第11話 転校生

蔵持くらもち 晶人あきとです。どうぞ、よろしく」


 その少年は、声も姿も涼しげだった。


 きりりとした眉、大きな瞳、すらりと通った鼻筋。

 さらさらとした漆黒の髪。

 クラスの女子全員が、そして男子も数名が頬を染めて見つめるほどに整った姿。


「じゃあ、蔵持くんは榊原さんの隣の席で。榊原さん」

「はい」

「いろいろ教えてあげるように」

 満面の笑みが、絶世の美貌を彩る。

「はい」


 空席にやってきた晶人は、笑顔の綺音に小さく言った。

「よろしく」

「……こちらこそ」


 ちらりとした微笑すら見せない晶人に、綺音は緊張しているのだろうかと思った。


 鞄の中身を机の中に入れ、席に着く彼を、綺音はじっと眺めた。


「……なに?」


 そう訊かれるのも無理もないほど見つめていた。


 綺音は屈託なく、

「ううん。ただ、綺麗だなと思って」

 晶人は全く動揺も狼狽も見せず、ごく自然に応える。

「榊原さん、だっけ。きみこそ綺麗だよ」

 一瞬、綺音は息をのんだ。頬が熱くなるのを自分でも感じる。いつも、言われ慣れている言葉なのに。


「……ありがとう」


 そのときの綺音の表情を見た奏は、胸がずきりと痛んだ。

 それは、はじめて見る表情だった。

 うっとりと潤んだ大きな鳶色の瞳。いつもより上気した頬。うっすらと浮かんだ微笑。それは、いつもの無邪気な笑みとは違う。一度も見たことのない……。


「よお。おれ、藤田智弘ともひろ。よろしくな、晶人」


「いきなり呼び捨て!? しかも、名前で!」


 美月がチョップを繰りだす。それを避けながら、


「だって蔵持って呼びにくい。だめか?」

 はじめて晶人は微笑んだ。

「いいよ。僕も、智弘って呼んでいいかな」

「もちろん」

「あ、じゃあ、あたしは美月よ。隣の美少女は綺音ね」

「ふたりとも、綺麗な名前だ」

「あ……ありがと」

「ありがとう」


 その微笑みこそ、綺麗だと綺音は思った。きっと美月も同じ気持ちに違いない。


 ただ、奏には何か違和感があった。これだ、という確かなものではない。しかし、何か引っかかるものが。

 じっと見つめていると、奏の頭に大きな手が乗せられた。

「こらー。授業はじめるぞ」

「す、すいません」

 慌てて前へ向きなおる。


 けれど、後ろの晶人と綺音が気になって、奏は集中できなかった。


 晶人が優秀だというのは本当らしい。


 彼の勉強の進み具合を確かめるためか、どの授業でも、彼は教師に当てられた。そして、そのどの問題も、見事に解いてみせたのである。


 時間が経つごとに、女子たちの視線に熱が高まっていくのが奏にも分かった。そう、綺音のそれにも。


「すごいね、晶人くん」

「……以前の学校が進んでいただけだよ」

「でも、パーフェクトじゃねーかよ。胸、張っていいぜ」

 美月がにやりと笑う。

「藤田はとてもじゃないけど胸張れないもんね」


「日比野も失礼なやつだよな。晶人、気を抜くなよ。このふたりの失礼さは学年一だからな」


「ひっどい、藤田くん。わたしたちに言われるような自分のこと棚に上げちゃって」


「そーよ。あたしたち、ほんとのことしか言ってないわよ」


 しかし、彼はくっくっと笑った。

「ほらな、失礼だろ」


 しかし、晶人は曖昧に微笑むだけだった。

「それより、お昼ごはん、どこで食べる?」

 この学校は、昼食時間が唯一の自由時間であるともいえる。綺音は大抵、奏や美月たちと音楽室で食べている。昼食後の掃除も、音楽室だからともいえるが。


