第6話 楽譜庫にて
楽譜庫は、1階にある。
綺音は宿題を2階の自室に、奏は居間に取りに行った。
居間に綺音が降りてくる。
「お待たせ、奏ちゃん」
「うん」
綺音の先導で、奏は居間を出て廊下を進んだ。壁の銅版画を見ると、それは古い楽器の絵だった。
長い廊下だ。
本当に迷ってしまいそうである。
「こっち」
左に曲がってすぐの扉を綺音が開けた。
四方の壁すべてが、扉と窓を除いて、天井まで棚になっている。その棚の殆どに楽譜や音楽辞典などの本が整列していた。窓は風を入れるためだけのものらしく、細長くて遮光ガラスが入れられている。カーテンはない。
部屋の中央にある大きなテーブルに、座り心地の良さそうな4脚の椅子がセットされている。テーブルの真上に電灯が下がっており、綺音がそのスイッチを入れた。
しかし、彼女はテーブルの奥にあるソファに身を沈めた。
「綺音」
「5分だけぇ」
彼女はクッションを抱えて、大きな吐息を放った。
仕方ないな、と奏は時計を見る。9時。就寝前に入浴することを考えると、あまり、ぐずぐずはしていられない。
テーブルにつき、問題集とノートを広げる。筆記用具を鞄から取り出し、彼は宿題にとりかかった。この問題集の10頁ぶんも問題を解かなければならないのだ。
1頁が済んだところでソファを眺めやると、綺音が目を閉じている。
「綺音!」
大きな声で呼んだが、返事がない。
大きな動作で奏は立ち上がった。大股でソファまで歩み寄る。
「綺音!」
抱えているクッションを取りあげてやると、がくっとして彼女は目を覚ました。
「あー……わたし、ねてた?」
「いやいやいや、勘弁してくれる?」
「んー、眠たいぃ」
目がとろんとしている。
奏の胸がどきどきしてきた。
両手で頬を挟み、
「宿題やりたくないよぉ」
呻いた。
「明日の朝、もいっかいソナタやるんでしょ? 宿題終わらせなきゃ、できないよ」
「んー、それはイヤぁー……」
綺音が大きく息を吸った。
「……うう、わかったぁ」
頬をのばし、そのまま腕を上にあげて背伸びする。
可愛い顔をくしゃっとさせて、思いきり伸びをした。
「1時間で終わらせよう。11時には寝ないと」
「……さきにシャワーあびてくる。目ぇ覚ましてこなきゃ」
目をこすりながら言う綺音に、奏はため息を押し殺す。
「どっちでもいいよ。でも、おば……結架さんに言ってきたほうがいいと思う」
「めんどくさ」
「綺音」
「そしたらソルベがおそってくるぞー」
綺音の目が、すこしパッチリ開いた。
奏が苦笑する。
「全員が風呂から出るまで待ってもらおう」
「リョーカイ。じゃ、30分、待ってて。行ってくる」
綺音が頑張って立ち上がり、手のひらをひらひらと振って、楽譜庫を出て行った。奏は問題集に向き直る。
あと残り3頁になったとき。綺音が戻ってきた。
「おまちーっ」
「ああ──って、綺音! 髪かわかしてないじゃん!」
「いいよ。もう冬じゃないんだし」
けろっと彼女は言った。どうやら眠気は醒めたらしい。
ミントグリーンのパジャマにパールホワイトのカーディガンを羽織り、頭にタオルを巻いている。まったくもって無防備な姿だ。手にペットボトルの水を持っているところを見ると、どうやら母親には状況を説明したようだ。
綺音はあっけらかんとして、
「それに、このほうが目がさえるもん」
奏は大きなため息をついた。
「仕方ないな。寒くなったら言うんだよ」
「だいじょうぶー」
綺音は楽しげに笑った。
無邪気な笑い声に、奏は複雑な気持ちになる。それを振り払うようにして、綺音のノートを開いた。
「じゃ、問題。やるよ」
「うん」
とてとてと歩いてきた綺音が、奏の隣に座った。
「これ公式あるやつ?」
「もちろん。あ、でもひっかけがある。違う公式つかっちゃ駄目だよ」
「げぇー、意地悪いのね!」
「そういう論理を解くのが数学。はい。途中から国語の漢字問題になるから。先に数学やっつけよう」
綺音の顔が歪んだ。
「漢字ぃ? やだやだ。わたし、漢字キライ」
「知ってる」
「平安時代は仮名だけでもよかったんでしょ。漢文とは、国語が別だったんでしょ。なんで、くみこんじゃったりするかなぁっ」
なんだか滅茶苦茶な怒りを吐きだしている。
奏は澄ました顔で答えた。国語が別だったかどうかはともかく。
「それが合理的だから。それとも、漢字オンリーで良かったわけ? 同音異義語の区別とか便利でしょ」
「うっ。ドーオンイギゴね。それもキライ」
ふてくされた。でも、可愛い。
奏は笑い出しそうになるのをこらえる。
シャープペンシルを指先でくるり、と回した。
「ま、とにかく進めよう。解らなくなったら、とばしといて。ぼくも解説みないと助けてあげられないけどさ」
「奏ちゃんが教えてくれるくらい頭よければいいのに」
「すみませんね」
「いーえ。綺音のおばかさんなのがいけないんですからー」
語学は日本語、英語、イタリア語に不自由していないのだから、彼女は決して馬鹿ではないと奏は思う。むしろ、英語は綺音にかなり教えてもらっている。
彼女は音楽家として生きる将来のために、生まれたときから両親に語学を叩きこまれてきたのだ。曜日によって家族のあいだの使用言語は異なる。月曜と火曜はイタリア語。水曜と木曜は英語。金曜と土曜と日曜は日本語だ。ただ、来客のときは日本語で良いのだという。
美弦もそれは同じで、日常会話に不自由しない。
そのかわり、というべきか、綺音は漢字が苦手だった。
「さあ、頑張りますかぁー」
観念した、というような綺音の様子に、奏は今度こそ笑ってしまった。
「なによう。なにがおかしいの?」
じろりと鳶色の瞳に見つめられて、奏は咳払いして誤魔化した。
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