第14話 香り高いバッハ

 紅茶のカップを手にしながら、奏がちらちらと壁の時計を眺めるのを、結架は面白そうに見つめた。


 ──あと10分。


「そろそろね」


 結架の声に、奏がびくりとする。

 カップを下ろした結架が、笑顔で立ちあがった。


「綺音を呼んでくるわ」

「あの、ぼくも」

「だーめ」

 歌うように、綺麗な声が笑った。


「ごめんなさいね。あの子にも自尊心プライドがあるのよ。少し、待ってあげて頂戴」

「?」

「わからなくていいの。お願いね」

 そして、結架がふわふわと去っていくのを見つめ、奏はため息を吐く。


 そのまま結架はピアノ室に入っていった。まだ、ヴァイオリンは鳴っている。

「綺音。時間よ」

 コンクール前と同じ、姿勢を正す時間。

 それを呼びかけられて、綺音は振り向いた。


「マンマ……っ」


 思っていたより出来が悪いらしい。


 結架は綺音に手を差しのべた。すると、ヴァイオリンと楽弓を持ったまま、綺音が胸に飛び込んでくる。

「どうしよう。全然、パーパみたいに音が鳴らないよ」

 結架の左手が綺音の背中を撫で、右手が腰を優しく叩く。

「どうしよう。オーディション、落っこちちゃうかも」

 ──皆、期待してるのに。期待してくれてるのに。

 声が出なくなった。

 その背中を、結架の左手が宥めるように撫でる。


「いいのよ、綺音。あなたは、あなたの音を奏でればいいの。パーパの音を出す必要なんてないのよ」

「でも、マンマ」

「はい、深呼吸」

 言われるがまま、綺音は深呼吸をした。

「ん、いいわ」


 結架の微笑に、綺音はほっとする。


「美弦。ちょっと替わってくれる?」


「うん」


 結架はそっと綺音を身体から離すと、

「5分だけね」

 小さく言って鍵盤を叩きだす。美弦とは違う、きらきらと輝くような音。チェンバロにも似た。


「さあ、いつでもどうぞ」


 その声に導かれるようにして、綺音はヴァイオリンを構える。力強く楽弓を動かした。その強さとは裏腹に、優しい音色が響く。

 ──僕の伴奏のときとは違う。

 美弦は心の中で思った。


 晴れやかで、涼やかな音色おんしょく

 高らかに、朗らかに。

 唯一の人への愛を謳う。


 ヴァイオリンの主旋律が止むと、結架は手を止めた。

「どう? これでもダメかしら?」


「ううん……できた。と、思う。でも、なんで……?」


「僕のせいかな」

「あら、違うわよ、美弦。綺音の気持ちが、明るくなっただけ。美弦のせいじゃないのよ。私のせいでもない。綺音の気持ちが、そうなったから」

 結架が立ち上がる。


「私たちは演奏家よ。心が演奏の良し悪しを左右するわ。だから、心を安定させておかなければならないの。それだけで、こんなにも音が違う」


 結架は思いだしていた。

 罪悪感に押しつぶされて、ピアノを弾けなくなっていた頃のことを。

 あのころは、ピアノの音そのものがやいばのようだった。心臓をえぐられ、切り刻まれるかのような。

 それを、夫に救われた。

 今では、彼とともにピアノを演奏することも出来る。

 もう、罪悪感はない。

 むしろ、もっと弾くべきだと感じる。それが鎮魂となり、供養となるのだと。


「そんなに焦らなくていいの。綺音は集一と私の娘よ。オーディションの結果がどうあれ、あなたは特別な子なのだから」


 両手で娘の頬を包み、結架は愛情をこめて言った。


「大丈夫。心のままに弾きなさい」


 綺音は両目を閉じた。そして、ひらいたとき、その瞳は自信に輝いていた。


「はい、マンマ」


 結架が頷く。そのとき、壁のライトが点灯した。誰かが門のチャイムを鳴らしたのだろう。綺音の学友たちだ。


「いらしたみたいね。お迎えして来るわ」

「はい。美弦、ごめんね。ありがとう。今日はよろしくね」

 愛らしい口もとに、微笑がうかぶ。

「うん」


 やがて、結架が奏とともに晶人たちを連れて来た。

「綺音ぇ~、あんた、こんなお屋敷のお嬢様だったなんて、聞いてないわよ~」

 美月が綺音の頬を引っぱる。


「おひょーひゃまやにゃいもん」


 ヴァイオリンと楽弓を持っているので、逆らえない。しかし、美月に反論した綺音の言葉は誰も信じなかった。


「凄いおうちだね。わたし、ここってレストランとか結婚式場か何かだと思ってた」

 咲子が言うと、真理絵も頷く。


「うん。なにかの施設としか思えない大きさだよね」

「そう?」

 生まれたときからここに住んでいる綺音と美弦には、ピンとこない。それは結架も同じだが。

「……それより」

 晶人がじっと結架を見上げる。


「今日はお邪魔させていただいて、ありがとうございます。綺音さんのクラスメイトの、蔵持 晶人といいます」

 慌てて少女たちも自分の名前を告げる。


「中村 咲子です」

「日比野 美月です」

「加川 真理絵です」


 結架はにっこり微笑った。

「綺音と美弦の母で、榊原 結架です。ごめんなさいね。家族全員で、とのことなのだけれど、二人の父親は、いま、アメリカにいるの。ここにいられないのを残念がっていたわ」

「仕方ありません。お仕事ですから」

 晶人がきっぱりと言った。


 何故だか綺音はほっとする。家族の前で、と言いだした彼の真意は解らないが、絶対条件だと言われなくて良かった。それが断る口実になるからだ。

 彼は、ちゃんとオーディションをしてくれる。


 ──よし。しっかり、心をこめて弾こう。


 そう決めると、落ちついた。

「どうしましょうか。ここにご案内してしまったけれど、さきにお茶とお菓子にする?」

 緊張感のない母親に、綺音はがっくりする。

「──いえ、できれば、演奏を先に聴かせていただきたいです」

 晶人の言葉に綺音は頷いた。


「いいわ。美弦、よろしくね」

「うん」


 美弦がてくてくと部屋を横ぎり、壁を開ける。そこは、収納庫になっていた。パイプ椅子を人数分、取りだしていく。それを各々が受けとった。

「ありがとう」

 晶人に渡したとき、美弦の両眼がきらりと光ったように見えたが、それは一瞬の変化だったので、奏は何も言わずにおいた。

 それぞれが、椅子に座る。


 美弦も、最初は母親の隣に置いたパイプ椅子に腰かけた。今から綺音が演奏するのは、無伴奏ソナタだ。


 綺音が大きく息を吸い、ヴァイオリンを構え、吐きだす。

 楽弓で軽く音をかき鳴らし、弦をはじいた。

「いつでもいいわ」

 晶人が首を縦に振る。


 綺音は不意に弾きだした。

 憂いをたっぷりと含んだ旋律。それでいて、冷静な音の列。細密な旋律。アダージョ。


 静かに高まる緊張の波。活力。一人で弾いているとは思えない、音の厚み。挟まれる重音の巧みさ。フーガ・アッレグロ。


 一度は引いていく波。けれど、そこには隠された情熱がある。そうでなければ、これほど美しくは鳴らない。シチリアーナ。


 突如訪れる激しさ。いままでこの情熱を隠していたのかと愕然とする。迸る力と、躍動感。プレスト。


「超絶技巧……」

 奏が囁いた。

 重音で曲が終わる。


 綺音は肩で息をしていた。


「すごい!」

「バッハって、こんなにもカッコいいんだよね」

「パルティータもいいけど、ソナタもいいわね」


 全員が、それぞれの熱で拍手した。

 時間にして、17分ほど。弾ききった綺音は、憂悶の表情をした。このあと、ヴィターリのシャコンヌを8分以上も弾きこなす自信がないのだ。先ほどまでの練習時間も考えれば、特に弦を押さえる左手の指は、疲れが重い。そのとき、美弦が立ち上がった。


「どうしたの?」

「ごめんなさい。ちょっと、失礼して、手を洗って来てもいいですか」

「もちろん。行ってらっしゃい」

 結架が微笑む。皆も頷いた。


「あ、あたしも行きたい」

「じゃあ、私も」

 美月と真理絵も立ち上がる。

「それじゃあ、僕と一緒に来てください」

 美弦は入口のところで振りむいた。


「綺音。ごめんね、座って待ってて」

「うん、わかった」

 素直に従う。よほど疲れているらしい。


「……どうだった?」

 我慢しきれず、綺音は晶人に尋ねる。

「全曲、聴かせてもらってから、答えるよ」

「なぁんだ。がっかりー」

 ここにきて初めて晶人が声を立てて笑った。

 綺音は、どきりとする。


 ──なに、この笑顔。超っ、かわいい!


 いわゆる美少年の笑顔は美弦で見慣れているので免疫があると思っていたが、この威力は彼にはないものだ。綺音は楽弓をぎゅっと握って、動悸を収めようとする。どき、どき、と、人間メトロノームになった気分だ。


 物憂げな奏の視線に気づいた咲子は、はらはらした。


 ──綺音、綺音。そんな頬を染めて蔵持くんとばかり話しちゃ、奏くんが可哀そうだよぅ。


 そう思ったが、口に出して言える性格ではない。


 ──わぁん、美月ちゃん、早く戻ってきて、なんとかしてぇ。

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