「いつもの場所でいいんじゃない? 藤田は彼女と一緒でしょ。あたしたちは、いつものメンバーで。いつもの場所で」

 奏と咲子が、お弁当を持って近づいてくるのを手を振って迎えながら、美月が言った。


「晶人くんも来るでしょ?」

 ヴァイオリンケースをかつぎながら綺音が訊くと、彼は戸惑ったような表情を見せた。


「え、いや、僕は──」

 瞬間的に察知した綺音は、ぱっと晶人の腕を掴む。

「行こ!」

「えっ」

 左手にお弁当、右手に晶人の腕を掴んで、綺音は駆けだす。彼が逃げだそうとしているかのように。


「こら、榊原! 廊下は走るなよ!」

「ごめんなさぁーい」

 教師の怒声に、明るい声で謝辞を叫ぶと、歩調を緩める。


「昨日、アメリカから、コンパクトディスクが届いたの。パーパの新譜。一緒に聴いてほしいな」

「榊原さんのお父さん……?」

「綺音って呼んで。わたしのパーパ、オーボエ奏者オーボイスタなの!」


 音楽室の扉を開け、机にヴァイオリンケースを置く。お弁当の包みからディスクを取り出し、オーディオセットの前に立つ。ディスクトレイを開けると、葡萄酒色の綺麗なディスクを載せた。


「皆を待たなくていいのかい」

「うん。たぶん、そのうち来るから」


 綺音は再生ボタンを押した。


 チェンバロと弦楽器の光り輝く音楽が流れだす。すべてを許し、すべてを救い、すべてを受けいれる愛の歌。


「食べよ」


 ふたりは席に着き、お弁当を広げた。

 高らかに、誇らしげに鳴り響くオーボエ。

 艶やかな音色。


 しばらく黙って聴きながら食べていた綺音が、ぽつりと言った。


「あ~あ。マンマが悔しがるなあ。こんな良い曲、パーパだけで録ってくるなんて、って。鞍木の小父さま、大変」

「綺音……さん、の、お母さん?」

 ミートボールにフォークをさしながら、綺音は頷いた。


「さん、は、なし。──そ。わたしのマンマ、チェンバロ奏者チェンバリスタだから」


「え!?」


 晶人が停止する。


 それを不思議そうに見つめた綺音の耳に、奏の声が聴こえた。

「綺音ー」

「奏ちゃん」

 続いて、美月と咲子、真理絵が入ってくる。

「あ、今日は新譜?」


 ウェーブヘアの真理絵が嬉しそうに尋ねた。


「そう。パーパの」


 三人の少女は綺音を囲んで、奏は晶人の隣に座る。


「綺麗な曲」

「ね。マンマが悔しがりそうでしょ」

「綺音も悔しいんでしょ?」

「わたし?」

 咲子の問いに、思わず苦笑がこぼれ出る。


「そうかも。そうね。悔しいかな。パーパが帰ってきたら、合奏に付きあってもらうわ!」

 女子たちが笑いさざめく。

「じゃあ、ひと足先に、ここで蔵持くんに伴奏してもらったら?」


「え?」


 真理絵の提案に、全員が驚いた顔をする。

「あれ? なんか、変なこと言った?」

 オーディオが次の曲を流しだす。


「あれ? 蔵持くんって、ピアノの名手なんでしょ。聞いた曲をすぐにコピーして演奏できる、コピーピアニストって有名じゃない」

 真理絵もピアノを習っている。本人は、趣味のひとつだ、などと言っているが、幼いころはコンクールにも出ていたらしい。


「そこまでは知らない。そうなの?」


 綺音は思わず本人に尋ねてしまう。彼は、無表情だった。

 返事をしない。


「なんで真理絵が知ってるの?」

 美月の問いに、真理絵の表情が困惑に曇る。


「やだ。皆、ほんとに知らないの? というか、憶えてないの? 三年前、美弦くんが二位だった武嶋音楽コンクールで、蔵持くんが一位だったじゃない」

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