第8話 美弦と奏

 翌朝。


 5時に目を覚ました奏が制服に着替えてから隣の綺音の部屋の扉を叩くと、珍しいことに返事があった。しばらくして、すこし顔色の悪い彼女の顔が扉の隙間に現れる。奏はびっくりしてしまった。


「綺音。クマできてるよ」


 綺音はむっとしたようだったが、それについては何も答えなかった。


「音楽堂に行きましょ。美弦は起こしてくれた?」

「いや、まだ」


 彼女は一瞬、黙りこんだ。


「わたしも制服に着がえるわ。美弦を起こしてきて。で、一緒に音楽堂に来て」


 そして、奏の返事を待たずに扉を閉めてしまった。


 どう見ても寝不足の顔だった。


 多少なりとも心配に思ったが、彼女が言いだしたら聞かないことは判っていたので、奏は今度は向かいの美弦の部屋の扉を叩いた。返事はない。


「美弦──」

 扉を細く開け、中を覗きこむ。


 クリーム色の壁紙に、モスグリーンの天井。

 小ぶりのシャンデリア。

 アンティークのようなライティングビューローに、ガラスの扉がつけられた本棚。

 同じくアンティークのようなチェスト、カウチソファ。


 色合いは落ちついた茶色ではあるものの、乙女の部屋のようだった。


 広いダブルサイズのベッドに、美弦が眠っている。透けるような白い顔に、ばら色の頬。長い睫。整った眉。高い鼻梁。濃い色の唇。数秒間、奏は不覚にも見蕩れた。


 我に返り、

「……眠り姫か」

 小さな声で突っ込むと、奏はベッドサイドに立った。


「美弦」


 呼びかけてみる。

 返事はない。


「あー、ごめん、美弦。起きてくれー」

 肩を揺さぶってみた。


 何度目かの呼びかけで、漸く長い睫が震えた。眉間に皺が寄る。


「うー……奏?」

「おはよう、美弦」

 ほっとして呼びかけると、彼は瞬きを繰りかえした。


「……おはよう」


 美弦はとても聡い。何も説明しなくても、状況をのみこんだ。


「綺音は音楽堂?」

「そう」

「初見で伴奏?」

「そう」


「……わかった。顔を洗って着替えるから、ちょっと待って」


 あくびをして伸びをしながら、美弦は起き上がった。


「ゴメンネ」


 そう言うと、美弦は平然と「うん」と返事をしながら、ライティングビューローの横にあるモダンな造形がちょっと異質な銀色の箱を開けた。それは冷蔵庫で、なかには愛飲している白神山地の水が冷やされていた。


 寝起きの場合、いつもなら彼は常温の水を飲む。しかし、このときは冷えた水を選んだ。眠気をさますためだろう。


「……奏もいる?」


 親切にも差しだされたペットボトルを受けとり、奏は礼を述べてから封を開けた。超軟水は柔らかくまろやかで、とても美味しかった。この気づかいの差が、綺音と美弦の違いである。


 恐縮する奏を意に介さず、美弦は隣の洗面所に向かった。この家には、寝室の数と同じだけ洗面所とトイレがある。浴室は二階と三階にあり、大人用と子供用に分かれているのだという。また、ゲストルームにも浴室はあるらしい。どこかの高級リゾートホテルのようだ。掃除が大変な気がすると奏が感想をもらしたとき、「洗面所とトイレは主な使用者が毎日やるんだよ、掃除」と、もう少し幼いころの美弦が言っていた。それはそれで大変そうである。


 戻ってきた美弦は、既に制服に着替えていた。


「じゃあ、行こうか」


 美弦が言った。


「よろしく」


 奏が答える。


 なにしろ、このお屋敷は本当に広いので、何度も泊まりに来ている奏でも迷いそうなのだ。


 さすがに住んでいれば順路も覚えるようで、美弦は何の躊躇いもなく廊下を進んだ。階段を下り、廊下を曲がり、中庭に出る扉を開けて外に出る。


 ひんやりとした空気が朝露を含んでいて、涼しかった。


 鳥の囀りが2人に挨拶をしてくる。

 薔薇とジャスミンの茂みが蕾をふくらませている。


 沈黙したまま、二人は庭を歩いた。


 やがてヴァイオリンの音が聴こえだす。いつもの、ヴェラチーニのエチュードだ。


 音楽堂に入るころ、それは、ドントのカプリースになっていた。


「綺音」


 声をかけると、彼女は楽弓を下ろした。


「おはよ、美弦」

「おはよう、綺音」


 姉弟の朝の挨拶のあと、綺音は奏に目を向けた。


「奏ちゃんのヴァイオリンも調弦してあるから。楽弓の準備はしてないけど」


「ああ、ありがとう」


 奏はこのとき、心から、綺音と同じ種類の松脂を使っていて良かったと思った。


「美弦。わたしたちが音だししてるあいだ、読譜しておいて」


 すると、眠たそうな美弦に笑顔が浮かんだ。


「良かった。初見で伴奏するの、僕は好きじゃないから」


「知ってる」


 いつもより無感情な綺音だったが、美弦は気にしていないらしい。ピアノの前に座って椅子を調整すると、指ならしに普段から弾くショパンのエチュードを軽く奏で、やがて渡された楽譜を恐ろしい速さで読みはじめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る