第5話 寂しい夜にはチョコレートを
「あ、そういえば、おじさんは?」
デミグラスソースの付いた口を拭い、奏が訊くと、結架が小さく微笑んだ。すこし寂しげな笑みだ。
「あら、綺音から聞いていなかった? 昨日から、アメリカに行っているのよ。」
「そう、そう。パーパのことは言ってなかった。ボストンだっけ? マンマ」
ロールパンをちぎりながら、綺音が訊く。
「それと、シカゴとニューヨークよ」
「帰ってくるのは、3週間後だよね」
早々と食べ終えた美弦が、大好きな紅茶を手に、おっとりと言う。
黒っぽい茶色の髪が、さらさらと揺れた。姉のカールした髪とは全く違う毛の質だ。
結架が空になった美弦のカップに紅茶を注ぐ。
「そうね。長いわね」
ため息をつく結架を前に、3人は顔を見合わせる。
「大丈夫よ、マンマ。パーパのことだから、しょっちゅうメールを送ってくれるわ」
「電話もあると思うな」
「3週間なんて、あっという間ですよ」
かわるがわる言葉をかけると、結架は大きな目を細めて笑顔になった。
「ありがとう、3人とも」
そして、奏の母から渡されたという彼女お手製のロールパンを山盛りにした籠を手に、
「みんな、お代わりは?」
3人は、いっせいに、首を横に振った。
既に3人とも、腹八分目を越えている。奏などは、ハンバーグを3つ、スープを2杯、サラダを1皿、ロールパンを4つも食べているのだ。完全に満腹だった。
「あら、そう?」
細い身体でハンバーグを3つ、スープを2杯、サラダを大皿で1皿、ロールパンを6つ食べ終わっている結架が小首をかしげる。彼女の燃費はどうなっているのだろうかと、奏は疑問に思った。
食欲も結架似の美弦だが、さすがにもう一口も入らないようで、小さな空気を口から吐きだした。
「そうそう。百合香さんから、アップルパイもいただいたのよ」
3人は、もう一度、顔を見合わせた。
「マ……マンマ! わたし、アップルパイは明日に食べたいわ!」
「あら、そうなの?」
「西澤先生の大好物だから、明日、一緒にいただきましょう」
奏が援護する。
結架が無垢な笑顔を浮かべた。
「そういえば、そうね。じゃあ、そうしましょう。バニラアイスを用意しておくわ。となると、今日のデザートは、ソルベでいいかしら? ラズベリーがあるわ。それと、ピスタチオのアイスクリームも」
まずい、と綺音と奏は焦る。
すると、紅茶をなんとか流しこんだ美弦が穏やかに言った。
「僕、お風呂上りに食べたい」
その言葉に、2人も飛びついた。とにかく今は、もう水もお腹に入りそうにない。
「それ、いいわね!」
「ぼくも、そうしたいです」
追随した姉と幼馴染みにちらりと視線をよこした美弦が、沈黙して母親を見上げる。
ロールパンの籠を手にしたまま、結架は答えた。
「わかったわ。そのころに用意するわね。じゃあ、さきに宿題を済ませてしまいましょうか」
綺音の表情が翳ったが、奏が笑いかけたので、その強ばりはうっすらとなった。
綺音が立ち上がり、皿をもちあげる。
「あら、いいのよ。片づけは、私がするわ」
「じゃあ、キッチンに運ぶだけ」
広い食堂を横ぎり、綺音がキッチンに向かう。同じように皿を持って、奏と美弦も続いた。
「あー、危なかったわ」
「毎日、こんな感じなんだっけ」
「うん。マンマのごはん食べなさい攻撃。もう慣れたけどね。毎朝毎夕だもの」
「大変だな」
「最近、マンマの食欲が
小さくため息をついた、その響きに、奏はどくりとする。
小声でこそこそと話していると、後ろから
「シンクに置いておいてくれればいいわよ」
「はぁい」
「はい」
慌てて内緒話を中断する。
細い指さきでパセリを皿から摘まみ上げ、綺音が生ごみポットにそれを落とす。彼女は食べ物の好き嫌いが多い。パセリはビニールのようで厭なのだそうだ。
対照的に何でも食べる美弦は、空の皿をシンクの中に置いた。軽く水をかけて、汚れをざっと落とす。
「奏、お皿ちょうだい」
「お、ありがとう」
美弦が奏の分の皿にも水をかけた。
「マンマ。僕、宿題ないから、洗い物やるよ」
既にスポンジを手にした美弦が言う。
結架が嬉しそうに微笑んだ。
「まあ、ありがとう、美弦。それなら、お願いするわね」
美弦は家族思いだ。
いつも、家族の誰かのために何かをしようとする。
