第9話 朝のソナタ
やがて綺音が美弦に声をかける。
「美弦。いい?」
楽譜から顔を上げた美弦が答えた。
「いいよ」
楽譜を譜面台にセットし、美弦が鍵盤の上に指をかざす。そして、単音と和音を弾き奏で始めた。綺音と奏は楽弓を楽器に添わせる。
チェンバロよりも夢幻的な、モダンな響き。
より広がる音のクリアな響き。
綺音は前日よりも感情をこめた、演歌的な表現で弾きはじめた。より強弱のアクセントをつけ、重音のささやかさを情感豊かに弾く。
チェンバロが、ジャラランシャラランと鳴るなら、ピアノはパラランポロロンと鳴る。より軽やかで、ソフトながらも声量のある音。それに合わせて、薄めの音で弾こうとしていた奏は驚いた。しかし、濃厚な綺音の表現は、すこし乱れた美しさを放った。
寝乱れた美女のような。
それでいて、楽節のどこにもいいかげんなところはない。
テンションが高いな、と奏は思った。
音とともに、次第に高まる表現。
激しいほどの重音。
急流を流れるような旋律。
想いのたけをこめた、トリル。
静かに減衰する、終音。
楽弓を楽器から離して、しばらく綺音は体勢を保ったままだった。
「……うん。美弦、ありがと」
ぼくにはないのか、と奏は胸のなかで呟く。
「満足した?」
「う~ん、満足っていうか……」
綺音が言いよどんだ。
「感情の総てをぶつけるような弾きかたって、西澤先生に叱られるから……気持ち良かったっていうか……」
奏も美弦も黙って彼女の言葉を待つ。
「もっと
「そうかなぁ」
美弦が楽譜を凝視する。
「第三楽章だって端正だよ。バッハに退廃的はちょっとな。一音一音への計算が細密すぎて、そこから外れるのが似合わない」
「でも、いまの綺音の演奏は厭世的なくらいだったよ。鬱々として、でも力強くて。重音のほうが繊細で、そのへんが退廃を狙ってるんでしょ」
綺音の表情が明るく輝く。
「うん! 曲調はセンサイだけど、旋律は力強いと思うんだ。だから、ギャップの表現がタンビなわけよ」
楽弓を振るっての熱弁。
そして、なにを思ったのか。綺音は椅子に座った。
「奏ちゃん、弾いて。美弦、伴奏お願いね」
奏と美弦は目をぱちくりさせる。
しかし、綺音は目を閉じて、完全に聴く態勢だ。
「……じゃあ、美弦、よろしく」
「うん」
再び単音と和音の前奏が響く。
奏は楽弓を優しく動かした。
優美で艶めく音色。
軽い重音。
流麗な旋律には無駄な力がいっさい入っていない。そのぶん冷静で、情熱をこめた重い重音のときの情熱が引き立つ。
注意深いトリルに、終音。
奏が楽弓を下ろすと、綺音が目を開けた。
「……色っぽいよね」
美弦が小さく笑ったのを聴きとって、奏は目を剥く。
「そうだね。綺音より色っぽいよ。だって、綺音は
「ブルスコ?」
聞きかえすと、綺音がちらっと美弦を見て、鼻を鳴らした。
「荒々しいってこと。でも、美弦。昨日は、ていねいーに弾いたのよ。でも、なんか、つやっぽさは奏ちゃんに負けちゃうのよ」
「じゃあ、昨日みたいに弾いてよ」
「ええー、気分じゃないなぁ」
「でも、自信はあるんでしょ? 奏のと、聴き比べしてあげるから」
美弦のさらっとした申し出に、綺音の闘志に火がついた。
「……いいわっ」
すっくと立ち上がり、ヴァイオリンを構える。赤茶色の光沢が眩しい。
「いつでも、どーぞ」
じゃあ、と美弦が鍵盤を叩きだす。
綺音の楽弓が滑らかに旋律を響かせはじめた。
さきほどの勢いはない。
本人の宣言通り、丁寧に、やわらかに、ふわりと音を生みだしていく。軽やかに、しかし表現は
透きとおるような高音。
澄みきった重音。
やさしくたゆたう低音。
丁寧さでは、慣れたぶん、今朝のほうが前日よりも細かい。繊細な上品さを響かせる。
途中で美弦が手を止めた。綺音もすぐに反応する。
「もういいよ。わかった」
「え?」
「ピエネッツァ・ディ・アモーレ!」
イタリア語が分かる綺音も、イタリア語が分からない奏も、首を傾げる。
「愛で満ちてる? どういうこと?」
綺音が不満げに訊くと、美弦はにっこり笑った。
「綺音は恋とか愛とか知らないでしょ? まだ、そういう経験ないよね。だからさ、切ない気持ちを無意識に曲におくりこむことができないわけ。そういう表現が、奏みたいに意識せずにできれば、艶っぽさが出るんじゃないかな」
綺音は、ますます不満げな表情になった。
「なにそれ。奏ちゃんは恋とか愛とか知ってるっていうこと?」
内心で奏は慌てた。
──美弦~!
けろりとして、そして何もかも解ってるよというような表情をして、美弦は言った。
「奏は恋を知ってるんでしょ。見てれば解るよ」
「いやいやいや、美弦!」
「なぁんで、わたしが知らないのに美弦が解るっていうのよ~。おもしろくないなぁ」
不機嫌な綺音も可愛い。
いや、そうではなくて。
奏は慌てふためいた。
「知らないよ、恋なんて」
「そう? 僕には恋しているように見えるけど」
「え~、ずるい~。ひとりで大人になっちゃって」
話の方向があらぬ方へと向かって、奏はたじたじとなる。
手に汗がにじんで、楽器が滑りそうになった。
「誰?
一転して、瞳がきらきらとしている。
勘弁してくれ、と奏は思った。
「クラスでときどき話すだけの子たちでしょう。恋なんてしてないよっ」
想いきり否定する。
すると、美弦が呟くように言った。
「そうかな? 自覚があると思ってたけど」
「みつるっ」
美弦が小さく笑った。
「ごめん、奏。でも、そう思ったんだ。昔の初恋の気持ちとか?」
「……そうだね。昔ね」
これ以上否定しても綺音が
「ええ~、いつの話?」
「……あかんぼのころ。産院の隣のベッドにいた子だよ」
適当な作り話としか思えないことを言ってやる。
綺音が頬を膨らませた。それでも彼女は可愛い。
「なにそれ! いいわよ、話したくないなら。無理に聞こうなんてしないもん」
ふいっと綺音がそっぽを向く。
奏がじろりと美弦を見やると、彼は楽しそうに微笑んでいた。
その、みどりを帯びた茶色の瞳が、悪戯好きの子猫のように笑む。
わかってしまっているんだろうか。
奏は不安に思った。
しかし、美弦はそれ以上は何も言わず、ただ微笑んでいる。
「……もいっかい、一緒に弾こ。そしたら時間でしょ。マンマがパンケーキ焼いてくれてるから」
彼女の朝食のリクエストらしい。
話が収まったようなので、奏は安堵した。
「美弦」
姉の呼びかけに、彼は頷く。
「いいよ」
そして、三人は朝のソナタの中に身を沈めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます