少女たちが歓声を上げる。
「ありがとう」
お礼を言いながらも綺音の視線は晶人に向いている。その彼は、小さく頷いた。肩で息をしながら、綺音が微笑む。
そのとき。
壁のライトが点灯した。
「あら」
結架がスマホを下げる。
「誰か、いらしたみたい。ごめんなさいね」
そう言って結架が立ち上がる。そのまま彼女は「ちょっと失礼するわ」と、部屋を出て行った。
たちまち綺音は少女たちに囲まれる。
「ヴィターリって、こんなに綺麗な曲を書いたんだね」
綺音が首を横に振る。
「ああ、違うの。ヴィターリと言われているけれど、その証拠はなくて、曲自体もフランスの音楽学者シャルリエに編曲されていて、もとの曲とはかなり違ってるみたい」
「そうなの?」
奏が微笑みながら言った。
「バロックのもとの楽譜は基本の音型しか載ってなくて、奏者の即興演奏に委ねられているものなんだよ。だから、〝バロック音楽は最も自由なクラシック音楽〟、なんていう言葉もある」
咲子が目をきらきらさせた。
「へええ、ジャズみたいだね」
「うん。似てるかも」
綺音が頷いて、
「だから、わたし、バロックが大好き。音楽は作曲家だけのものじゃないわ。演奏家のものでもあるの。その個性を上手に引きだしてくれるのが、バロックの楽譜」
晶人が肩をすくめ、
「実際、コンクールでは、そうはいかないけどね。楽譜どおりに弾くのが唯一絶対だから」
美月が驚き、
「ええっ。基本形だけで弾くの?」
「まさか。編曲者が編曲した、現代譜という楽譜、そのままを弾くのさ」
晶人が答える。
そこに、美弦が口を挟んだ。
「この曲をバロックと言うには、僕は反対ですけど」
「それは、わたしだって、一応そうよ」
「そうね」
美弦の言葉に綺音と真理絵が頷く。
不思議そうに美月が首を傾げた。
「へえ。なんで?」
「転調が大胆すぎるの。様式も、どちらかというと一八世紀か一九世紀のもので、ロマンそのもの。ちょっとバロックとは言いがたい、かな」
美弦が穏やかに話しはじめる。
「この曲を最初に紹介した人は、メンデルスゾーンのコンチェルトを初演していたフェルディナント・ダーヴィトという人で、彼が参照したのは手稿譜ですが、ヴィターリの自筆ではないんです。一七二〇年前後、ドレスデンの宮廷音楽家リンダーによって書かれたものだそうですよ」
「ドレスデン?」
「ドイツのザクセン州の州都だね」
咲子の問いに、すらすらと晶人が答えた。
「今日演奏した版は、さっき綺音も言っていましたけど、ダーヴィトの版を編曲した、フランスの音楽学者レオポルド・シャルリエの版です。リンダーの手稿譜とは、まるで違っているそうですよ」
ふたたび咲子の目がきらきらと輝く。
「へええ。それ、弾けるの? 綺音」
「弾けない。知らないもん」
「なぁんだ、残念」
「ごめん」
「謝ることないよぅ。思いつきだから」
慌てて咲子が両手を振った。
そこへ結架が戻ってきた。
「お待たせして、ごめんなさいね。奏くんのお母さまが、熱々のチキンのグリルを持ってきてくださったの。オーブンで保温してあるから、あとでいただきましょうね」
またもや少女たちの歓声が上がった。
晶人が結架と奏に礼を言う。結架はにっこりと、奏は照れたように微笑んだ。
「マンマ。まだ、一曲あるから」
「そうね。綺音の本命ね」
真理絵が、
「本命?」
問いかける。
「そう。パーパの新譜にあった曲」
「ああ……」
一同は頷いた。
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