すこし不器用な綺音のために、ヴァイオリンの弦の張り替えもマスターしたほどだ。父親のために、オーボエのリード作りもこなす。
その綺音は、奏とともに宿題をするため、大きな机のある楽譜庫へと向かった。
「休んでて、マンマ」
そう言ってから、美弦はスポンジに洗剤を含ませた。この家は食洗機を置いていない。食器乾燥機はあるが。それは、結架の主義だった。
さすがに結架は首を横に振る。
「ありがとう。でも、ソルベの準備をするわね」
棚からラングドシャーの箱を取り出し、調理台の上に置く。そして、食器棚から白いデザートプレートを出してきて、冷凍庫の中に入れた。ソルベをすくうためのスプーンも、ラップフィルムに包んで一緒に冷凍庫に入れる。柄の部分が木製なので、使うときに手を傷める心配はないだろう。
そして、夫のコレクションが並ぶ大きな紅茶の収納庫を開けた。アメリカに出発する前に封を開けたばかりのセイロンティーがいいだろうか。それとも、ダージリンだろうか。迷った結架が美弦に声をかけると、彼は短く即答した。
「ケニルワース。ストレートで」
紅茶については、父親からいろいろと講釈を受けている美弦のことだ。ラズベリーとピスタチオのソルベに合うだろう。
結架はポットとティーカップをセッティングしながら、夫のことを思いだした。どうしても銘柄を決められないときは、セイロンにするといい。彼は、そう言っていた。
「マンマ」
美弦が濯いだ皿を手にして呼びかけてきた。
「水の用意は、僕がするから」
空気をたくさん含んだ水が紅茶には適している。彼は、父親が常備している白神山地の水が好きだが、そのボトリングされた水では、空気の含有量が足りないと言い張る。そこで、ボトルを振って空気を含ませる作業をするのだ。それは、美弦の気が済むまで。
結架は頷いた。
「ええ、よろしくね」
「うん」
最後のグラスを洗い終えて、食器乾燥機にセットしてスイッチをオンにする。手をタオルで拭うと、美弦はチョコレートを選んでいる結架の隣に立った。
「ホワイトチョコレートがいい」
「そうね。ホワイトチョコレートが合うわね」
板チョコレートを溶かす準備と、絞り袋の用意をする。
「刻む?」
「ええ。粗めでもいいかしらね」
「お湯を沸かすね」
「まあ、ありがとう」
ガスコンロに鍋をかけて、火をつける。
美弦は火加減を見ると、満足げに微笑んだ。
「僕も刻みたい」
ホワイトチョコレートをナイフで刻む結架に、美弦がせがんだ。
「二人でやれば、早いわね」
小さなナイフとカッティングボードを戸棚から出してきて、結架はチョコレートの塊とともに渡した。
しばらく二人でチョコレートを刻む。二人とも、無言になった。
「できた」
先に終えていた結架がお湯の温度を測っていると、クッキングペーパーの上にチョコレートを集めた美弦が声をかけた。
「マンマ。ボウルに入れるよ」
「ええ、いいわ」
結架はお湯を張った大きなボウルを調理台に運ぶ。そこに、別のボウルに入れた三分の二の量のチョコレートを美弦が持ってきた。ボウルを重ね、チョコレートをあたためて溶かす。湯気や水蒸気が入らないように注意しながら、チョコレートをへらで混ぜていく。結架がその作業をしているあいだに、美弦がさらに別の大きなボウルに氷水を用意した。
「ありがとう」
チョコレートが四五度になったところで、結架は湯せんを外し、残りのチョコレートを加え、空気を含ませないように混ぜていく。なめらかでダマのなくなった状態になるよう混ぜながら、温度計の表示が下がっていくのを見つめる。美弦の用意した氷水にチョコレートのボウルをつけて、二六度になるまで冷やした。
この作業は、チョコレートの艶と濃度を一定に保つために必要な工程で、テンパリングという。
結架のもとに、美弦が大理石のカッティングボードとパレットナイフを持ってきた。それを受けとり、結架はチョコレートをすくってみた。しばらくおいてしっかり固まるのを見届け、結架は頷く。
「うまくいったわ」
大理石のカッティングボードの上にクッキングシートを広げ、絞り袋に入れたチョコレートを流して模様を描いていく。ソルベの飾りにするのだ。円形に絞りだしたチョコレートは、台座にする。結架が器用に絞りだすのを美弦はキラキラした瞳で見つめた。
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