第4話 小さな怯え

 レッスンが終わり、西澤が帰っていくと、奏も帰ろうとヴァイオリンを拭ってケースに収めた。


「あれ、もう帰っちゃうの?」

 背中から綺音の声がする。

「今日の宿題、すごい量だよ。忘れたの?」

「ああー」

 厭そうな綺音の声。


「夕食、食べてってよ。マンマが煮込みハンバーグ作ってくれたの。そのあと、も一度ソナタをやりたい」

 思わず顔を近づけて、正面から言ってやる。


「しゅくだい」


「ううー」


 涙目になる。


 まったく、どんな表情でも可愛いから始末に悪い。


「あら、奏くん。帰ってしまうの?」


 結架の声が音楽堂の中に響く。西澤を見送った玄関から、わざわざ戻ってきたらしい。


「綺音は、奏くんと一緒でないと、宿題をなかなか済ませてくれないの。一緒にやってくれると助かるわ」

 奏の頬が染まる。

 にっこりと笑う絶世の美女に言われて、逆らえるものだろうか。


「じゃ、じゃあ、宿題を家から取ってこないと」


「手間をかけさせて、ごめんなさいね」


「イエイエ」


 綺音が、どこか不満げな顔をしている。宿題を先にやらされるのが厭なのだろう。たぶん、そうなれば、もう今日はヴァイオリンを弾けそうにない。


「じゃあ、泊まっていってよ」

「は?」

「あら、いいわね。美弦も喜ぶわ」

「え、でも」

「いいじゃない。明日の朝、早く起こして。それで、ソナタ弾こ。美弦に伴奏させよ」


 強引である。

 我儘である。


「それなら、百合香ゆりかさんに連絡しておくわね」


 奏の母親の名前を出すと、結架は嬉しげに笑んだ。このふたりは仲が良い。料理と菓子の教室を開いている奏の母、百合香と結架は、名前の響きが似ているだけでなく、どこか性格も似ていて、非常に気が合うらしい。休みが合うときには一緒に出かけたり、菓子作りを楽しんだりしている。


 足取り軽く去っていく結架に何も言えず、奏はため息を吐いた。

 この綺音の無防備さを、すこし恨めしく思う。

 まったく異性として意識されていない。


 実際、泊まるのは客間のひとつだろうから、なにを警戒されることもないのだが、朝、自室まで起こしに来いと言われるのは複雑だ。

「奏ちゃん?」

 その呼びかたも、複雑である。


「どうしたの、黙りこんで。お腹すいた?」


 奏は脱力する。


「……ちょっと疲れただけだよ」


「ああ、初見? わたしも疲れたな。ごはん食べたら、寝ちゃいそう」

 じろり、と奏は綺音を見つめて、もう一度言った。


「しゅくだい」


 綺音の顔が歪む。それでも彼女は可愛らしい。


「わぁかってる。やるわよ。やればいーんでしょ」


 仕方ない、と言いたげに、ようやく彼女はヴァイオリンを片づけはじめた。

 ケースの中に楽器と楽弓を収め、音楽堂の鍵を壁からとった綺音が電気を消そうとしたとき。外から懐中電灯の明かりが二人を照らした。


「綺音。奏」


 澄みきったボーイソプラノが二人を呼ぶ。

 綺音の弟、美弦だった。

「美弦。迎えに来てくれたの?」

「うん。もう、外は暗いから」

「庭の電気、まだ直らないんだ」

相馬そうまの小父さんの手には負えなくて、業者を頼むんだって」

「ふうん。ま、どうせ私たちが学校にいるときでしょ。気にしない」

 綺音が美弦の肩を叩く。


 目を疑うほど愛らしい少年は、コクリと頷いた。その様子が姉よりも可愛く見えて、一瞬、奏はどきりとする。


 美弦は容貌も性格も姉より繊細だ。おっとりとしているので、泣きだすようなことは滅多にないものの、こちらが扱いを間違えれば簡単に壊れてしまいそうに見える。


 奏にとって美弦は、生まれたときから一緒にいる弟のような存在。綺音とともに守ってやりたい。そう思っていた。


 美弦が奏を見て、にこっと微笑う。

 そのあどけなさに、奏は胸がきゅんとした。

 そして、思う。


 この美貌に慣れることはないのかもしれない、と。


 結架と同じ顔の美弦。


 そして、綺音。


 心から特別に大切なのは、綺音だけだ。


 その彼女を生んだ結架と、母と同じ顔の美弦。


 全員に胸がときめくのは、仕方のないことだろう。


 この美しい姉弟の父親には、ときめいたことはないが。それは彼が美しくないわけではなく、男性と少年の差だろう。美少女にしか見えない少年には、心が反応してしまう。


 結架と綺音と美弦。


 三人に心が反応を示さないのは、人間のオスとして、なにかが機能していないに違いない。


 しかし、奏が恋しているのは、綺音だった。


 綺音の傍にいると、心が高揚する。

 安心する気持ちと浮き立つような気持ちとが混在して、楽しくて嬉しい。


 それはとても特別な感情。


 彼女の笑顔が見たくて。

 彼女の傍にいたくて。


 離れていても、何を見ても、彼女を思いだす。


 それを自覚して、もう随分経つ。


 けれど、奏はそれをあまり表に出さなかった。


「行こ、奏ちゃん」


 にっこり笑う、無邪気な綺音。


 この無防備さが、奏への信頼と友情が壊れてしまうのではないかと懼れて。


「うん」


 ──現状維持。


 心のなかで呟いて、奏は綺音のあとについていった。

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